第13章
数日後。
私は斎藤の自殺と最初のヘルパーを目撃した地下鉄の駅の
ホームで、同じベンチに腰掛け、夕刊を読んでいた。
『大学教授 服毒自殺』
紙面には、西村の顔写真が小さく掲載されていた。記事に
よると、昨日の午後、定期清掃のために合鍵で西村の部屋に
入室したハウスクリーニングのスタッフが、寝室のベッドに
横たわる西村の死体を発見。死因は何らかの薬物摂取による
中毒死と見られる。遺書はなかったが、先頃、勤務していた
大学から一方的に研究費の支給を打ち切られ、職を追われた
ことを苦にしての服毒自殺と思われる。
『西村教授は、神戸の大学院に在籍していた1995年1月、
阪神淡路大震災で当時8歳の長女を亡くし、翌年には細君が
自殺。天涯孤独の身となり、悲劇の心理学者といわれた』
私の脳裏にバーで見た少女の姿が蘇る。しかし服毒自殺の
場合、ヘルパーはどのようなヘルプを行うのだろうか?
(まさか毒薬のカプセルを、無理やり口の中に捻じ込んだり
はしないだろうな。飲み物や食べ物に混入するのかな)
西村の死を悼むべきなのに、悪趣味な想像に走ってしまう
自分に嫌気が差して、私は夕刊を丸めてゴミ箱に放り込んだ。
そしてブリーフケースから何通もの書類や郵便を取り出して
眺めた。
解雇通知。離婚届。病院の請求書。住民税の督促状。
全てをブリーフケースに戻すとブリーフケースそのものを
ゴミ箱に放り込んだ。ベンチから立ち上がって電光掲示板を
確認する。まもなく急行が通過する。アナウンスが流れた。
「白線の内側までお下がり下さい」
私はあのときの斉藤と同じように、白線も点字ブロックも
越えて、ホームの縁ぎりぎりに立ってみた。視線を落として
線路に目をやると、そのまま前のめりに吸い込まれそうな気
がして、あわてて背筋を伸ばす。今この段階で転落したら、
さすがに急行のスピードでもブレーキが間に合ってしまい、
目的が果たせない。不様に救出されてしまうだろう。それに
この位置だと監視カメラにも映りこんでしまっているはずだ。
駅事務室で見たモニターの映像を思い出しながら、注意深く
何歩か後退する。怪しまれないように、警戒されないように、
自然に振る舞わなければ。この期に及んで意外と冷静な自分
がおかしかった。もう一度、段取りを確認する。先頭車両が
見えてから動いても十分に間に合う。それまでは急行の通過
を待つ振りをして立っていればいい。仮に近づいてくる車体
に怖気づいて踏み出せなかったとしても、そのときはきっと
ヘルパーが背中を押してくれるはずだ。
(そうだ、今なら見えるかもしれないな)
私は恐る恐る、半ば期待も込めて、背後を振り返ってみた。
誰もいなかった。代わりに私が座っていたベンチに若い男
が腰を下ろしていた。何となく既視感があった。そしてすぐ
に思い出した。
(ああ、あいつだ)
スーツ姿で、黒く染め直した髪を短く刈り込んでいたので、
すぐには誰だか分からなかったが、このホームで私に頭突き
を食らわした、あの若者に違いなかった。若者は私に気づく
こともなく、一心不乱にスマホのメールを打っている。意外
にも不快な感情は湧いてこない。むしろ懐かしくさえあった。
近づいて声を掛けようかとも思ったが、何を言えばいいのか
思いつかないし、藪蛇になりかねない。相手が私に気づく前
に背を向けた。それにしても自分の最期を見届けるのがこの
若者だとは。皮肉な巡り合わせに笑いが込み上げてくるのを
こらえる。短い警笛が聞こえた。いよいよだ。ゆっくり前に
進み出て黄色いブロックを越える。先頭車両のヘッドライト
が近づいてくる。間合を計って、ひとつ息を吐いた。まだだ、
まだ。引きつけて、引きつけて。体が小刻みに震えて、肌が
粟立ち、脇の下に冷たい汗が流れるのを感じたが、不思議と
恐怖はなかった。怒りも悲しみも、恨みも後悔も、自己嫌悪
も絶望もない。痺れるような緊張感が、むしろ心地よかった。
ホームの縁に立って背筋を伸ばす。再び警笛が聞こえてきた。
これで体を投げ出せば何もかもが終わる。しかしダメだった。
どうしても足が動かない。情けない限りだ。あと少しなのに。
(やれやれ、おれのヘルパーは、一体何をしているんだ?)
ふっと息を吐くと、さりげない風を装って背後を振り返る。
母が立っていた。
手ぬぐいを巻いて、背負子を背負ったモンペ姿の母親が、
すぐ後ろに立って、私を見ていた。見下ろしていた。
「母さん!?」
自分のヘルパーが見えるならおそらく母親の姿をしている
だろうと予測はしていたのに、いざ目の当たりにすると恐怖
しかなかった。失禁する程の恐怖だった。母は大きかった。
見上げるほど巨大だった。違う。この角度で見上げる母の姿
には見覚えがあった。子供の頃、虐められて泣きながら家に
帰ったときに玄関の三和土で見上げた、あの母の姿だ。口を
真一文字に結んで、弱虫な息子を怖い顔で見下ろしていた。
今も母は怒っていた。顔を真っ赤にして、激しく怒っていた。
記憶が蘇る。このあと必ず、容赦ないビンタを食らっていた。
子供に戻った私は怖くなって後退する。二歩下がったところ
でホームの縁を超え、足を踏み外した。体がバランスを崩す。
為す術もなく仰向けに背中から線路に倒れていった。警笛を
けたたましく鳴らしながら電車が入ってくる。運転席で慌て
ふためく運転士の顔が見えた。これが最期か。あっけない。
走馬灯を見る暇もない。しかし即死すれば意識も痛みも。
そう思った瞬間、手首を掴まれた。ぐいと引き戻された。
母の顔がいきなり目の前に戻ってきた。目尻の皺。日焼け
した肌。土と垢と汗と、懐かしい膏薬の匂い。背後では車両
が急制動をかける甲高い金属音と風圧。後頭部に衝撃が走る。
前に弾き飛ばされた私の体を、母が腕を広げて受け止める。
そして母に抱きしめられた瞬間、答が私の中に怒涛の如く
流れ込んできた。理解した。否応なく。全てを。何もかも。
(そうか、そういうことだったのか! ヘルパーは)
ヘルパーは、自殺を手助けしていたのではない。
文字通り、自殺しようとする者を引き留め、命を救おうと
していたのだ。私は間違っていた。西村も間違っていた。
ヘルパーと呼ぶのは正しかった。しかし定義が真逆だった。
サングラスの彼女が、斉藤に必死に話しかけている。
「死なないで」
「生きて」
「パパになるのよ」
「家族になるのよ」
「一緒に生きて」
だが、自殺を決意した斉藤の耳にはヘルパーの懸命の叫び
も届かない。線路に向かって、前のめりに倒れていく背中に
手を伸ばしても、それを捉えて、引き止めることはできない。
老人を取り囲んだ四人の少年兵が、泣きながら呼びかける。
「やめろ」
「まだ死ぬな」
「おれたちの分まで生きろ」
「せっかく助かったのに」
「生きろ」
年老いた戦友を自決させまいと、腕を掴み、足に縋りつく、
まだ童顔の兵士たち。しかし、ヘルパーはあまりにも無力だ。
老人は何も気づかずに、ただ自分は誰からも相手にされず、
孤独だと思い込んで、絶望して淋しく宙を舞い、冷たい都会
の底に向かって落下していく。
ベッドに横たわる西村の上に、少女が覆いかぶさっている。
父の口から毒薬のカプセルを取り出そうと、固く閉じられた
唇をこじ開けようと悪戦苦闘している。しかしヘルパーには、
少女にはそんな力はない。毒は容赦なく西村の体に浸透する。
「だめ」
「死なないで」
「あきらめないで」
「お父さん」
「生きて」
だがすでに西村の目に光はない。父を思う娘の喉の奥から、
誰にも聞こえない絶望の慟哭がほとばしり、焼け爛れた左頬
と、煤に汚れた右頬に、とめどなく涙が流れ落ちる。
そして、首を吊る母の足を抱え込んで私自身が叫んでいる。
引っ張っているのではない。持ち上げようとしているのだ。
喉に紐が食い込むのを防ごうとして。母の命を救おうとして。
「母さん」
「ごめんよ」
「死なないで」
「やめて」
「生きて」
下に降ろしてやりたい。しかし、できない。ヘルパーは、
そこにいることすら気づいてはもらえないからだ。そして、
慌てて駆け寄ってきた自分自身に激怒して、こう叫んでいる。
「おまえのせいだ!」
「おまえのせいだ!」
「おまえのせいだ!」
「おれのせいだ」
ホームに横たわり、天井を見上げる私の目から涙が溢れた。
考えれば単純な話だった。見えることが肝要だったのだ。
西村が動物の隠し絵を例に説明していたように、ヘルパー
が見えたら、或いは、ヘルパーを見るコツを掴んだら、それ
までは見えていなかったり、見えても気づかなかったものが
見えるようになる。体質か能力か鼻持ちならないオカルトか、
それはこの際どうでもいい。見えたことで、認識が変容する。
自分にはヘルパーが見える、ヘルパーの存在を知っていると。
そしてそれは、ヘルパーにも伝わる。ヘルパーは見える人間
に遭遇すると思いを伝えようとする。何度も見てしまうのは
そういう訳だ。しかし私はヘルパーをいたずらに恐れ、忌避
していた。逃げずに向き合っていれば、もっと早く何もかも
分かっていたかも知れないが、勇気がなかった。臆病だった。
だから分からなかった。分かろうとしなかった。自殺を決意
して、自分の母の姿をしたヘルパーが助けに来てくれるまで。
しかし今は分かる。ヘルパーは自殺者の生存本能が無意識
に発する、切実だが微弱な救難信号のようなものだ。自殺を
食い止めるため、記憶や感情にもっとも強く働きかける姿を
とる。自殺の原因ではなく、生きる理由だ。死者や生者から
架空の存在まで、バリエーションが多くあるのはそのためだ。
だがヘルパーはあまりに儚くて無力で、気づかれない限り
存在しないに等しい。一番見てほしい自殺者本人に見られる
ことなど、ほとんどあり得ない。だから、ヘルパーは見える
人間に働きかけるしかないのだ。例えばそう、私のような。
見えるなら伝えて。知らせて。引き留めて。死なせないで。
彼女を。彼を。自分自身を。大切な人を。愛する家族を。
(お父さん死のうとしてるの! 止めて、止めて、助けて!)
西村の娘の声が、今頃になって聞こえてくる。
助けて。助けて。助けて。助けて。
そう、助けなければ。私には見えるのだから。
これからは、私がヘルパーを助けるのだ。
母の手が、ホームに横たわる私の額や頬に触れている。
畑仕事で荒れた掌、固くなった指先。懐かしい感触だった。
忘れようにも忘れられない。否、私は忘れていたのだ。
「ああ、母さん」
母の顔を見上げて、ひび割れた声で言った。
「何とかやってみるよ。まだ、間に合うかな」
母はある言葉を口にして、ようやく笑顔を浮かべる。笑い
返そうとした刹那、脳天から背中に激痛が走り、目が眩んだ。
私の体は慎重にストレッチャーに載せられた。頭のあった
場所には大きな血溜まりができていた。急行電車の運転士が
ホームに降車して、救急隊のリーダーに事情を説明している。
「警笛に反応して一旦は下がったんですが、またふいに後退
してきて。急停車もギリギリ間に合わず、先頭車両が後頭部
に接触したようです。それでこう、ホームに突き戻されて」
後ろで話を聞いていたスーツの若者が、口を挟んできた。
「違うよ、野菜売りの婆さんが後ろから線路に突き落とそう
としてたんだ。この人、それに気づいて逃げようとしたけど、
焦って線路の方に後退したから」
運転士が言下に否定する。
「そんな人がいたなら、私が気づかないはずがありません。
誓って、この人しかいませんでした」
「いや、いただろ。背負子を背負って、頭に手拭いを巻いた、
すごくガタイのいい婆さんだ! 見間違うはずがねえよ!」
しかし運転士と救急隊員は目配せしあい、無視することに
決めたようだ。若者は頭に来て、さらに食い下がろうとする。
私は手を伸ばして、彼の腕を掴んだ。驚いた若者が私を見て、
困惑して眉をひそめる。見覚えのある顔だと思ったのだろう。
若者が私のことをすっかり思い出す前に、言葉を掛けた。
「違うんだ」
「え、違うって、何が?」
若者は、呆けたような私の笑顔を見て、戸惑った。
「違うんだよ。そうじゃない」
救急スタッフは患者を載せたストレッチャーを一刻も早く
地上の救急車まで運びたかったが、他ならぬ患者自身が若者
の腕をなかなか離そうとしないので、やきもきしていた。
「すいません、急がないと」
私はそれを無視して、若者をぐいと引き寄せた。
「おふくろさんか?」
若者は私の口元に耳を近づけ、言葉を聞こうとする。
「何?」
私の目は若者を見ていない。
「おふくろさんは、まだ、ご健在か?」
「ああ、田舎の実家にいるけど?」
「だったら、すぐに顔を見に帰れ。無理ならまず、電話しろ」
「あのさ、あんた、さっきから、いったい何を?」
「もう一度よく考えるんだ。本当に、他にもう道はないのか」
それを聞いて、にわかに若者の顔色が変わった。
「ちょっと! どうして、あんた、それを?」
答える代りに、腕を掴んだ手にぎゅっと力を込めて、母が
最後に私に残した言葉を、若者にも伝える。
「死ぬな。生きろ」
「えっ?」
救急スタッフが、強引に私と若者の間に割って入った。
「急を要しますので、それまでにしてください!」
今度は私も逆らわず、若者の腕を離すと力を抜いて寝台に
身を委ねた。しかし若者は、必死に私に追い縋ろうとする。
「待って! 待ってくれ! お願いです、待ってください!」
若者の懇願を無視して、ストレッチャーは改札階に向けて、
ゆっくりと用心深く階段を上がっていった。遠ざかっていく
プラットホームに、若者が所在なげに立ち尽くしているのが
見えた。若者の背後には、初老の女性が立っていた。今にも
泣き出しそうな表情の若者とは対照的に、その女性は穏やか
な笑みを浮かべていた。そして、視野から見えなくなるまで
ずっと、深々とお辞儀を続けていた。




