三・逃げるぜ
「屈辱だ……屈辱だ……」
物陰に隠れて第二要塞遺跡の入り口を見張りながら、ギッケルはひたすら呟いていた。
「ナガルフォン殿の不興を買ったとはいえ、このような仕打ちがあっていいのか?」
落とし穴に落とせばすべてが終わるはずだった。あの高さから落ちてなお生き延びるなどと予測し得ただろうか?
「私は追跡者だ。狩人だ。獲物を探し、追い、捕らえ、時に殺すのが私の役目だ。それがどうだ? 今は誰も訪れるはずのないけちな遺跡の見張り……屈辱だ……」
唐突に、ギッケルの言葉が途切れる。言葉だけではない。呼吸も、心臓の鼓動すらも止まっている。魔術で時を停められたのだ。
「そいつは難儀だったな。オレとしちゃ、ムゼッカのところに導いてくれたお前には恩があるようなもんだから……」
ヴァンは見張りに格下げされたギッケルに盲点の呪文をかけてから言葉を続けた。
「なるべく死なないですむようにしてやるさ。いや、声で気づけてよかったぜ。あの鎧を着てたときは見た目なんざ分からなかったからな」
停まっていた時が動き出したが、遺跡にヴァンが入っていくのを、彼はただ愚痴を呟きながら見送った。
***
精霊の灯火の呪文を唱えると、黒に包まれていた遺跡の内部が色を取り戻した。古代の血痕まではっきり映し出される。
「久しぶりだね、あたしを呼ぶの」
声の主は光源たる小さなランタンを両手で持っている少女だ。ただし、その全身は淡く光を放っており、背には蝶を思わせる羽がある。そして小さい。身長が二十センチほどしかない。
「ルーシャが白い目で見やがるからな、お前と話してると」
「あたしが幻だから?」
光っていなければ小妖精と見分けがつかないが、精霊の灯火の呪文で姿を表す幻影である。どういう仕組みか、喋ったり記憶したりする能力もあるらしい。
「そんなとこだろ。問題の部屋は、方向で言うと入り口のほぼ正面、高さがニ階の場所にあるらしい。妖魔たちはいくつもの部屋や通路を通ってそこにたどり着いたらしいが……分かるだろ?」
「近道が隠されてる?」
直線の通路の先は左右に伸びる通路に出て、正面が壁になっていた。その壁をしばらく見ていると、長方形に光の切れ込みが走り始める。
「ほんとにあったね、隠し扉」
「予想通りってやつだ。問題はその奥だな」
全知で調べてみると、開け方はゆっくり力を込めて押すだけらしい。あまりに簡単すぎるので罠の存在が疑われた。だが、全知では罠の存在は確認できない。
「罠はないか……もう少しマナを送るから、奥の方まで照らしてくれ」
「はーい」
緑色の光が強くなるにつれて徐々に壁が透き通って、その向こうに続く上り階段が見え始めた。
「上の方も頼む」
「うん」
階段を少し進んだ真上あたりに蝙蝠のようにぶら下がっているものが見えた。身を縮めているが一メートル弱の大きさがあるそれは、ただの蝙蝠ではありえない。似たようなものがさらに奥まで七つ並んでぶら下がっている。
「なんだろね、あれ?」
「魔法生物と見てまず間違いないだろ。たぶん合言葉か何かを提示しないと襲いかかってくる仕組みだ」
「合言葉、分かる?」
「調べようもないだろ。強行突破する」
改めて全知で七体を調べてみる。やはり魔法生物で間違いなかった。材質は岩と鉄を魔法で融合した珍しいもの。そして、理由は不明だが火の属性と炎熱への防護効果が付与されているのを確認した。通常詠唱で呪文を用意する。すなわち、水の鎧、そして遅延待機を施した吸精掌を十回分、見えざる拳を五回分。
「さて、お邪魔しますかね」
「派手に暴れるんでしょ?」
「その方が好みだろ?」
「大好き」
扉に体重をかけるようにしてゆっくり押す。二秒ほどで自然と開き始めた。埃の積もった隠し空間に踏み入り、そのまま階段を登る。反応があったのは中程まで登ったところだった。七体の魔法生物がまとめて落下してきた。
真上から落ちてくる魔法生物を両手で脇に押しのけるようにして避けながら吸精掌を遅延解除する。マナが手のひらから流れこんできたが……
「あんまり効果的とは言えんな。もっとまとめて吸えたらいいんだが……」
「マナの回復にはいいんでしょ?」
「相手が魔法生物でこれだけじゃなあ。青惨酒の三分の一ってとこか」
会話している間にも戦闘は継続していた。上下の遠い二体がほぼ同時に魔力の矢のようなものを撃ってきた。山なりに曲線を描いて飛来するそれらを手のひらで受ける、その直前に吸精掌。
「へぇ。これなら使ってるマナをほぼすべて吸えるか。手が痛てえのが難点だが」
吸精掌でマナを吸いながら魔法生物の上を次々乗り越える。魔法生物たちは腕を模した部位で殴りかかってきたが、攻撃は見もせずにかわせる単調なものだった。準備した十回の吸精掌を使い終えたが、どの魔法生物のマナも吸いきれなかった。
二度目の魔力弾が撃ちだされる。今度は手を伸ばさずに、体を包み込んでいる水の鎧に当たるに任せる。鎧の表面で魔力弾は連続して弾けた。
お返しとばかりに一番上の魔法生物に見えざる拳を解放する。重い音を立てて転げ落ち、下の魔法生物を次々巻き込みつつ落下していく。そこに見えざる拳をさらに重ねる。
「圧倒的すぎてつまらないと思ってたらいい知らせ。そうじゃなきゃめんどくさい知らせ~」
「何だ?」
答えは天井から落ちてきた。濁った液体が雨のように降り注いだのだ。水の鎧の表面を滑り落ちるので浴びずにはすんだが、臭いが遮断されているので正体は着火するまで分からなかった。
細い稲妻が階段の中ほどに連続して落ちた。その近くで液体……油が赤い炎を上げ始める。
「このための耐熱処理か。確かにあの材質なら熱には弱かろう」
「もっと慌てようよ。つまらないよ」
炎は階段を流れ落ちる油の全体に広がった。熱で陽炎が発生して下の様子が歪んで見える。どうやら魔法生物たちは少しずつ体勢を立て直そうとしているようだった。硬いものがぶつかり合う音を立てつつ、重なりもつれ合った状態から立ち直りつつある。
「悪いが、そろそろ先に進みたいんでな。終わらせてもらう」
呪文を使用すると炎の色が赤から銀へと変化した。そして軋むような音が響き始める。陽炎には白い霧が取って代わった。軋んでいるのは魔法生物たちの体。動きがどんどん鈍っていく。
「何をしたの?」
「炎を変質させた。凍てつく炎にな」
魔法生物の体を形作っているのは性質の異なる金属と石。そのため冷却により急激に体積の変化をしだした金属と、ほとんど影響を受けていない石材部分が剥離を始めた。時折甲高い金属音が鳴り、魔法生物の体が原型を失っていく。
ほぼ同時に魔力弾を撃とうとした二体の魔法生物が音を立てて瓦解し、破裂した。その衝撃で連鎖的に壊れていく魔法生物たちに背を向けて、ヴァンは階段を登りきった。そのまま扉を開く。
ヴァンの横で灯火の精が階下を振り返った。最後の魔法生物が完全に砕けるのが見えた。
***
「大当たり」
隠し階段を抜けた扉を開けるなり、目に入ったのは広い部屋だった。五十人ほどが入っても窮屈さを感じずにすむであろう長方形の部屋。扉以外の壁面には複雑な操作盤が並び、魔法の道具も手付かずで置かれたままになっている。盗難防止の措置がしてあるのだろうとヴァンはあたりをつけた。
「ここって?」
「司令室とか作戦本部とか、そんな名前で呼ばれてただろう場所だよ。この要塞の中心だ」
答えながら室内に目を凝らす。精霊の灯火はすぐに、幻影の呪文でただの壁面に偽装された場所を見つけ出した。
「ねえねえ、何もない場所が隠してあるよ」
「それを探しに来たんだよ。何を置いてたのか、確かめにな。形は旗と分かってるんだが、実際の機能を知りたい」
旗が置かれていた場所は下面にマナ供給用の魔法陣を刻まれており、そこから太い送魔管が二方向に伸びていた。また、円筒形の透明な仕切りで防護されていて、やすやすとは触れることができないように守られている。
そして、透明の仕切りの正面に何か書かれていたらしい金属板があるのだが、その表面は刃物で酷く傷つけられていて通常なら判読できない状態だった。念入りな工作がかえって仇になり、そこに書かれていた事柄の重要性を示している。
全知で傷つく前の状態を幻視し、言語の呪文でそれを解読する。
「結界旗。マナが途絶えることがないよう、左右の魔力炉は必ず片方ずつ稼働させておくこと。陥落が確実となったときには忘れずに破壊するように……か」
「結界旗? 結界を作ってたの、その旗?」
「そういうことだな。意外と楽に正解にたどり着いちまった。まあ、手こずるよりはいいか」
隠し階段と反対側の壁の上方は透明な材質の窓になっていた。硝子のようだが製法はまるで違うことだろう。星々の光を映している窓に近づき、制御盤に手を置いて外を眺める。遠くに城の影が見えた。
「連中が求めているのは結界装置だったというわけだ。だがそれをどう使うつもりだったか?」
「難しいこと言われてもあたし分からないよ」
「適当に相槌を打ってくれればいいさ。まじめに考えるのはオレがやる」
「うーん、その旗って何本もあるんでしょ? ぜんぶ揃えたら願い事が叶うとか!」
「何本も……集める、か……てことはこの旗は……だとすると……」
「ねえねえ、話し相手させといて独り言はないんじゃない?」
「ああ、悪い。いいとこをつくからつい、な」
「いいとこ? あたしが?」
「ああ。あとは現物を拝みたいものだが……まだ地上に残ってる旗があるはずだよな。全知で……あった!」
「ちょっと、またわけ分かんないってば」
「すまんな、もう消えていいぜ」
「え? ちょ……」
精霊の灯火を解除すると同時に灯火の精も姿を消す。暗くなったのに気づいて暗視の呪文を自分にかけてからヴァンは瞬間転移した。目的地は第一要塞遺跡の司令室。
***
旗のすぐ近くに転移したヴァンは、騒音と怒号の聞こえる方を向いて身構えた。そこでは身長四メートルはあろうかという鉄のゴーレムと妖魔族が激しい戦いを繰り広げていた。
(こりゃ、妙なところに出くわしたもんだ。だが都合がいいことには違いない。さて、どうする?)
迷いは数瞬、妖魔族のひとりが何事か口にしようとしたときには無詠唱で無音の呪文を使っていた。音が聞こえなくなった空間で戦いが続いている。そこに重ねて深睡の呪文をかける。対象は魔法使いと思われる者たちのみ。反発できたものはいなかった。
そして自分は旗に向かう。全知で仕掛けを調べ、罠が起動しない手順で仕切りを外し、旗を手に取る。
妖魔族たちは不利を悟り、また目的の品が奪われたのを見て撤退の構えを見せていたが、うかつに動けばゴーレムに撲殺されるのでまごついていた。傷がないものはひとりとしていない。
そこへヴァンが追い打ちをかけた。まずゴーレムに冷気への耐性を付与し、次に小吹雪の呪文でゴーレムを巻き込んで攻撃を加えた。裏切り者の鎧を着ている妖魔が他の妖魔をかばおうとしたが、ゴーレムの巨大な拳の直撃を受けて鎧ごとひしゃげた。吹雪がやむと、妖魔族はすべて完全に死亡していた。
「さて……」
ゴーレムは次の獲物としてヴァンの方を向いた。
「オレは逃げるぜ」
ゴーレムは拳を振り上げた状態で動きを止めた。対象が瞬間転移で消えたからだった。