第5章
夜になって降り始めた雨が、細かい霧になって舞っていた。
私はタクシーの後部座席にうずくまり、目を閉じていた。
『惣ちゃん、あんた、なーんで陽子さんを一人でこっちに?
でも、来てたわよ。あんたから姉さんの様子を見てこいって
言われたって。そいでね、しばらくしたら、嫌がる姉さんを
無理矢理、救急車に乗せて。怖い人ねえ、あんたの奥さん』
病院だろうか。それともあのパンフレットの老人ホームか。
いずれにせよ、陽子はついに実力行使に出たわけだ。私に
無断で。母の意向も無視して、断固たる決意で。妻に対する
怒りよりも、自分の不甲斐なさがやりきれなかった。
「次の角を左に曲がって、そこで降ります。領収書は結構」
鍵は掛かっていなかった。ドアを開け放って、前のめりに
リビングに飛び込んでいく。室内灯は点いていたが陽子の姿
はなかった。うろたえて室内を見回していると、背後から声
が掛かった。
「問題ないわ。最終的には本人も納得したし」
振り返ると陽子がキッチンテーブルからこちらを見ていた。
なぜいることに気づかなかったんだろう? そうか、煙草を
吸っていないからだ。一仕事を終えたように寛いでいる妻の
様子を見ると、怒りがこみあげてきた。
「嘘を言うな。泣きわめいて収拾がつかなくなって、注射を
打たれたと」
「ほらね、そうやってすぐおばさんの話を真に受ける。入院
初日は不安でなかなか寝付けないから、注射か経口で睡眠薬
を処方するのが普通なのよ。何も知らないくせに」
馬鹿にしたように鼻を鳴らした。もう我慢できなかった。
「ふざけるな!」
つかつかと歩み寄って平手打ちを食わせる。殴ってから、
しまったと思った。これまではどんなに腹が立っても陽子に
手をあげたことはなかった。気の強い女だ。殴り返してくる
のを警戒して身構える。しかし陽子は少しも顔色を変えず、
頬をさすりながら不満げにこう言っただけだった。
「しょうがないでしょう。他に家族がいなかったんだから」
「普段は電話の一本もしないくせに、こんなときだけは都合
よく家族面か?」
「あら? 〝夫であるおれの母親は妻であるおまえの母親〟
じゃなかった?」
「それは」
私が言い澱んで懸命に言葉を捜すのを、陽子は興味深げに
眺めていた。頬は赤く腫れていたが、口元には心なしか笑み
が浮かんでいるように見えた。
「誤解しないで。私じゃないんだから。駆けつけた救急隊員
が状態を見て、入院が必要と判断したのよ。あなたにいくら
言っても埒が明かないから、こうなったらお母さんと直談判
しようと思って、勇気を奮って朝から出かけたの。そしたら
お母さん、話をしているうちに興奮してきていきなり発作よ。
あれって何度見てもびっくりするわねえ。あわてて救急車を
呼んだんだけど、いけなかったかしら? あのまま放置して
おけばよかった?」
わざとらしく目を見開いて、小首を傾げる仕草が憎々しい。
計算ずくのくせに。もう一発殴ってやろうか。しかしそんな
ことをしたら、今度こそ警察を呼ぶだろう。こいつはおれに
殴らせたいのだ。有利な条件での離婚に向けて、既成事実を
積み上げておきたいのだ。術中に嵌まるわけにはいかない。
「明日の朝一番で迎えに行く。この家に引き取る。おまえが
何と言おうとな」
私の真剣な眼差しに、陽子は笑顔で手をひらひらと振った。
「無理無理。今や主治医がついているのよ。医者があの容体
の患者をそう簡単に退院させるわけがないじゃない。当分は
動かせないって言ってたわ」
陽子はここでようやく煙草をくわえて火をつけた。
「大体あなたは直接見ていないから、そんな無責任なことが
言えるのよ。大袈裟じゃなく、本当に大変だったんだから。
目を剥いて、泡を吹いて、ガクガク震えて」
満足げに煙を吐き出す。
「本当、死んじゃうんじゃないかと思ったわ」




