一・ちょっと遺跡まで
太陽には言葉もなかった。
それはそうだろう。雲が空を分厚く覆い尽くしてしまい、大泣きしているのだ。しかも泣いている理由というのが、王の退位を嘆いているというのだから意味が分からない。
太陽を天空の玉座から放逐したのは、他でもない雲自身なのに。
***
雲の涙が落ちる音は酒場の雑音をかき消すまでになっていたので、ヴァンは声を張り上げざるを得なかった。
黒髪に同色の瞳の青年である。動きやすいように、長めの髪を後ろでひとまとめに括っている。着ているのは魔術師のローブだ。
「こんな天気でも馬車は出るのかい?」
赤ら顔の御者はやはり怒鳴るような声で答えた。
「客次第だ。出さなきゃ飯が食えねえし、乗る奴がいねえのに出してもやっぱり食えなくなる」
「今日はどうなんだ?」
「金のなさそうな娘っ子がひとり、乗ることになってる。そいつが来るなら出るが、来なきゃ料金が倍になる」
「到着日程は遅れないか? 本当に五日で着くのか?」
「そこまで保証はできんよ。マーヴァルの都に着きさえすりゃ、おいらの仕事は終わりだ」
***
「先生、できるようになったよ」
酒場の片隅の席で、パティは小声で呪文を唱え、様々な色の光を次々とワンドの先に灯しては消してみせた。もちろん遊びなどではなく、れっきとした魔術の訓練だ。
パティは魔術の非凡な才能を見出された、金髪の少女である。
肩までのやや癖のある髪を揺らし、好奇心の強さを物語るかのような大きめの瞳を輝かせて、呪文を唱え続ける。
魔術学校に入学させるために王都マーヴァルまで連れて行くつもりなのだが、それまでに少しでも教えておこうと、ヴァンが臨時の先生になっているのであった。
「さすがに早いな。呪文を覚えるとこからそこまで、半日もかからんか。まあ、今日は色をもっと細かく変える練習に専念しよう。そうそう、駅馬車は何があっても出るらしい」
これに答えたのは癖のない長い銀髪の娘だった。
「馬がかわいそう……」
「ルーシャ、馬はともかくお前が心配なんだが……」
「大丈夫だってば。酔ってたのは昔の話。今は平気」
「ならいいんだが……」
「姐さん、酔い止めならありやすぜ? おいらも実は、乗り物に弱くて……」
「ホッグ、あたしは本当に平気なの。それより早く、表か裏か当ててよ」
ホッグと呼ばれたお腹の出た髭面の小男は、慌てて裏を宣言した。
今はルーシャのお付きみたいなことをしているが、少し前までは山賊の一味にいた男だ。誰も信じないだろうが……。
酒場の扉が開いて、限界まで膨らんだ背負袋に潰されそうな少女が現れた。黒い髪を短めに刈り揃えている、大人しそうな娘だった。
よろけながら入ってきて、待ち合いの一角に近づいてくる。
「すみません、遅くなりました……」
「ちっ、料金は通常通りか。お客さん方、乗っとくれ!」
やがて駅馬車は視界が悪い中、ニーズの街を出た。
目指すはマーヴァル王国の同名の王都。
五月二十六日の午後のことであった。
***
ふと考えごとから我に帰ったヴァンは、遅れてきた女の子が明かりの呪文の練習をしているパティを、ときおり盗み見ているのに気づいた。どうやら話しかけていいか迷っているらしい。
「パティ、ちょっと休まないか?」
「うん……けっこう疲れるね」
「あの……こんにちは」
案の定、女の子が話しかけてきた。パティは、自分が話しかけられていると気づくまで、少し時間がかかった。
「え? あ、こんにちは」
「ごめんなさい、さっきから見てました。すごいですね!」
「そう、なのかな? ありがとう」
照れくさそうに笑う。
「あたしパティ」
「エレンです。パティさんは魔術学校の学生さんですよね? 何年生ですか?」
「ううん、これから入学するの。だよね、先生?」
「そうだな。オレはヴァン。よろしくな」
「ヴァンさんは、どこかの学校の先生なんですか?」
「そういうわけじゃない。パティが入学するまでに少しでも成績の底上げをしてやろうと、臨時の先生をやってるだけだ。エレンは学生なのか?」
「いえ、私もこの秋に入学するんです。でも寮の部屋が早く空いたから、引っ越して来いって学長さんからお手紙が届いて。うち、貧乏だから両親に笑顔で追い出されちゃいました」
言ってエレンは笑った。
「ねえねえ、エレンって何歳? あたし十二歳!」
「じゃあパティと同い年ですね」
「だったらもっと普通に話そうよ。エレンの話し方、大人みたい」
「あ、うん。分かった。パティはどこに入学するの? 同じ学校だったらいいな」
「先生が一番いいところに入れてくれるって」
「それなら、あたしと同じテミスレア魔術学園か、王立魔術学院だね。テミスレアに来ない? きっと楽しいよ」
「いいんじゃないか? さっそく友達もできたんだし」
パティが何か言う前に答えを出すヴァン。
「やったあ!」
「ずいぶん嬉しそうだな」
「だって先生、あたし同い年の友達って初めてだもん。村には子供、少なかったし」
「着いたら学長さんに、相部屋になれないか聞いてみるね。パティが嫌じゃなかったらだけど……気が早いかな?」
「ううん、嫌じゃないよ!」
「あ、でも八月下旬にならないと普通の人は寮に住めないはずだから……」
「それくらいだったら交渉してみるさ。材料はあるしな」
「材料?」
「呪文のために通常の四分の一しかマナを使わない、ってパティの才能を見せりゃ、大抵のことは断れないだろ。よそに持ってかれたら泣くのは向こうだ。ところでエレン、君は学長さんとどういう関係があるんだ?」
「お婆ちゃんが学長さんと仲が良かったらしくて……」
エレンは祖母に魔術の才を見出され、学長に頼んで入学することになったらしい。
家が貧しいので、学費が払えないと彼女の両親が泣き言を漏らすと、それも交渉して奨学生扱いにさせたというのだからやるものである。
その後も三人はいろいろな話をして盛り上がった。
ルーシャはホッグと銀貨を使った賭けをしてしきりに笑っていた。ホッグは対照的に泣き顔。
どうせ、いかさまをされているのだろう。
***
天気のおかげで時刻は分かりにくかったが、完全な闇が訪れる前に小さな宿場町に到着した。
ヴァンは御者から指定された安宿にふたつ部屋を借りた。ついでにエレンも呼び、今は全員が同じ部屋にいる。
「考えたんだが、やはり馬車は途中で降りることにした」
「どうして?」
訊き返したのはルーシャだ。遊戯札でホッグと遊んでいる。
「偽竜だよ。どうしても気になってな。北西の遺跡群の要塞遺跡から見つかったらしいんだが、調べてみようと思う」
偽竜とは魔法で作られた怪物で、その姿はドラゴンに似ており、知性と邪悪さを兼ね備えた、生きる兵器だった。
ヴァンは一昨日この魔物を死闘の果てに討ったばかりだ。
強力な守りの護符がなかったらヴァンの方が先に死んでいた。何しろ、致命傷を肩代わりする護符が壊れたのだから間違いない。
「何が引っかかってるの?」
「持ち帰ったって遺跡潜りたちの評判を聞いたら、素人よりいくらかましって程度の連中だと分かった。とてもじゃないが、偽竜みたいなものを自力で入手できるとは思えない。だが誰かの助けを借りたわけでもなく、確かに自分たちだけで持って帰っている。それを可能にする何かがあったんだ」
「その何かを突き止めたいわけね」
「ああ。だから、予定通りなら明後日の昼前に降りる。そうだ、パティはまだマナが余ってるな?」
「うん。明かりの呪文だとがんばってもほとんど減らないよ」
「まあ、マナの量を数値化するときに単位扱いされるくらい消費が少ないからな。今から壁に呪文吸収の処理をするから、光の矢の練習だ」
「え? パティって攻撃呪文も使えるの?」
エレンが驚きの声を上げた。
「最初に教えた。光の矢は呪文を操る練習にちょうどいいからな。軌道を変化させる練習をすればいい。その軌道変化のさせ方だが……」
こつを説明していく。エレンも興味津々といった様子だった。
「まあ、パティならすぐ覚えるだろう。とりあえずは三種類、前もって設定した軌道で飛ばす、飛ばしてから軌道を変更する、飛ばしてからの軌道を三回曲げる、これらを少しの変化でいいから覚えてもらう。その前に、光の矢の速度を落として使う練習からだが。エレンもやってみたそうだな? ルーシャ、光の矢が二本になっても平気か?」
「ゆっくり飛んでくるんでしょ? 二十本でも平気じゃないかな」
「あたしもお邪魔していいんですか?」
「ああ。やってみな。面白いぜ」
ふたりとも筋は良かった。
パティはエレンという競争相手がいることで、いつも以上に集中しているように見えた。結局マナが尽きる前に課題の最終段階まで達成してしまった。
「パティ、よく頑張ったな。明日の夜にはもっと変化させる練習をしてみよう。エレンも大したもんだ。基礎の呪文はひと通り使えるんじゃないか?」
「はい。でもこういう訓練は初めてでした。正直な使い方ばかりで……」
「まあ、普通はそうだろうな。ふたりともマナがほとんど残ってないから、後は……エレン、パティに読み書きを教えてやってくれないか?」
「え? パティって読み書きできないんですか? じゃあどうやって呪文を?」
「丸暗記させただけだよ。文字をゆっくり読むことはできるようになったが、書く方じゃいくつかすぐには思い出せない字がある。今日は調子がいいからな。そっちも一気に進むんじゃないか?」
「先生の意地悪!」
平和に夜は更けていった。
***
地上からは見えない星たちに慰められたとみえて、翌朝には雲は大泣きをやめ、地に落ちる涙もだいぶ勢いを減じていた。
駅馬車も順調に進み、次の宿場町へは雲が赤くなってからほどなく到着した。ここでもやはり安宿を指定された。宿となんらかの約束でもあるのかも知れないとヴァンは思った。
昨日と同じような一幕の中で、ついにパティはすべての文字を滞りなく書けるようになった。綴りで間違えることはあるものの、これは大した進歩だった。
ただ、残念なことにヴァンはその頃、御者と話をしていた。
***
「途中で降ろせ?」
「立ち寄りたい場所があってな。料金は全額ちゃんと払う。文句はないだろう?」
「ふん……どこで降りるって?」
「街道沿いの次の村か町がいい」
「降りるのは何人だ?」
「四人」
「分かった。好きにしな」
「ありがとさん。これで一杯飲ってくれ」
金貨を一枚置いてヴァンは席を立った。
***
部屋に戻ったヴァンは、色とりどりの魔法の明かりがたくさん灯っているのを見て面食らった。
「何してるんだ?」
「パティが文字を書けるようになったお祝いに、明かりの呪文でおめでとうって書いてたの。色もつけられたらよかったんだけど……そういえばあれってどうやるんですか?」
「マナの属性を変化させるんだ。呪文文章は一文字もいじらない」
「マナの属性?」
「エレン、マナを生身で感じ取る訓練はしたか?」
「はい。静心応魔ですよね? 修行の最初くらいにちょっとしました」
「マナに色がついているように感じられたことはなかったか?」
「そういえばそんなこともあったかも……」
「感情が昂ぶってる人間のマナは、属性が表に出やすい。色となってな。今のパティのマナを感じてみな」
「……少し青いような……」
「青は水のマナの色だ。赤は火、黄が地、白が風。属性を出していないマナは実は薄い緑だ。無のマナとも言う」
「先生も水、ルーシャさんは風、エレンとホッグさんは地だね」
「え、パティ、そこまで分かるの? だって色が……」
「パティはこれが得意なんだ。下手な呪文よりも信頼できるくらいにな。感情が昂ってなくてもマナの色はちゃんとあるから見分けられる……あの御者、火だな」
「すごい……」
「で、マナの属性は個人に備わった資質だから変えようがないが、マナの一部を別の属性に変えることはできる。もしできなかったら自分の属性以外の属性呪文は、絶対に使えなくなっちまうからな。そうやって変えたマナを使って明かりを唱えると光に色がつくわけだ」
「先生、属性呪文って?」
「火の呪文、氷の呪文みたいに、元素と関係が深い呪文だ。攻撃用の呪文に多い。例えば火球爆発とかな。自分と同じ属性の呪文は扱いやすい。たぶん威力も増すはずだ」
「あの……ヴァンさん、王都に着くまで私の先生もしてもらえませんか?」
「すまん。オレたちは明日、馬車を降りるんだ。寄って行きたい所があってな」
「そうでしたね……どこへ行かれるんでしたっけ?」
「ちょっと遺跡まで、な」