第3章
乗り換えがうまくいって、何とか約束の時間に間に合った。
改札を抜けて駅前のターミナルにやってくると、少し離れた
ところに停まっていた車がクラクションを鳴らした。運転席
から西村が笑顔で手を振っていた。駆け寄って助手席のドア
を開けると、西村が怪訝そうに私を見ていた。
「どうしました? 何かありましたか?」
「申し訳ない。社内の打ち合わせが若干押してしまって」
「いや、そういうことではなくて、何か身辺に大変なことが
ありましたか?」
不意の問い掛けにどぎまぎした。
「え。いや、特に何も」
「本当に?」
西村の視線はまっすぐに私の目を捉えていた。参ったなと
思った。いささか胡散臭い雰囲気はあるが、西村はやはり博
士号を持つ心理学者だ。表情や態度から相手の気持ちを読み
取ることなどお手のものだろう。顔には出さないように注意
していたつもりだったが、部長とのやりとりで掻き乱された
私の心はまだ平静を取り戻してはいなかったようだ。それを
見透かされてしまったに違いない。
(あの程度のことで)
私は恥じ入って目を逸らした。
しかし西村はそれ以上何も聞こうとはしなかった。
「では、行きましょうか。シートベルトをお忘れなく」
車は駅前の繁華街を離れて、通夜が営まれている故人宅に
向かった。助手席で私が黒いネクタイに付け替えていると、
西村が語りかけてきた。
「女を見掛けても、騒がないで下さいよ。くれぐれも」
「はあ、分かりました」
そうは答えたものの、自信はなかった。あの女が実在する
なら、私は幻覚を見たわけではなかったということだ。どう
やったのか見当もつかないが、女は何らかのトリックで監視
カメラを欺き、男を線路に突き落として、犯行現場からまん
まと逃げおおせた。私はそのせいで嘘つきか妄想患者のよう
に扱われ、暴力を受けて仕事にも穴を開け、面目を潰された。
女を見て、とても冷静でいられるとは思えない。
「でも、あの女は殺人事件の容疑者ですよね? 少なくとも
重要参考人のはずだ。警察はどうするんですか? 女の身柄
は確保されるのでしょうか?」
「いえ、すでに自殺ということで処理されていますから警察
はもう動きません。今日出向くのも、あなたと私だけです」
「そんな。おかしいじゃないですか。目撃証言どおりの容疑
者が通夜に現れるのに警察は放置するんですか? それでは
私はともかく、被害者が浮かばれないでしょう」
あまりにも理不尽だ。つい声が大きくなってしまう。
「警察が役に立たないなら、いっそ私がこの手で容疑者を」
「違うんですよ」
西村が落ち着いた声で言った。
「容疑者じゃないんです」
私は溜息をついた。
「結局、あなたも私を信じていないと?」
「いやいや、とんでもない」
西村は私に笑顔を向けるとハンドルを切った。
「少なくとも私だけは、あなたの言葉に何のウソ偽りもない
ことは分かっています。しかし、それと同時にあの女が絶対
に容疑者じゃないということも分かっているんです」
「ややこしいな」
「ややこしいでしょう」
西村は苦笑を浮かべて、うんうんと頷いて見せた。
「申し訳ないが、今はこれ以上どんなに説明しても、あなた
には納得してもらえないでしょう。しかし、女に会えたら、
すべては氷解します。というか、氷解したように思えるはず
です。説明はそのあと。もう少しだけ待ってください」
車は夕暮れの高級住宅街に入っていった。
広い敷地に四階建ての鉄筋建築。マンションかと思ったら
一軒家の大邸宅だった。門には『故 斉藤真輔 儀』と看板
があり、私は初めて被害者の名前を知った。相当な資産家に
違いない。地下鉄のホームで見たよれよれのワイシャツの男
がこの豪邸の住人だったとは、にわかには信じられなかった。
私と西村は人待ちを装って、少し門から外れて立っていた。
弔問客が次々と訪れて、屋内に吸い込まれていく。かなりの
人数が目の前を通り過ぎたが、まだあの女は現れない。日は
とっぷりと暮れた。気持ちが逸ってしきりに腕時計を見たが、
西村はのんびりと構えている。邸内に入ろうとしない私たち
二人に葬儀屋のスタッフが声を掛けてきた。間もなく読経が
始まるのだ。
「来ませんね。ひょっとしてもう中にいるのかな?」
「それはないでしょう。ま、よくあることです」
「え、よくあるって。来ないかもしれないんですか?」
「来ないというか、いないというかな。まあ、思うようには
いかないこともある。そういうものです」
「え、そんな」
では無駄足ではないか。女に会えると聞いたからわざわざ
部長の嫌みをこらえて、仕事を切り上げてやってきたという
のに。私は憮然とした面持ちで西村を見た。話が違うと文句
を言い掛けたそのとき、門の前にタクシーが停まった。
私は降りてくる客を凝視した。
黒いワンピースにサングラス。あのときとまったく同じ姿
だったが、正面から見るのは初めてだった。女は門の前に立
って、しばらくじっと邸宅を見上げていた。
西村があの女かと目で聞いてくる。私は頷いた。女は意を
決したかのように背筋を伸ばし門の中に入っていった。気に
かける様子もなく私と西村の目の前を横切っていく。思わず
後を追いそうになる私を、西村が引き留めた。女は受付にも
立ち寄らず、そのまま家の中に入っていった。
そして騒ぎが起こった。
悲鳴にも近い、ヒステリックな怒号。諍い。女は今入った
ばかりの扉から押し戻されるようにして出てきた。そのあと
から何人もの喪服の男女が連なって出てきた。目を釣り上げ、
掴みかからんばかりに女に腕を伸ばす老女と、その老女を支
えながら、口角泡を飛ばして女を罵倒する中年女。斉藤の母
親と妻だろうか。
「どの面を下げてやってきた、この泥棒猫!」
「おまえがあの人を殺したんだ! おまえのせいで!」
「売女! 恩を仇で返しやがって!」
「この家の敷居を跨ぐな!」
親族と思われる周囲の人間も、罵声こそ浴びせないものの、
あからさまな非難と軽蔑を込めて女を睨み付けながら、女を
中に入れないように壁を作っている。瀟洒な邸宅とその住民
に似つかわしくない激しく生々しい憎悪の発露だった。私と
西村は呆気に取られて、遠巻きに様子を窺っていた。親族の
反応はいささか度を過ぎているように思えた。だがそれだけ
のことをこの女はしでかしたのだろう。それはそうだ。私の
認識では、女は現実に、斉藤を線路に突き落としているのだ。
女はすっと背筋を伸ばして、遺族と対峙した。居直って捨て
台詞のひとつでも吐くつもりではないか。遺族が警戒して身
構える。私も西村も固唾を呑んで、次の展開を待ち受けた。
さらなる修羅場が訪れるかも知れない。しかし女はただ深々
と丁寧に頭を下げただけだった。何か言いかけた老女が言葉
を飲み込んだ。未亡人にも当惑の表情が浮かぶ。他の遺族や
弔問客も目配せし合って、かすかにざわめきながら中に引き
上げていった。女を振り返る者は誰もいない。玄関の前には
ひたすら頭を下げ続ける女だけが取り残された。
やがて読経の声が聞こえてきた。女はようやく頭を上げて、
少し肩を落とすと、踵を返した。来たときと同様に目の前を
通り過ぎようとする女の腕を、私が掴んだ。
「待て」
怪訝そうに顔を向けた女のサングラスに、歪んだ私の鏡像
が映りこんでいた。
「やっぱりそうだ。間違いない」
「あ、小島さん。違う違う!」
西村があわてて私を止めようとしたが、私はそのまま女を
掴んだ手を放さなかった。
「ちょっと話を聞かせてもらおうか」
女は抵抗もせず、言われるままに私と西村についてきた。
夕食時を過ぎて客もまばらなファミリーレストラン。私は
目の前に座った女を、改めてじっくりと観察した。まだ若い。
サングラスを外したらかなりの美人だろう。西村は私の隣で
居心地悪げに腕を組んでいた。女は遮光レンズ越しに私たち
を見据えると、静かに口を開いた。
「警察の方ですか?」
西村が安心させるように微笑んだ。
「いや、違うんです。ちょっと誤解がありましてね」
名刺を手渡そうとする西村を無視して、私が切り出した。
「どうやって逃げた?」
「え?」
女が驚いて聞き返す。
「何? どういうこと?」
とぼけやがって。私は身を乗り出した。
「うまく事を運んだつもりだろうが、生憎とおれは一部始終
を見ていたんだ」
「見ていた? 何を?」
「あんたが斉藤さんを線路に突き落とすところをだ!」
女は首を傾げて私の顔を覗き込む。
「ねえ、さっきから何を言っているの、あなた?」
西村が女の視線を遮るように身を乗り出した。
「小島さん、そんなふうに決め付けちゃいけない」
「いや、間違いない。誓って、この女です!」
「違う、違うんだよ」
「違いません!」
女が割って入る。
「待って。私が、この私が、斉藤さんを殺したっていうの?」
「そうだ。こうやって、どんっと背中を突き飛ばしてな!」
私は立ち上がって勢いよく両手を突き出した。他の客が私
の振る舞いに驚いて視線を向ける。私は立ったままの姿勢で
女の反応を待った。女はゆっくりとサングラスを外した。
真っ赤に泣き腫らした大きな眼が鋭く私を睨みつけていた。
「何の悪ふざけ? あなた、大奥様か奥様に頼まれたの?」
女の刺すような眼光に私はやや怯んだが、必死に言い返す。
「そっちこそふざけるな。どんな仕掛けでカメラから逃れた
かは知らんが、おれのこの目は、しっかりあんたの姿を焼き
付けているんだ! 違うというならば、あの日のアリバイを
証明してもらおうじゃないか!」
絶対的な確信に裏付けされた、義憤と優越感。これで女が
逮捕されたら、あの若造も警官も呼びつけて、土下座させて
やる。意趣返しの興奮に、体中の血が沸き立つようだった。
しかし女は無言でバッグを探って、テーブルの上にピンクの
小冊子を置いた。母子健康手帳だった。
「区役所でこれを受け取っていました。信じられないという
なら窓口に問い合わせてみて。あの日の防犯カメラの映像に、
私の姿が映っているはずよ」
私は言葉を失った。
「それは」
女は感情の高ぶりを抑えて、絞り出すような声で語った。
「嬉しくて、その場ですぐにこれの写真を撮って、あの人の
携帯にメールしました。発信記録を見る? いつもなら必ず
返信があるのに、何も返ってこなかったから、忙しいのかな
と思って待っていたら、あんなことに。あんなことに!」
女の肩が震えていた。目から涙があふれ出す。西村は膝に
両手を置いて、黙って俯いている。私は何を言えばいいのか
分からなかった。嘘かも知れない。こうなることを見越して、
周到に用意された嘘かも知れない。しかし私自身の内なる声
は苦りきって認めている。この女は本当のことを言っている。
区役所の防犯カメラには、間違いなく女の姿が映っている
だろう。斉藤の携帯には、母子手帳の写真が添付された彼女
からのメールが届いているに違いない。私の記憶とどんなに
矛盾があろうと、少なくとも、この女は嘘は言っていない。
(ならばやはり、おれは幻覚を見たのか?)
呆然と立ち尽くす私を、西村が強引に引っ張って座らせた。
「ねえ、何なの、あなたたち?」
今度は女から身を乗り出して、私と西村に詰め寄ってきた。
「この世の誰よりも大切な人の生命を、私がこの手で奪った
ですって? お腹のこの子のパパを? なんでそんな残酷な
ことが言えるの? 愛する人を失って、何もかも滅茶苦茶に
なったばかりなのに、そのうえどうしてこんな酷い仕打ちを
受けなきゃならないの? 答えて。答えなさいよ!」
答えられるはずもなかった。女はテーブルに突っ伏して、
悲痛な嗚咽を上げ始める。西村が女の横に席を移して謝罪の
言葉を繰り返していた。私は途方に暮れた。客も、従業員も、
私に非難の視線を向けていた。露骨な舌打ちが聞こえてきた。
(だけど、おれは見た。見たはずなんだ。この女を)
既視感、あるいは予知を伴った幻覚などあるのだろうか。
それとも虚偽の記憶を正当化するため脳が辻褄合わせをした
だけか。疑問は解けず、混乱は増すばかりだった。一体何が
どうなっているのか、事情が分かっているらしい西村に、詳
しく話を聞くしかないと思った。しかし、今なすべきことは、
また別だった。私はファミレスの通路で土下座した。人目も
憚らず、床に頭を擦りつけ、詫びた。詫び続けた。




