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第1章


 最初にそれを見たのは、地下鉄の駅のホームだった。

 私はベンチに腰掛けて電車の到着を待っていた。得意先を

訪れ、難しい交渉をしなければならない。部長命令だった。

発注を少し減らしたいと言ってきた先方に対して、逆に倍の

注文を取ってこなければならない。どう考えてもうまくいく

はずがない。しかし、できなければ人員整理の格好の標的に

されることは目に見えている。今年で五十二歳、解雇される

と再就職もままならない。とにかく粘り腰で、最悪でも現状

維持だけは取り付けなければならない。出るのはため息ばか

りだ。やるせない思いで線路の向こう側の壁面広告を眺める。

 午後三時過ぎのホームには疎らにしか人がいない。ベンチ

の隣に座る若者のヘッドフォンから、チャカチャカと耳障り

な音が漏れていた。急行の通過を告げるアナウンスが流れる。

「危険ですので、白線の内側までお下がり下さい」

(ん?)

 視野の片隅に違和感を覚え、そちらに目を向けた。まだ転

落防止フェンスが設置されていないホームの縁に、ワイシャ

ツ姿の中年男が、微妙にゆらゆらと揺れながら、危なっかし

く立っていた。そして背後から寄り添うように、黒いワンピ

ースを着てサングラスを掛けた若い女。寄り添うというより、

ほとんど密着していた。女は、しきりに何ごとか男に話しか

ける。しかし男は無視している。女は執拗だった。声は聞こ

えないが、ただならぬ気配を漂わせている。

(痴話喧嘩か?)

 平日の午後、ターミナル駅で目にするにはいささか場違い

な光景だったが、ホームにいる他の客は誰もが見て見ぬ振り

を決め込んでいるようだ。通過する急行が速度をほとんど落

とさずに入ってきた。男は後ろに下がろうとせず、ホームの

縁に立ったままだ。女も男のそばから離れようとしなかった。

 電車からの警笛が構内に響き渡る。男は反射的にびくりと

身を引いた。

 その瞬間。

 女が両手を伸ばして、男の背中を突いた。男が前のめりに

ホームから転落し、姿が見えなくなる。私は思わず声をあげ

た。隣の若者も驚いて立ち上がる。緊急制動の不快な金属音

を響かせて、銀色の車両が視野を横切っていった。ブレーキ

が間に合うはずもなかった。十数メートルをオーバーして、

急行車両はようやく停止した。駅員や警備員が次々とホーム

に駆けつけてくる。

「人身! 人身!」

 転落場所をおそるおそる見にいった若者が、声にならない

悲鳴を上げた。私は周囲を見回して、気がついた。あの女が

いない。目の前を横切る若い駅員に声を掛けた。

「女だよ。すぐ探して。まだ遠くには行っていないはずだ」

「は?」

 訝しげに見返す駅員の眼差しがもどかしかった。

「黒い服の女が、後ろから男の人を突き飛ばしたんですよ。

こうやって、どんって! 女を見つけなきゃ!」

 それを聞いて茶髪の若者が口を挟んできた。

「おれもそこで見てたけど、女なんかいなかったよ」

「いや、いただろ?」

「いなかったって。男が一人で飛び込んだんだ」

 若者はにやにや笑いながら、目が乾くのか、しきりに瞬き

を繰り返していた。私は苛立って若者に詰め寄った。

「ふざけていいときと悪いときがあるぞ。なんでそんな見え

透いた嘘をつく?」

「嘘じゃないよ。あんたこそ夢でも見てたんじゃないの?」

 困惑した駅員が、若者と私の顔を交互に見比べていた。

「飛び込みだよ、飛び込み。いや、焦ったわ。初めて見た!」

「違う。女に突き飛ばされたんだ! これは殺人だ!」

「しつこいなあ。自殺だっての。馬鹿」

 頭ひとつ大きい若者の口から唾の飛沫が飛んで、私の頬に

かかった。私は懸命に怒りを抑えて、深く息を吸い込んだ。

「なるほど。おまえの連れか?」

「はあ?」

「人殺しの共犯だろ。だから庇ってるんだ。おまえの女か?」

 シュウと音を立てて、者が息を吸う。瞬きを止めて、私を

見下ろし、掠れ声で言った。

「おもしれえじゃん」

 若者は私の肩にそっと手を置いてきた。そして、おもねる

ような口調で語りかけてきた。

「なあ、おっさん。あんまり人のこと舐めんなよ、な?」

 肩に置かれた手に強く力が加わってきて、不快だった。

「そっちこそ」

 言い返そうとした瞬間、茶髪の頭が、満身の力を込めて私

の鼻面にしたたかに打ち付けられた。



 私は駅事務室の応接ソファに横たわっていた。鼻骨は折れ

ていなかったが、左の鼻孔に詰められた脱脂綿に血が滲んで

いた。駅員が割って入って制止しなかったら、もっと酷い目

に遭わされていただろう。私は腕時計を見て、天井を仰いだ。

(間に合わないな。先方に連絡しないと。あと、会社にも)

 痛みをこらえて、体を起こそうとした。

「あ、もう大丈夫ですか?」

 声に振り返ると、駅員でも警備員でもない紺色の制服の男

が立っていた。警察官だ。通報を受けて駆けつけたらしい。

「でしたら、ちょっとお話を聞かせていただきたいのですが」

 警官は向かいのソファに腰を下ろすと、手帳を開いた。

「一応、あなたの言い分も聞いておかないと」

 一応、という言い方が引っ掛かった。

「あの、相手はどこに?」

「はい、厳重注意の上、お引き取り願いました」

 私は唖然として警官を見返した。

「厳重注意って。暴行の現行犯なのに?」

「でもいわゆる、売り言葉に買い言葉ですから。しかも挑発

したのは、あなたからのようですし」

「でも、それは相手が一方的に言っているだけでしょ?」

「いや、駅員さんが一言一句聞いていたんですよ、あなたが

相手に言ったこと」

 警官は手帳に目を通しながら、ボールペンで頭を掻いた。

「あなた、あの青年に人殺しって言いましたよね?」

「それは、言ったかも知れませんが」

 警官は苦笑いしてみせたが、目は笑っていなかった。

「さすがにまずいですよ、初対面の相手に向かって人殺しは。

誰でも怒るでしょ?」

「いや、しかし、あいつは」

「ま、お互い自殺の現場を目撃して、神経が高ぶっていたと

いうことでね、喧嘩両成敗。それで穏便に済ませましょうと。

先方も、渋々ながら承諾してくれましたから」

「承諾、だと?」

 もう我慢できなかった。私は体を起こして、まくしたてた。

「おかしいじゃないか! あいつはあからさまに嘘をついた

うえに、逆切れして暴力を振るったんだぞ。それがどうして

現行犯で逮捕もされず、解放されるんだ? 渋々ながら承諾

だと? 私は全く納得できない! 被害届、ああ、被害届を

出します!」

 警官はひとつ息をつくと首を傾けて私を見た。制帽の下の

切れ長の目が、さらにすっと細くなる。

「あのさあ、もういい加減にしてくれないかな?」

「いい加減にしてほしいのはこっちだ! 何ならあんたを、

職務怠慢で訴えて」

「だから!」

 警官はソファの前のテーブルを叩いた。

「嘘をついているのは、あんたの方なんだよ!」

 警官は私に指を突きつけ、大声でそう決めつけた。



「本来は一般の人に見せちゃいけないんだけどね」

 ビデオデッキの再生ボタンが押された。駅事務室の奥まっ

たスペースにあるモニタールーム。私は食い入るように映像

を見つめた。監視モニターにワイシャツ姿の男が一人で映っ

ている。紛れもなく女に突き落とされたあの男だった。画面

の奥から急行列車がホームに滑り込んでくる。男は電車の前

にふわりと身を躍らせて、先頭車両の下に吸い込まれる。

 どこにも女の姿などなかった。

「そんな」

 呆然とする私に警官は辛抱強く、囁くように話しかけた。

「ね、映ってないでしょ? 念のため他の人にも聞きました

が、あなた以外に女の目撃証言は一切なかった。つまり自殺

ということです。殺人事件ではなく、自殺。人身事故」

「だ、だけど、本当に見たんだ。見たんです、間違いなく。

あの人のすぐ後ろに、女が!」

「だから、今、見たでしょう? 女なんかいなかった!」

 警官は声を荒げて私を黙らせると、口調を和らげて続けた。

「客観的にはあなたが暴言を取り繕うため嘘をついているか、

精神的に混乱して、幻覚を見たと結論せざるを得ない。事を

荒立てて不利になるのは、むしろ、あなたの方なんですよ。

ご理解いただけませんか?」

 そんなはずはない。今もこの目に焼きついている。黒いワ

ンピース。サングラス。伸ばした両手。あれが幻覚なものか。

間違いなく女はいた。いたはずだ。しかし繰り返し見ても、

映像には男しか映っていなかった。

「わ、私はけっして」

「本来ならば挙動不審で一時拘束のうえ、所持品を精査して

尿検査もして、アルコールか薬物反応が出ないかまで徹底的

に調べあげるところです。当然、会社にもご家族にも連絡が

行きます。しかし、あなたが今回の件を、双方の誤解による

行き違いと認め、われわれの仲裁を受け容れてくださるなら、

この件に関して、これ以上あなたを追及はしません」

 警官はちらりと私を見た。

「もちろん、このことは一切他言せず、蒸し返しもしないと

いう条件でね」

 私は力なく項垂れた。

「ご迷惑をおかけしました」

 本意ではない。しかし従うしかなかった。

「では、こちらに、署名と捺印を」

そのとき、警官の携帯が鳴った。

「ああ着いたか。ちょっと待たせておいて。今、話すから」

 警官は電話口を押さえ、私を見た。

「すいません、えっと、小島さん。あなた、お急ぎですか?」

「ええ、得意先に営業に向かう途中だったんですが」

 警官が言いにくそうに切り出した。

「そうですか。だったらその、お忙しいところをお引き止め

して恐縮なんですが、今少し、お時間をいただけませんか?」

「それは……?」

「ある方に会っていただきたいんです」

「いや、でも」

 私は時計を見た。

「お得意先とあなたの会社には、私から連絡しておきます。

事故の混乱に巻き込まれてホームで怪我をしたため、構内で

治療中ということで。もちろん警察官ではなくこの駅の人間

として話しますので、ご心配なく」

「はあ」

 あまり逆らわない方がいい。私は仕方なくうなずいた。

「そういうことなら」

 警官はほっと息をついて、初めて他意のない笑顔を見せた。

「助かります。お手間は取らせないようにさせますから」

「会うのは、警察の方ですか?」

「いや、学者さんです」

 警官は微妙な表情を見せた。

「大学の、えらい先生」



「やあ、いたいた!」

 私が出された番茶をすすっていると、白髪頭で痩せぎすの

老人が、にこにこしながら小走りで部屋に入ってきた。

「見たんでしょ、あなた? どうでした? どんなでした?」

 抱きつかんばかりの勢いで、老人が擦り寄ってきた。訳が

分からず私が戸惑っていると、警官が二人のあいだに割って

入って、逸る老人を宥めた。

「先生、ご紹介もまだですから」

「そうだったな、これは失敬。ああ、私は西村と言います。

こういうものです」

 よれよれの名刺を多渡された。


〈城北大学 心理学科 臨床心理学博士 西村龍雄〉


(精神鑑定でも受けさせられるんだろうか?)

 不安げに顔を上げた私に笑顔を見せて、西村は言った。

「あなた、見たんでしょ? 男をホームから突き落とした女」

「ええ、でも映像には何も映ってなくて」

「映像なんかどうでもよろしい。機械は馬鹿、機械は馬鹿!」

 顔をしかめて吐き捨てるようにそう言い放つと、西村は私

の両肩に手を置いた。そして目を輝かせながら言った。

「あなた、会いたくありませんか?」

「会うって、誰にですか?」

「もちろん、その女にですよ! 他に誰がいます?」

「はあ。しかし」

 西村が私の肩に置いた手に力を込めた。

「通夜になればおそらく、いや、十中八九、まず会えます。

仮に会えなかったとしても、それがどんな女か、手掛かりは

必ず見つかるでしょう」

 眼鏡の奥の、やや血走った瞳がぐりぐり動いた。

「一緒に行きませんか、被害者のお通夜?」

「はあ」

 私はただ困惑して、西村の笑顔を見つめるばかりだった。

            

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