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第2章

 

 解放されたのは、それからさらに一時間後だった。

 西村は私が目撃した状況については熱心に質問してきたが、

逆に私からの質問には全くといっていいほど答えず、通夜の

詳細が分かったら連絡すると言い置いて、さっさと帰ってし

まった。いつのかにか警官の姿もなく、早く出て行けと言わ

んばかりの駅員たちの無言の圧力に押し出される形で駅事務

室を出た。すでに夕方で、駅の構内は帰宅する乗客でごった

返していた。私は一旦改札を出て会社に連絡を入れた。駅で

自殺騒ぎに巻き込まれたことは、確かに警官が伝えてくれて

いたが、そんなことにかまわず部長は怒り狂っていた。

「自殺? 関係ないだろ。事情はどうであれ、ドタキャンは

ドタキャンだ。今、何時だよ、あ? 電話を一本入れる余裕

もなかったのか。先方カンカンだぞ。万が一これで取り引き

がなくなったらおまえの責任だからな。言い訳はいいから、

今すぐ行って土下座してこい! 今すぐだ!」

 馬鹿野郎、と叫んで部長は一方的に電話を切った。

 私は携帯を耳に当てたまま立ち尽くしていた。多少の嫌味

には慣れたつもりだったが、ここまで露骨に罵倒されたのは

初めてだった。おそらく社内にはまだ何人も社員やバイトが

残っていて、怒鳴り散らす部長の大声に身をすくめながら、

興味津々で耳を傾けていたに違いない。怒りと反発を覚える

べきか、焦りを感じるべきか、よく分からなかった。ただ、

部長がキャリア採用の中途入社で、自分より五つ年下である

ことをぼんやりと思い出していた。

 そのとき、着信を告げるバイブが耳たぶを震わせた。表示

を見ると、今日会いに行く予定だった取引先の担当者だった。

しまった。こちらから掛ける前にかかってきてしまった。

「お世話になってますじゃないよ。駅から電話があったけど、

怪我ってどういうこと? 骨折でもしたの? え? 転んで

鼻をぶつけた? それだけ? それだけであんた、駅の事務

室で三時間ものんびり寝てたんだ? あのさ、子供じゃない

よね、社会人だよね、五十過ぎの? こっちは、三時からの

予定を全部キャンセルして待ってたんだよ! どうしてくれ

んの?はあ、今から来る? 何言ってんの、あんた、時計を

見なよ。もう七時でしょ、七時。うちは六時で業務終了だよ。

私の残業代あんたが払ってくれんの? なめてんじゃないよ。

いい歳してあんた、本当に使えないねえ。中西さんも大変だ」

 確かに、何の言い訳もできない。それに細かい事情説明は

火に油を注ぐだけだ。ひたすら謝るしかなかった。取引停止

だ顔も見たくないとヒステリックにわめく平田主任を宥めて、

何とか直接会って、改めて謝罪させてほしいと懇願し続けて、

かろうじて面会の承諾だけは得た。厚意に対してくどくどと

礼を述べているうちに通話が切れた。苦い唾がこみあげ喉に

絡みついてくる。ほんの少し手が震えていた。駅の客が私の

顔をじろじろと見つめてくる。我慢できず吹き出す者もいた。

それで気づいた。鼻の穴に脱脂綿が詰まったままだったのだ。

血の滲んだ綿をそっと外す。

(これでとりあえず、今日は先方に行く必要がなくなったな)

 かといって今さら社に戻る気にもならない。おそらく部長

も退社した後だろう。今日は帰宅しよう。私は鼻の下の汗を

無造作に袖で拭った。途端に鼻梁に激痛が走って思わず悲鳴

をあげた。痛がる私をすれ違う女性たちがクスクス笑った。



 帰宅して呼び鈴を押したが、妻の陽子は出てこなかった。

 まだパート先から帰ってきていないようだった。仕方なく

鍵を使って入ると、リビングからテレビの音が漏れていた。

つけっぱなしで外出かといささかむっとしながらリビングに

行くと、陽子がソファで煙草を燻らせてバラエティー番組を

見ていた。ジャージ姿のお笑い芸人が理不尽なゲームに悪戦

苦闘する様子が映し出されていた。陽子はくすりとも笑わず、

ただ無表情に画面を眺めていた。お帰りなさいの一言もない。

「何だ、いたんなら開けてくれよ」

「新聞の勧誘かと思ったの」

「こんな時間にか」

「あいつらしつこいのよ」

 目を合わせようともしない妻に、これ以上文句を言っても

埒が明かない。まず風呂に入ろうかと思ったが、喉が渇いて

いた。やけに渇いていた。私は部屋着に着替えると、台所に

発泡酒を取りにいった。程よく冷えたロング缶を冷蔵庫から

取り出したが、どうしてもリビングの陽子に合流する気がし

ない。そのままキッチンテーブルに腰を下ろし、いつものよ

うにラップを掛けられた料理を、温め直すこともせず、夕食

とつまみを兼ねてつつき始めた。カウンター越しにリビング

に目をやると、立ちこめた煙の中でテレビを見ている妻の、

カーディガンを羽織った丸い背中が見える。もう半年以上も

こんな光景が続いていた。寝室も別だった。視線を落とすと、

テーブルの唐揚げの皿の下に、これ見よがしにA4サイズの

パンフレットが敷かれているのに気がついた。


〈有料介護老人ホーム やすらぎとよろこびの郷〉


 舌打ちして顔を上げると、いつのまにか陽子がすぐ目の前

にいて、テーブルに肘をついてこちらを見ていた。

「スタッフ常駐、二十四時間完全介護。保険適用。いくつか

調べた限りでは一番良心的よ。ここにしましょう」

 うんざりしながら、いつもと同じ返答をする。

「何度も言わせるな。母さんはおれが引き取って面倒を見る」

「あなたじゃないでしょ。私でしょ?」

「同じことだ」

「全然違うわよ!」

 初めて感情を露にした妻に、私も思わず声を荒げた。

「何が違うんだ? 夫であるおれの母親は、妻であるおまえ

の母親でもあるだろうが」

「あなた、昼間はいないじゃない。私もパートよ。やめたら

食べていけなくなるわ。この家のローンは一体どうするの? どこに要介護の老人を引き取って養う余裕があるの?」

「しかし弱っている母さんを、あのまま田舎に一人で置いて

おくわけにはいかないだろう」

「だから! そのためのこれだって、何度言わせるつもり?」

 陽子はパンフレットをひったくってヒラヒラと振った。

「お世話はプロに任せてあなたは月に一度か二度、顔を見せ

に行ってあげればいいじゃない。千葉の実家よりは遠くなる

けど、あの駅は特急が停まるから、アクセス自体はかえって

便利になるわよ。一石二鳥じゃない、違う?」

「そういう問題じゃない」

「じゃあどういう問題よ。一体何が気に入らないの? 大体

あなただって引き取る引き取ると言いながら、もう何ヶ月も

お母さんのこと、ほったらかしじゃない」

 妻の指摘に、一瞬言葉に詰まったが、懸命に言い返す。

「仕事が立て込んでる。仕方ないだろ。だからこそ、おまえ

が代わりに」

「あら、私が代わりに何? パートを休んで、在来線とバス

を乗り継いで、丸一日がかりで様子を見に行って、三時間も

ネチネチネチネチ嫌味を聞かされた挙句に、お土産に買った

ケーキを目の前でまたゴミ箱に捨てられてこいっていうの?

行くたび行くたびに、何度目? もうごめんだわ!」

 陽子は目を真赤に充実させていたが、泣いているわけでは

なかった。怒っているのだ。本気で怒っているのだ。

「あれは、あとからちゃんと詫びの電話があったじゃないか。

ずっと一人で寂しいし、ちょっと荒れてたんだよ。おまえの

話し方にも、少し誤解を招くところが」

「ほら、また私のせいじゃない。だから親子は駄目なのよ!」

 そう叫ぶと陽子はいきなり、私の顔面に老人ホームのパン

フレットを力任せにぐいと押し付けた。鼻に激痛が走った。

悲鳴を上げて顔を押さえ、テーブルに突っ伏した私を横目で

見て、陽子は舌打ちすると奥の寝室に下がって、中から鍵を

掛けた。ドアを蹴破って、引きずり出してやろうか。そんな

衝動に駆られたが、ここで手を出したら今度こそ終わりだ。

懸命に自分に言い聞かせ、何とかこらえた。しかし鼻の痛み

は引かない。パンフの表紙に血がついていないか、念入りに

確認したが、それはなかった。かわりに、キャッチコピーが

目に飛び込んでくる。

『便利で安全な街で始める、快適で豊かな充実した老後』

 私はパンフレットをビリビリに引き裂いた。

 

 

「自殺した男の通夜? ほお、わざわざ? 早退して?」

 中西部長が判をついていた書類から顔を上げて私を見た。

「いえ、もう定時は過ぎていますし」

 私はちらりと時計を見た。すでにかなり押していた。西村

との待ち合わせ時間に間に合うかどうか、微妙なところだ。

もちろん部長はそんなことは意に介さない。それどころか私

が焦れた様子を見せれば見せるほど、さらに話を引き伸ばし

にかかるだろう。こうなったら腹を決めて少しでも早く解放

してくれるのを待つしかない。むしろ、私が通夜に出掛ける

ことを知った女子社員やアルバイトの方が、勝手にやきもき

してくれているようだ。面白がっているだけかも知れないが。

「やり掛けの仕事を山積みにしておいて定時もクソもあるか。

平田の件はどうなった?」

 部長は得意先の担当者を呼び捨てにした。

「はい、週明けの朝一に先方に直行して、お詫びすると共に

改めて話を聞いていただくことになっています」

「そうか。今度は変なことに首を突っ込まず遅れずに約束の

時間に行けよ。さすがのおれも、もう庇いきれないからな」

 誰がいつ、庇ってくれたんだ? 湧いてきた苦い唾を懸命

に飲み込んで、声が割れるのを防ぐ。

「はあ、気をつけます」

 部長はふんと鼻を鳴らした。

「行けよ。赤の他人の通夜でも遅れたらまずいだろ。死人に

なじられるぞ。子供じゃないよね、社会人だよね、とな」

「え?」

 偶然とは思えなかった。部長と先方の平田主任は同じ大学

の出身で、現場の頃から馬が合い、管理職となった今も懇意

にしているとのことだ。そう、懇意にはしているのだろう。

あのあとも電話か酒の席で、それぞれが私をどのように罵倒

したか、面白おかしく報告し合って盛り上がっても不思議は

ないくらいに。何とか平静を装ったが顔が紅潮してくるのは

どうしようもなかった。部長はにやにやしながら私の反応を

楽しんでいた。

「お先に、失礼します」

 頭を下げて、そそくさと職場を後にした。


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