一・読めないんだよ
六月二日、朝。
開戦予想……最速で本日深夜。
準備状況……人間側は多くの点で不十分。
戦闘状況……双方ともに敵影未確認。
地底の家には何がしかの明かりが必ず設置されている。天井を漂う靄からの光は、昼夜を問わず影ができるほど明るいからだ。採光のための窓は最低限にせねば寝るときに充分な暗さが作れないし、建材はほぼ石でできているので窓を開けても暗がりが必ずできるのだ。
長老の家もそれは同じだった。部屋の中央でくべられた香木が赤い光と強い香りを放っている。室内には長老のうちのふたりとヴァン。
「サムソンとの私闘について聞いた。耳を疑ったぞ、ヴァン……」
老魔術師アベルはそう言いながら、短杖の先と床でこつりこつりと音を立てている。普段の温厚な表情を曇らせて。
「そうか。まあ、そういうことだ。しかしあの爺さん約束を守れたんだな。そこは褒めてやってもいいかもしれないな」
当のヴァンはと言えば、悪びれるふうもなく落ち着いた口調で返す。
対して、アベルの隣のもうひとりの長老キ・ハが厳しく告げる。
「何が約束ですか。ええ、勝手に突きつけた条件についても聞き及んではいます。ですがそのような挑発が約束になるとでも?」
「けどここに今いないってのは、自分から降りたんだろ。長老を」
「そうではありません」
老婆の声は静かだが硬い。胸に押し込めているものの激しさを物語るかのように。
「あやつは姿を消した。言伝すら残さずにの」
沈んだ老爺の呟きが、長老の家に染み渡る。小さいはずの声がやけに耳に残る。ある種の絡みつく怨嗟にも似て異なる響きで。
「あなたはもう少し立場というものを弁えた若者だと思っていました。私の買いかぶりだったのかしら?」
「オレは非難されるようなことをしたとは思っていない。だがまあ、ちょいとやり過ぎたかな? あの爺いは強情だからなぁ……負けを認めてればあそこまでは……」
「もうよい!」
とうとうアベルが怒鳴った。同時に老魔術師の手の短杖が軋んだ音を立ててひび割れる。床を叩いた衝撃と激情によるマナの荒れが重なったためだろうか。それは裏を返せば短杖が、繊細な呪文を扱うために魔力を込められたことを証明してもいるのだが。
「ムゼッカの客人とはいえ、お主の行動と今の態度は容認しうるものではない」
「じゃあどうする? 追い出すか?」
「出て行きたいなら出て行きなさい」
温厚なふたりの長老が放つ苛むような視線と言葉を受けても、ヴァンの表情は伺えない。焚かれている炎の揺れは小さいのだが、その作り出す陰影の移ろいが彼の内心を読むことをより困難にしている。
あまりに自信に満ちた、不遜で、身勝手な若者。
「出て行かないなら?」
「牢とは言わぬが、司令部の天幕にでも篭ってもらう。即ち……」
厳かに長老が告げた処分は──
「無期限の謹慎じゃ」
***
陽光に煌めく恵みの庭。
降り注ぐ暖かな光に天を仰げば、そこには青空と輝く太陽が見える。果たして如何なる仕掛けなのか。
地の底の大空洞から見上げたとしても、光をもたらす均一な雲が視界を阻むはずなのに。
「何やってるんだろね。この緊急時に騒ぎを起こすなんて。ルーシャ、君はどう思う? あいつの考えてそうなことを教えてよ。恋人でしょ?」
シュタインは恵みの大樹の枝に座り、妖魔族の戦士と実戦さながらの鍛錬をしているルーシャに問う。が、彼女にのんびり話している余裕などあるはずもなく。
「恋人じゃないから」
目もやらずに一言。そのまま間合いを取ったバゼットに向かっていく。樹上の魔術師はへぇ、と気のない声を返すしかない。
バゼットは両の腕に一本ずつ鉄製の杭を構えている。打たれれば骨に響き、突かれれば肉を深く抉るその武器を、この元魔将は自在に操る。
直線軌道にもかかわらず変則的に見える近づき方をするルーシャに対し、片足を斜め後ろに踏み出して距離感を測り直すバゼット。
「まあ、ここまでいろいろとやってもらったみたいだしね。後は僕たち自身で何とかするしかないんだろうね」
またひとつ手近な実をもいでそう言ったシュタインの口調はどことなく投げやりだ。
「あぁ? おめえは里を離れて久しいじゃねえか。ちょいと帰省した放蕩息子が今さら地元面しやがんのか?」
皮肉るムゼッカに張り付いたような笑みを返して若い魔術師は、
「まあ、今さらだけど思い出したと思っておいてよ。ここが故郷だってことを、さ」
倒木に腰掛けた達人は、せせら笑うような息を漏らしたが、次いだ言葉は裏腹に優しいものだった。
「帰ってきた時ぐらい孝行ってか。それでも、そうできるだけいいやな」
バゼットの連撃が途切れる一瞬を捉えたルーシャが、長身の妖魔の懐に入り込み脇腹を肘で打つ。打たれて浮いた片足を踏み直してそのまま跳躍しても、ルーシャは影のように追従する。主導権を奪い直してからの連携は技を組み変えつつ、彼女の動きを加速していく。
「他にも気づいた連中がいるみたいだしさ。僕もそれに一枚噛んでみるよ」
***
訓練を抜けだしたふたりは風にそよぐ木の葉の音に紛れるようにして、言葉を交わしていた。
信じられない。イオの表情がそう語っている。子供っぽいロビンは真剣な面持ちだ。
「お前だけに責任は負わせないさ。オレがけしかけて、祀り上げて、仕方なく戦士団長になった。そういうことにすればいい」
「僕のような若者には務まらないよ」
「じゃあ誰になら任せられる?」
背の低い少年は腰に手を当てて顔を突き出す。優しい物腰の青年は顔ごと背ける。
「君がやればいいだろう」
「オレは偵察兵だ。偵察兵が戦士の指揮は執れない」
確かに、サムソンが叩きのめされたことも姿を消したのも聞いたが、そこからどう飛躍して自分が戦士団長になる話になったのか。
「これまで通りでいいわけねえだろ。状況ってのは変わるんだよ。ムゼッカ様もアベル様もキ・ハ様もいい歳なんだ」
それに、噂になっている妖魔族の大規模侵攻。確かにこのままでは不味いのだろう。しかし──
「迷っているようだね。じゃあ僕からも一言、いいかい?」
聞き慣れない声にふたりが目をやれば、木陰から現れる長衣姿。恵みの果実をひとつ持ったシュタインである。
「ヴァンは最初からそのつもりだったんだよ。任せるならイオと決めて、サムソンに喧嘩を売ったんだ」
ほれみろ、と得意そうに少年は唇の端を吊り上げた。
「あいつの筋書き通りになっているんだから、不安がることはないよ。君が立てば、周りはついてくる。君次第なんだ」
長く息を吐きだすと、槍使いは諦めがついたようでロビンに向き直った。
「長老様に申し出てくる。けど他に誰か名乗り出る者がいたら、どうなるかは分からないよ」
「ロビン様が口添えするから安心しろ。ってか、ひとりで行こうとするな馬鹿」
歩き出すふたりの背に向かって、魔術師は軽く声を投げた。
「ヴァンのことは言わないようにね。印象最悪だろうし」
それに、ヴァンはそんなこと一言も言っていないしね、というのは口には出さなかった。
***
大型の斧を持った丸顔が頼りなくたたらを踏む。
「緑の布で見分ければいいんだろ?」
棘付き棍棒と楯を振り回しながら髭面が突進する。
「お前、ちゃんと聞いてたか? 結び目がこうなってるんだよ」
長剣を下に構えて禿頭が汗を拭う。
「一回で覚えてよ。その結び目の妖魔は敵じゃないんだ」
槍を抱えながら結び目を作ってみるのは眼帯をつけた女。
「裏切り者ってことだろ?」
大剣で斧を弾いた赤ら顔が力強く踏み出す。
「もう少し言い方あるだろ」
新しい指揮官の任命直後の合同訓練。無駄口も多いが、乱戦を想定しての指揮でイオとロビンは早々と兵たちの信頼を得ることに成功しつつあった。
ただ、当然ながら面白く思わない者もいる。壮年や老年の兵たちだ。サムソンは確かに横暴な男だったし、憎まれてもいた。だが余所者の魔術師がそれを引きずりおろし、後釜に座ったのはまだ二十歳そこそこの若造。
簡単に認められるものか。
***
六月二日、午後二時過ぎ。
開戦予想……最速で翌朝か。
準備状況……人間側は多くの点で不十分。
戦闘状況……双方ともに敵影未確認。
「だからよう、オレに任せろってんだよ」
訓練中のアベルを訪ねてきたのは筋肉質の男だった。遠くから見たら中肉中背であるから、元は痩せているのだろう。だが背負う大剣は身の丈ほどの長さがある。似合わない、とも言われる。どう見ても、無理をして振り回しているようにしか映らないのだ、この剣を扱う彼の姿は。
しかし、だからこそ執着するのだろう。
幼い頃はただ細いだけの少年だった。戦士には向かないからと、偵察兵の訓練を勧められていた。が、身を隠し、走り、弓で狙う、そうしたことに彼は我慢ならなかった。
ゆえに、剣を取った。重すぎる獲物にふらつきながらひたすら振るい続けたから、今の自分がある。自他共に認める、里一番の大力。
名を、ケネスと言った。
「だが、戦士団長はもう決まっているのだ」
老人は眉を顰めた。なぜ今頃、と。もしイオより先に名乗りでていたなら、あるいは同じ頃でも、間違いなくケネスを団長に据えていただろう。経験を考えてもそれが妥当だ。
「だったら、半分にでも分ければいいじゃねえか」
キ・ハにも相談してみねば、と言って歩み去ろうとした皺くちゃの魔術師の背に戦士は言葉を投げる。
「長老の方でもいいんだぜ?」
アベルの足がふと、止まった。
アベルとしても、余所者ヴァンの策に助けられ、やはり若いイオとロビンがあっさり並んでくるのは認め難かったのだ。そのため、イオを長老に据えてはいない。ならば……。
こうして、三長老に戻ったわけだが──。
***
三度目の舌打ちが耳に入ってしまう。童顔の相棒はさっきからため息を繰り返してばかり。小柄な体をせわしなく揺すっている。向かい合わせでそれを見ているイオの方も、ため息をつきたくなった。
「ロビン、しょうがないじゃないか。長老が任命されたんだから」
そして煮込み野菜を口に運ぶ。イオの食べっぷりは上品で、相棒とはまるで対照的だ。少年のような偵察兵と少女のような戦士団長が夕食を摂っているのはロビンの部屋である。
飾り気のない部屋だが本や衣類でやや散らかっている。帰る前に片付けようとイオは思っている。この友人は不機嫌になるとすぐに掃除を怠るのだ。
「オレっちが苛ついてるのはアベル様のこともなんだよ!」
まあ、無理もないことだが。今日の訓練の最後は滅茶苦茶にされてしまった。ふたりは予定通りに訓練を進めていくつもりだったのに、戦士代表の長老になったというケネスにあれこれ文句をつけられて、言い争いに終始してしまったのだ。
「僕は戦士団長を降りた方がいいんじゃないかと思うよ。僕には荷が重いと思っている人も多いだろうし」
「お前は降りるな。オレっちが何とかしてやるから。それに、ヴァンだってお前に期待してるんだぞ?」
そうだね、と弱々しく返すが、実際どうするべきなのか。第一、当のヴァンは謹慎処分を受けている。話をしたいところだが、若い世代と上の世代の対立という構図ができてしまっている。今会いに行くのは何かと問題になりそうだ。
じっくり時間をかけて考えたかった。だが、妖魔族の大規模侵攻がそれを許さない。
「そんなに心配すんなって。今日はとにかく寝よう。力を蓄えとかないと、な」
「……分かったよ」
イオは不思議に思う。ロビンはなぜこうも強気でいられるのだろうか。強がっているのだとは思う。彼はお調子者ではあっても、強い責任感を持っているのだ。
イオが洗い場に運ぶために食器をまとめ始めると、ロビンの方は床にある本を拾い始めた。自分で片付ける気になったようだ。
「ロビン」
「あ?」
イオは愛想の悪い返事を気に留めることもしなかった。
「ありがとう。おやすみ」
「ああ」
ロビンは顔を背けて本を棚にしまいながら生返事をし、付け加えた。
「ちゃんと寝ろよな」
自分は寝ないつもりの癖によく言うよ、とは心の中だけで呟いた。
***
天幕の分厚い布は外の光を完全に遮っていた。燭台の蝋燭はとうに燃え尽きている。替えることはしていなかった。そんな闇の中で、ヴァンは片膝を抱えている。
明かりを灯す呪文すら使わなかった。長くそうしていたことで時の感覚は希薄になっていた。闇の中、何が見えるわけでもないのに目だけは開いて漆黒を見つめていた。
ふと我に返る。足音が近づいてきたからだ。部屋の入口の布が捲られて、同時に光が侵入してきた。シュタインだった。
「うーん、何をしてたんだい? 真っ暗じゃないか」
「何もしていなかったから真っ暗になったんだよ」
入ってきたシュタインを見ようともしない。シュタインからもヴァンの表情はよく見えなかった。
「里で今、何が起きているかは分かっていると思っていい?」
「大体はな」
「どうするつもりなんだい?」
ヴァンはちらと目を向けた。
「成り行きを見守っている」
「これからのことを聞いてるんだよ」
「だから、成り行き次第だ」
どちらからともなくため息が漏れた。
シュタインは持っている杖を左右に振る。それに合わせて影が踊るのを楽しむように。
「知ってるかもしれないことも一応、伝えとくよ。射出の訓練の方は順調。パティがいるからね。ふたつの呪文しか扱えないって女の子が正確さも力強さも他の魔術師たちより抜きん出てしまうものだから、みんな大慌てでね。いい刺激になってる」
短い呼気がシュタインの耳に届いた。表情は伺えないが、ヴァンが笑ったのだろう。
「ルーシャとムゼッカからは伝言。妖魔族が来たってふたりの辻風使いがいるから、君はずっとそこに居ていいそうだよ。心配は無用だそうだ」
「訓練は順調ってことか」
「どう受け取るかは君次第だからね。で──」
シュタインは杖を振るのをやめた。天幕に映る影が静止する。
「君の方の用件を聞かせてくれるかい?」
「じきに大鴉が到着する。妖精族の宝具が届く」
「なるほど。僕が受け取りに行けばいいんだね」
肯定は微かな唸り声にしかならなかったが、シュタインは快諾して、身を翻した。
「代理のことは伝えてある。悪いが、頼む」
入り口の仕切り布を捲りかけて、長髪の魔術師の動きが止まった。
「君は先の先まで計算しているんだと思ってたけど、そうでもないみたいだね。駒取りみたいな遊戯ごとは苦手でしょ?」
「遊戯と呼ばれるようなものには、概ね興味がない」
少しの沈黙の後、布が捲られ、落ちる音がして──再び、闇が訪れた。
「文字でもないものは読めないんだよ」