第10章
母親の葬儀を終えて忌引きが明け、久しぶりに会社に顔を
出した私を待ち受けていたのは、思わぬ異動命令だった。
〈総務部・車両管理課・主任補佐〉
手渡された辞令を見て、首を捻る。
「何をやるんですか?」
「ああ、地下駐車場に外回りの営業車があるだろ? あれに
ワックスを掛けたり、車内を掃除したり、タイヤの空気圧を
チェックしたり、ステッカーを貼ったりだ。大事な仕事だよ」
身内に不幸があったばかりの部下を一応気遣ってのことか、
中西部長は、いつもの居丈高で侮蔑的な態度ではなかったが、
目を合わせようとはしなかった。
「でも、平田さんとのお話がまだ」
「ああ、あのことなら心配するな。おれが何とかするから」
確かに自分が行くよりは、昔馴染みの部長がご機嫌伺いに
訪れた方が、平田主任の態度も軟化するだろう。取引停止も
回避されるに違いない。むしろ最初からそうしていれば話も
あそこまでこじれなかったかも知れない。仕事から外された
という屈辱や不満よりも、肩の荷が下りてほっとした気持ち
の方が強かった。しかしそうですかと素直に受け容れるのも
何か違う気がした。
「それでは部長にご負担が」
「おいおい、今まで負担を掛けていないつもりだったのか?」
部長は、初めて顔を上げて目を合わせた。苦笑して、冗談
めかしていても、言葉そのものに遠慮はなかった。もっとも
これくらいのことを言われる覚悟はできていた。
「勘違いするな。別に君を気遣っているわけじゃない。平田
さんも、つい最近息子さんをご病気で亡くされたばかりで、
精神的にいろいろと大変なんだ。知らなかったのか?」
「ご子息を?」
「そうだ。この春に大学を卒業予定で、就職も決まっていた
のにな。急性何とかって癌の一種らしい。可哀想に」
話を聞きながら、あの日、平田主任の横にずっといた若い
男を思い出していた。無表情で何も反応しないあの男。では、
あれは男性店員ではなく、主任の亡くなった息子だったのか?
(ヘルパー? あの平田主任にも?)
「そんなところに気の利かない部下を一人で行かせて、更に
神経を逆撫でしたら平田さんが気の毒だろ? おれが行くよ」
「申し訳ありません」
「先方だけではなく、社内的にも大問題になっているからな。
金輪際あんなやつに営業をさせるなと、通達があったんだ」
「通達?」
中西部長は苦笑を浮かべた。
「おや、知らないのは本人だけか? 評判になってるんだよ。
嫌がる母親を、老人ホームに厄介払いして自殺に追い込んだ、
血も涙もない親不孝な息子だってな」
「いや、それは」
あまりの言われように、さすがに言葉を失った。
「車両課配属は、むしろ会社の温情だよ。高齢の役員からは、
もっと厳しい処置を求める声も上がっていたらしいぞ」
到底、納得できなかった。
「うちの家庭の事情なんて、どなたも知らないはずなのに、
そんな憶測のレベルで、一方的に決め付けられても」
「奥さんとは離婚調停中なんだろ? 母親があんな死に方を
してまだ日も経っていないのに、次から次にややこしい案件
が出てきて、忙しい限りなのは同情もするが、この状況だ」
部長が両手を広げ、わざとらしく肩を竦めてみせる。
「憶測するなという方が無理だとは思わんか、ん?」
確かに陽子とは今、抜き差しならない方向で揉めてはいる。
(しかし、なぜ部長が、いや、会社がそんなことまで?)
私は動揺を隠せなかった。母が死んだことを電話で伝えて
以来、妻とは音信不通だった。家はもぬけの殻で、キッチン
テーブルには判をついた離婚届が置かれていた。携帯は着信
を拒否され、陽子の実家にも電話は通じなくなっていた。
しかしどこまでもプライベートの話だ。部長にはもちろん、
社内でも一切して漏らしてはいない。誰も知らないはずだ。
「告別式に喪主の奥さんが列席していなかったら、普通は誰
でも不審に思うだろ? 一人だけ親族席にいたあの叔母さん
に水を向けたら、こっちが聞いてもいないことまで微に入り
細にわたって全部話してくれたよ。君がもっと早く奥さんと
別れていたら、姉さんも死なずに済んだのにって泣いていた。
惣ちゃんはやることなすこと、後手後手に回り過ぎだとよ」
確かに叔母なら言いそうなことだった。だがこういう形で
聞かされるのは、いくら何でも我慢ならなかった。
「そ、それとこれとは、話が別でしょう!」
「いや、全然別じゃないだろう? 業務には支障を来たすし、
夫婦間の揉め事も、これだけ拗れたら、さぞや大変だろうと」
「大変じゃないです」
「奥さんは実家に帰ったか? 結構怖い人なんだろ、奥さん?
料理も作らず掃除もせず、洗濯は夜中のコインランドリーで」
「うるさい! 黙れっ!」
「あん?」
叫んでから、しまったと思った。オフィスが静まり返った。
「黙れだと? おれに言ったのか?」
部長が眉を上げる。
「すいません!」
慌てて頭を下げた。しかし部長は怒りだすどころか、余裕
で苦笑を浮かべていた。
「ほらな。大事なお得意様に、そんな調子で感情任せに暴言
でも吐かれたりしたら、会社もたまったものではないんだよ。
まあ、しばらく頭を冷やして、よく考えた方がいい」
そして、うなだれる私にだけ聞こえるように、つぶやいた。
「警察にも疑われたんだろ? 見舞いの振りをして実は病気
の母親を、わざわざ始末するために行ったんじゃないかって」
「な、何だと!?」
疑われたのは事実だった。看護師が来たとき病室には母と
私の二人きりだったので、自殺に見せかけ私が母の首に腰紐
を巻き付け絞殺の可能性も検証され、警察で事情聴取された。
もっとも受付の来館時間の記録から逆算して、物理的にまず
不可能と判断され、それ以上の追及はされなかった。しかし、
それをなぜ、部長が知っている? なぜ今、ここで言う必要
がある? またも頭に血が昇ってきた。拳を握りしめて部長
を睨んだ。殴れるものなら殴ってみろといわんばかりに部長
が冷笑を浮かべていた。体が震えてきた。殴ってしまったら
問答無用に解雇だ。しかし我慢の限界だった。怒りに任せて
部長の顎に向かって腕を振り上げかけた。そして息をのんだ。
部長の肩に、胎児が乗っていた。
ぬらぬらと羊水に濡れて、月足らずの、生白い肌の胎児が、
臍の緒を垂らして、部長の頭にしがみついていた。もちろん
部長は気づいていない。社内の誰にも見えてはいない。私は
脱力して動きを止めた。殴られるのを覚悟して身構えていた
部長が、意外そうに私を見て、瞬きした。
「何だ? どうした?」
「いえ。何でもありません」
「おい、どうしたんだ?」
恐怖の表情を浮かべて固まっている私に、部長が戸惑う。
胎児は目を開けて、私を見た。そして手を伸ばしてきた。
私は慌てて身を引くと頭を下げて、謝罪の言葉もそこそこに
早退を願い出た。私の態度の急変に不安になったのか、部長
は嫌味も言わず、あっさり許可してくれた。頭を上げると、
胎児は真っ赤な顔をして、身悶えしながら泣き叫んでいた。
しかし、何も聞こえなかった。胎児の目は、私を見ている。
顔を背け、逃げるように会社を後にした。




