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第12章

 西村に呼び出されたのは、いつもの研究室ではなく、雑居

ビルの地下にある小さなバーだった。カウンターだけの五席。

今夜の客は私と西村の二人しかいなかった。年配のマスター

が眠そうな顔を俯けてグラスを磨いている。

「では、会社を辞めると?」

「というか、辞めざるを得ないように仕向けられましたね。

いろいろあって、そろそろ潮時かと覚悟もしていましたし」

 私は努めてさばさばした口調を装ってそう言うと、水割り

を口に運んだ。濃い目に作られていて、少し噎せた。

「家も離婚の慰謝料代わりに女房に取り上げられて、今は安

アパートで独り暮らしです。酒を飲むのも、久しぶりで」

「それは。ふむ」

 西村は視線を落としてピスタチオの殻を剥いている。横顔

を見ておやっと思った。老博士は苦笑いを浮かべていたのだ。

 いささかむっとして私は尋ねる。

「何がおかしいんです?」

「ああ、これは失敬。いや、奇遇だなと思いまして」

 西村は、つまみを口に放り込んで、酒で喉に流し込むと、

穏やかな笑顔で私を見た。

「実は、私も大学を追い出されました」

「え?」

 思ってもみなかった言葉が返ってきて、ちょっと驚いた。

「おまえのは学問ではなく、鼻持ちならないオカルトだと、

教授会で散々に罵倒されましてね。学生からも総スカンで」

 グラスの底を眺めながら、クスクスと笑っていた。

「まあ、当たらずといえども遠からずかも知れませんな」

「いや、しかし少なくとも私は、ヘルパーというものが実在

することは知っていますよ?」

 思わず身を乗り出して反論した。ムキになっていた。

「幻覚かも知れないし、思い込みかも知れません。しかし、

心理学的には、十分研究に値する現象ではありませんか」

 西村は微笑を浮かべたまま私の言葉を聴いていた。今さら

何を言っても仕方がないのだ。素人の私に力説されるまでも

なく、そんなことは西村本人が一番よく分かっている。釈迦

に説法とはまさにこのことだ。しかしそれでも、私は言わず

にはいられなかった。西村の研究が否定されるのは、私自身

の正気が否定されてしまうのと同じだからだ。冗談ではない。

こっちは、見たくもないヘルパーを目撃してしまったせいで、

その後も次から次に、散々な目に遭わされているのだ。

「そもそも、何もあの大学でなくてもいいでしょう。国内が

駄目なら思い切って海外で研究を続ける選択肢もあるはずだ。

どこかに伝手はないのですか?」

「小島さん!」

 いきなり西村が、大声を出した。驚いて言葉を飲み込んだ

私に、西村が笑顔のまま、ゆっくりと話しかける。

「まだ喪も明けていないのに大変申し訳ないが、よかったら、

御母堂のお話を聞かせてもらえませんか?」

「母の?」

「ええ、どんな方でした? 差し障りのない範囲で結構です」

 どうやら話題を変えたいようだ。確かによく事情を知りも

しない大学内部の話を続けて、互いに気まずくなるのは本意

ではない。西村の眼差しにどことなく懇願の色があるような

気がして、私は仕方なくぼそぼそと語り始めた。

「うちのおふくろは、怖かったですね。何かあると、すぐに

手が飛んできた。幼い頃に父が死んで、母一人子一人だった

からか、舐められてはいけないと、厳しく躾けられました。

近所の子に虐められて泣いて帰ったら、勝つまでやってこい

と外に放り出され、家に入れてもらえなかったな」

 西村は興味深げに相槌を打って、話を促す。

「それはかなり、鍛えられたのではありませんか?」

「生憎と一向に喧嘩は強くはなりませんでしたが、やたらと

しつこくはなりましたね。返り討ちに遭おうとどうしようと、

ひたすら食い下がって、執念深く立ち向かっていった」

「ほお」

「そのうちに、日も暮れるし腹も減るしで、相手の方が音を

上げて、こっちが勝ったことにしてくれてました」 

「虚仮の一念というやつですな。おっと、これは失礼」

「いや、かまいませんよ、その通りですから」

 私は苦笑した。

「そんなことを繰り返すうちに、あいつは面倒くさいと噂が

広がって、虐められることもなくなってきた。その一方で、

ほとんど友達もできないという、まあそんな子供時代でした」

 息をついて肩を竦める。

「それが成長してから、意志の強さや忍耐力に繋がればまだ

よかったんですが、なかなかうまくいかないものです。頑固

で融通が利かない一方で、決断力と実行力には欠けるという、

なんともいびつな朴念仁が出来上がってしまいました」

「そんなことはないでしょう。一生懸命やっておられます」

 西村にフォローされて気持ちが緩んだのか、言うつもりの

なかった言葉が、思わず口をついて出てくる。

「今となっては会社のことも、妻とのことも、何かもう少し

方法があったように思います。もちろん、母親のことも」

 西村は黙って聞いていた。

「正直な話、ヘルパーのような禍々しいものを見てしまった

ことがケチのつき始めと思っていました。負のスパイラルと

いうか。その一環として、西村さん、あなたのことも、心の

どこかで恨んでいたかもしれません」

 西村は、むしろ嬉しそうに笑った。

「疫病神だと思われたでしょうなあ。いや、面目ない」

 まあ半分は冗談ですが、と断ってから言葉を続けた。

「しかし、冷静に考えたら、ヘルパーが見えるようになった

のと身辺の出来事とは、ほとんど関係がないんではないかと。

仮にヘルパーを目撃していなかったとしても、遅かれ早かれ

会社はやめざるを得なかっただろうし、妻とも離婚していた

でしょう。いわば自業自得です。それに母親は」

 言葉に詰まる。西村は促すように小首を傾げる。 

「母親のことは、その、何と言えばいいか、さすがにまだ、

そこまで、冷静に割り切れないものがありますが」

 首を吊る母の足にしがみついて叫んでいた自分の姿が脳裏

に蘇ってきた。母は、私の本性を見抜いていたのだ。あれは

自殺ではない。私が母を見捨て、殺したのだ。私自身が。

「小島さん?」

 西村が気遣わしげに声を掛けてきた。

「すいません、ちょっといろいろと思い出してしまって」

「こちらこそ、無理強いしたみたいで、申し訳ない」

 二人分のおかわりを注文すると、西村は話題を変えた。

「実は今日わざわざ来ていただいたのは、他でもありません。

斉藤さんのことなんですよ。是非ともあなたに知らせたくて」

 予想外の名前が出てきてちょっと驚く。

「斉藤さんがどうかしましたか?」

「意外な事実が判明しましてな。どうやら斉藤さんは、愛人

から妊娠を知らされて悩んだどころか、子供ができたことを

心から喜んだらしい」

 私は疑わしげに西村を見た。

「それは、本当ですか?」

「ええ、あの後、彼女と会う機会があって、じっくりと話を

聞かせてもらいました。斉藤さんは、彼女と赤ん坊と三人で

暮らす新居を探していたそうです。もちろん奥さんとは離婚

して慰謝料も払い、けじめをつけてからの前提でね。ところ

があの人、婿養子だったんですな。奥さんの親族、とりわけ

奥さんの母親にして一族の総帥でもある大奥様が、家名に傷

がつく、地元で面目が潰れると主張して、頑として許さない」

 私は愛人を口汚く罵っていた喪服の老婆を思い出していた。

「意を決して家を出ようとしていた斉藤さんに露骨な圧力を

掛けてきた。自分の娘と別れるというなら、どこに逃がれて

隠れ住もうとも、必ず見つけ出してやる。あの女もこれから

生まれてくる子供も、無事では済まないものと思え、と」

「それって脅迫じゃないですか」

「その通りです。しかし斉藤さんは、あの義母ならば本当に

やりかねないことを知っていた。愛する女と子供を、人質に

とられたみたいなものです。一方で、あの女と手を切るなら

子供が成人するまでの養育費は全額出してやると破格の交換

条件も提示してきた。もはや、大奥様の言いつけに従うしか

ない。斎藤さんは、大変な無力感に苛まれたことでしょう」

 そう、無力感だ。痛いほどよく分かる。

「それで追い詰められて、発作的に飛び込みを?」

「いや、覚悟は決めていたようです。検死に立ち会ったあと、

仮住まいのアパートに彼女が戻ったら、ハンガーに掛かった

ままだった背広の胸ポケットに斎藤さん直筆の遺書があった。

私も現物を読ませてもらいましたが、本物でしょう。懇意の

弁護士と相談して、自殺でも多額の保険金が下りる生命保険

に密かに加入していた。もちろん、受け取り人は彼女です。

義母も妻も弁護士経由でそれを知らされて、面白くない顔は

したものの、これで婚外子に養育費を出す必要もなくなる訳

ですから、渋々受け容れた。もう干渉はしてこない」

「それは。何というか」

 言葉が出てこなかった。では斉藤は、自分の死後も愛人と

子供が路頭に迷わないよう周到に準備を整えた上で、覚悟を

決めて駅に向かったのか。私は天井を見上げ溜め息をついた。

彼女は自殺の原因どころか、斉藤にとっては愛すべき、守る

べき存在だったのだ。その女性を私は、人殺しと決めつけ、

口を極めて罵ってしまった。ヘルパーを見たことによる錯誤

とはいえ、罪悪感と自己嫌悪で胸が苦しくなってきたので、

必要以上に声を張って、ある意味当然の疑問を口にした。

「しかし、しかしですよ? ではどうして、彼女の姿をした

ヘルパーが、斉藤さんを突き飛ばしたんですか?」

「分かりません。あるいはこの話自体が、自己正当化のため

に彼女がでっちあげた作り話で、斉藤さんは本心では彼女と

生まれてくる子供が疎ましかったのかもしれない」

「彼女が嘘をついていると思いましたか?」

 西村は苦笑した。

「それが、困ったことに全く嘘とは思えなかった。そもそも、

彼女が私に、そんな嘘をつく理由が思い当たりません」

 話を聞きながら私もそう思っていた。

「でも、本来なら斉藤さんを突き飛ばすヘルパーはあの愛人

ではなく、妻か義母の姿をしているはずなんですよね?」

「そうなんです。何ともしっくりこない話になってきた」

 私は黙って頷いた。西村が珍しく、少し熱くなって語った。 

「自殺の理由が曖昧模糊として抽象的だったり、難解で哲学

的だったり、或いは自殺者が捻くれた性格破綻者だったり、

何らかの精神疾患を抱えていたなら、この矛盾というか例外

もまあ、分からなくはない。ヘルパーとはある意味、妄想の

産物であり、幻覚ですからな。もっとも、そういう場合は、

ヘルパーも往々にして、現実離れした姿になりがちですがね」

 有名人、歴史上の人物、架空のヒーロー、モンスター。

「しかし、これだけ具体的に自殺の動機が分かっていながら、

自殺者の親密な味方である存在がヘルパーになった事例は、

私の知る限り、ひとつもない。大抵は心から恐れているか、

憎んでいるか、嫌悪している人物がヘルパーになっている」

 つまり、母にとっては私もそういう存在だったのだ。他人

である陽子よりも、不甲斐ない息子に絶望して、憎んでいた。

 西村は、大きくひとつ息をついて、言葉を続けた。

「参りました。お化けに理屈は通じないとよく言われますが、

ここは腹を決めて、一からやり直すしかないかもしれません」

 自虐的に笑っていたが、かなり疲れているのが見て取れた。

無理もない。大学を追われたばかりか、長年の研究成果が無

に帰するかもしれない重大な瑕疵が見つかったのだ。それも、

私が見たヘルパーのせいで。責任を感じて声をあげる。

「だったら私も協力しますよ。これからもきっと、いろんな

ところでいろんなヘルパーを見るでしょうから、見たら逐一

報告します。ほら、時間だけはたっぷりありますし」

「それは心強い。ありがたい話です」

「そうだ。そういえば、まだ言ってませんでしたよね。実は

先日、会社や取引先でも」

 そこまで言って急に黙り込んだ私に、西村が不思議そうに

顔を向ける。西村の向こうのスツールに、幼い少女が座って、

こちらに顔を向けていた。顔の左半分が無残に焼け爛れ、右

半分の肌も煤けて汚れている。少女は、火傷を免れた右目で

西村をじっと見つめていたが、やがて、視線を私に向けた。

目が合った。少女の表情が悲しげに歪んで、何かを口走った。

 西村も私の視線を追って振り返ったが、当然彼には無人の

スツールしか見えない。それを確認して、私に向き直ると、

冗談めかして、怯えたように身震いして見せた。

「ちょっと、勘弁してくださいよ。まさか私絡みのヘルパー

が見えたっていうんじゃないでしょうね?」

 私も冗談めかして、大袈裟に首を左右に振って否定する。

「万が一見えてしまったら、そのときは一切包み隠さず報告

しますから、ご心配なく。さあ、今夜は飲みましょう!」

 空々しく乾杯をした。

 少女はまだスツールに座っている。


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