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第8章

 研究室のドアをノックすると「お入り」と声が応えた。

 連絡もせずにいきなりやってきた私を、西村はにこやかに

迎え入れ、デスクの前に出しっぱなしのパイプ椅子を勧めた。

 私はスチール材が軋むほどの乱暴な勢いで腰を落とした。

「また見ましたよ。つい、さっき」

「そうですか」

 さほど驚く様子も見せず、西村は一番下の引き出しから、

バーボンのボトルを取り出す。

「あれは一度見ると二度三度と立て続けに見てしまう傾向が

あるんですよ。今回のはどんな感じでしたか? 良かったら

聞かせてください」

 ミネラルウォーターの買い置きを切らしてしまったようで、

バーボンはストレートでドボドボとグラスに注がれた。酒に

強い方ではなかったが、差し出されたそれを一気に呷った。

呷らずにはいられなかった。

 デパートの屋上から飛び降りた老人の体にしがみつく四人

の少年兵。私は喉を焼くバーボンに噎せ返りそうになるのを

堪えながら、自分が見た一部始終を懸命に、つぶさに語った。

「ほお、それはなかなか」

 西村は身を乗り出して聞いていたが、メモは取らなかった。

ひと通り語り終えると、私はほっとしてネクタイを緩めた。

「大勢の野次馬がいましたが、やはり私以外の人たちには、

それは見えなかったようです」

「体質ですな。先天的なものか、後天的なものかはともかく」

「体質?」

「私もこう見えて一応は科学者の端くれなのでね。霊感とか

超能力とか、非科学的な言葉は使いたくないんですよ」

 西村は空になった私のグラスに酒を注ぎ足して、苦笑した。

「例えば、犬笛というのがあるでしょ。犬にしか聴こえない

高周波の音を出す訓練用の笛。あれの音が聞こえてしまう人

がたまにいる。あと、これもごく稀にですが、本来人間の目

には見えないはずの紫外線が見えたり、赤外線がまぶしいと

感じる人もいなくはない。それと同じではないでしょうか?」

 椅子の背もたれに身を預けて、グラスの酒を揺すりながら

西村は穏やかに語り続ける。

「あなたの場合はたまたま自殺者が発する特殊な波長を視覚

で認知できる体質だった。しかし普通に生活していて誰かの

自殺に出くわすことなど滅多にあるものではないですからな。

斉藤さんの飛び込みを目撃するまでは、あなた自身も自分に

ヘルパーが見える特殊な視覚というか、能力が備わっている

ことに全く気づいていなかった」

 私はどうにも納得できず、反論した。

「でも、今や年間で三万人が自殺する時代ですよ? しかも

これだけ人がいる大都会だ。斉藤さんと同様に、深刻に思い

詰めて自殺を考えている人とすれ違うことなど、度々あるに

違いない。体質でそれが見えるのなら、そういう人の周りに

ヘルパーが見えたっておかしくないはずでしょ。だけど私は

あのときまで、ヘルパーなんか一度も見たことがなかった!」

 西村は片方だけ眉を上げた。

「本当ですか?」

「えっ?」

「本当にそう言い切れますか? 見えなかったのではなく、

見えていたけれど、単に気がつかなかっただけでは?」

「それは、どういう意味です?」

「だってヘルパーが実際に自殺をヘルプする場面を目撃する

までは、それがヘルパーかどうか誰にも分からないでしょう。

あなたにしても、斉藤さんに付きまとう女の姿を見て、最初

はありきたりな痴話喧嘩だと思った訳だし」 

 それは確かにそうだ。しかし、やはり納得できない。私は

西村の反論に軽い苛立ちを覚えた。

「では、日常で目にしている人込みの中に何体ものヘルパー

が含まれていると? 私たちは、いや、少なくともこの私は、

これまで何度もヘルパーを見ていたのに、普通の人間と区別

がついていなかっただけだと?」

「そう考えることもできる、ということですよ」

「しかし、おかしいじゃないですか」

 私は意地になって、西村の仮説の問題点を指摘した。

「確かに斉藤さんを突き飛ばしたヘルパーは、普通の女の姿

をしていたから紛らわしいかも知れない。でも、例えばあの

少年兵たちは? もしも街中で、時代錯誤の格好をした若者

が四人も老人に付きまとっているのを見たら、すぐに気づく

はずです。それにあなたの話では、過去の歴史や現代の有名

人の姿をしたヘルパーもいるんですよね? 中には人間では

ない姿のヘルパーだって。だったら私は、ヘルパーの存在を

知る前から、仮装行列やファンタジー映画の登場人物を見る

ように、現実離れしたシュールな姿の人々、つまりヘルパー

を、至るところで目撃していたはずだ。でも、実際には何も」

 西村は、うんうんと頷きながら私の主張を聞いていたが、

やがてぽそりとつぶやいた。

「これまではね」

「何ですか? 何が」

 西村は、沈んだ口調で語り始めた。

「森の中に動物が隠れている騙し絵があるでしょう? 動物

が隠れていることに気がつかなければ、ただの森の絵にしか

見えない。しかし一匹でも動物がいることが分かると、その

瞬間から全然見え方が違ってくる。見つけにくい小さな動物

だけでなく、巨大な象や熊や、虎やライオン、そんなものが

そこにいるなんて夢にも想像もしていなかった様々な獣たち

が次から次に、はっきりと見えるようになる」

 西村は気の毒そうに私を見た。

「あなたは、ヘルパーの存在に気づいてしまった。あるいは、

自分にはヘルパーが見えるということに、気づいてしまった」

 気づかせたのはあんたじゃないかと言いかけたが自重した。

「そうなると、これまでは見えていなかったものが、いや、

無意識のうちに見えていないことにしてきたものが否応なく、

はっきりと見えるようになるはずです。森の中の動物どころ

ではないものが、真に迫って、克明に、目の前に」

 肌が粟立つのを感じた。

「それはつまり、生者や死人などの人間だけではなく、現実

離れしたおぞましい怪物の姿が見えてしまうこともあると?」

「さて、どうでしょう?」

 西村はグラスを干して、息を吐いた。

「もっと恐ろしいものが見えるかもしれません」


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