月下に揺れるそれはまるで柱時計のように
コロンさまの『養鶏場』を読み、そこに書いた自分の感想に触発されて書いたという変わった経歴の作品になります。
星空の下、俺は目的地も決めずにただ車を走らせていた。
幸い給油したばかりだし燃料には余裕がある。 このまま気の向くまま月の行くままドライブにしゃれ込んでもいいのかも知れないが、俺にはひとつの懸念事項があった。
ここは何処だ?
端的に言って、俺はただの迷子だった。
◇ ◇ ◇
連休中のちょっとした暇つぶしのつもりだった。
上司の気まぐれで唐突に入った連休。 土日も含めて5日間である。
用事もないのに連休とか入れるのは止めて欲しいんだが、ウチのバカ上司は兎に角計画年休を前倒しして消化させたいらしい。 全然計画になってない年休とか、迷惑この上ない話だ。
断るとウザいし、家族がいる訳でも、帰るような実家がある訳でもない俺は、たまたま配信動画で見た「計画性のない旅」というものをやってみようと思ったのだが……。
車自体はそこそこ新しいもののナビは中古だったせいだろうか? 最初にナビがイカレてしまった。 それならと、スマホをナビ代わりにしていたのだが、バッテリーが切れた。
充電しつつ使っていたつもりだったがケーブルが中で断線していたのだろう。
バッテリーが切れる前にスタンドで給油をしていたから良かったが、今の俺は地図もなく彷徨う憐れで迷子なオッサンである。
スマホが使えなくなった時点ですぐに引き返していれば、と後悔してももう遅い。
先程まで映っていた地図を「見た記憶」を頼りに、走ってしまったのが運の尽きなのだ。
ホントに何処だか判らない。
まあ、季節は夏。
幸い水分とおやつは事欠かない程度積んである。
場合によっては車中泊も視野に入れておけば、と開き直る。
道路も多少ボロくはあるが、一応アスファルトで舗装されているのだ。 何処かには繋がっているのだろう。 その舗装された道路で一台も対向車とすれ違わず、前方にも後方にも他の車が全く見えてこないのはちょっと不気味だが。
それにしても街路灯のひとつもない道路って存在するんだな……。
道路標識柱や視線誘導標は見えてるが街路灯はない、そんな道路を走っていくとやがて周囲に霧が立ち籠めてきた。 うわ、マジか……。
ただでさえ外灯のない暗闇だったのに、霧のせいで視界が著しく狭まってしまった。
速度を落とし、目を凝らして走る。
見えているのは伸びた木々の影。 並木道のように俺の行く先を指し示している。
それが不自然に途切れたカーブの向こうの、細い脇道の先に家らしきモノが見えた。
草原の中というか丘の上というか、そんな所にポツンとある建物らしい影。 濃くなりつつある霧の中、それを発見出来たのは幸運だったと言う他はないだろう。
誰かがいれば良し。
もし廃屋であったとしても、ちょっと車を置かせて貰うくらいはいいだろう。 いくら通りが少ない ――というか現状「ない」んだが―― 場所であっても路上駐車しっぱなしという訳にもいくまい。 この脇に駐めて一晩過ごさせて貰おう。
そう思い、家に車を近づけた。
近づくと何となく酪農家の家ではないか、くらいは判別出来る程度見えてくる。
道路からは家しか見えなかったが、さらに奥に牛舎らしい建物があるのがわかったからだ。
だが、これだけ近づいても牧場臭さというか、堆肥や家畜の臭いがあまり漂っては来ない。 全くない訳でもないが……最近離農したとかそういう感じなんだろうか?
後継者不足で離農する農家や酪農家は多いらしいから、深刻な問題だな。 まあ個人経営だと休みもないし、進んで職にしたいと思う人材も少ないんだろう。 最近は会社形態の農家や酪農家も増えてきたらしいが。
兎も角、非常灯を持って近づけば判るが廃屋かな、これは……。
屋内から漏れてくる明かりがない。
ガラス戸にはヒビだらけ。
家庭用ガスタンクの置いてあったであろう場所はもぬけの空。
電気も水道もメーターが外されている。
灯油タンクらしいものもない。
……ん?
ウロチョロして見ていると、牛舎の奥の方にまだ建物があるのが見えた。
その建物の内部は薄らと明かりがついている様に見える。 人がいるのか!?
漸く見えた希望を胸に、少しぬかるんだような地面を優しく蹴り飛ばし真っ直ぐに進もうとするが、柵やら牧草やらで上手く通っていけない様だ。 仕方なく遠回りをしようとして、ふと牛舎を見る。
幸い、と言っていいのか中に牛もいないし、ここを通ってしまえば家らしい建物まで一直線である。
「……おじゃましまーす」
小声で挨拶しつつ進入する。 いや、一応侵入なのか。
肩を縮込ませながら歩いて行く。
――ヴモォォォォォォォォッ!
そこへ急に聞こえた牛の鳴き声に身を震わせる。 慌てて周囲を見渡すが、その姿はない。
――ヴモォォォッ!
――ヴモオオォォォッ!
鳴き続ける牛の声。
悲痛にも聞こえるそれは、一体何処から聞こえてくるんだ!?
――一体どんな状況なんだ!?
牛舎中に響く悲鳴に似た声を背に、駆ける、駆ける、駆ける。
どれだけ走ったのか、気づけば牛の声は聞こえなくなっていた。
息を切らせながら周囲を見た俺は愕然とする。 言葉を失うとはこういう事かと、頭の隅で妙に納得をしながら、それでもあまりの驚きに動けなくなっていた。
――どうして俺はまだ牛舎の中にいるんだ?
息が切れるだけ走って、30mやそこらの牛舎を走破していない。
ゾクリ、と背筋が寒くなった。
何だ、コレは? 何なんだ?
訳が、解らない。
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
耳が何かが軋む音を、拾う。
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
それは見るべきではなかったのだろう。
見てはいけないものだったのだろう。
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
窓と、崩れかけた屋根から見える月明かり。
いつの間に晴れたのか、霧は何処かへ姿を消し、月と星が淡く辺りを照らしている。
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
牛舎の、大きな窓に見えるのは群青の空。
そんな夜空を切り抜いたかのような絵画に、振り子が揺れる。
柱時計のそれのように、一定のリズムで、ただ揺れる。
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
ゆら ゆら ゆら ゆら と ゆれる ひとかげ
ロープの軋む音。
月明かりの照らす群青の中、ゆらゆら揺れる振り子。
時計のように見えるそれはチクタクチクタクなんてメルヘンな音を立てる事はなく、ギシギシギシギシとただ軋みを上げる。
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
だってそれは、梁にロープを掛けぶら下がる人影。
瞳のない眼窩で、それでもこちらを見つめるヒトだった物。
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
昏い眼窩はじっとこちらを見つめてる。
肉を失った、最早ヒトのものではない醜貌でこちらを見つめている。
ゆらゆらと揺れながら。
ギシギシと軋む音を出して。
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
金縛りにあったかのように、動かない身体。
ああ、俺が一体何をしたのか…………。
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
いつの間にか増えた音が恐ろしくて仕方がない。
後ろから聞こえる軋む音が恐ろしくて仕方がない。
――プツンッ
俺は意識を失った。
こんな現象は、管轄外もいいところだった。
◇ ◇ ◇
気がつけば俺は朝露に濡れ、草原の真ん中に倒れていた。
一瞬、とんでもない悪夢を見た、と思いもしたが周囲を見渡し、全くの夢ではないことに気づいてしまった。
視界に入ったのは昨夜も見た牛舎と家だ。 離れたところには俺の車もある。
――逃げたい気持ちで一杯だった。 一目散に逃げ出したって文句は言われないだろうと思った。
でも、逃げてはいられないのだ。
朝日を浴びながら、恐怖を押し殺し牛舎の中を覗き込む。
よく見ると、ボロボロの牛舎だ。
何度も修理を繰り返したような、あちこちガタの来た建物。
その奥には、ギシギシと軋む音を立てることなく、ただぶら下がるふたつの遺体。
俺はその普通ではない遺体に手を合わせると、家の方へ向かった。
案の定、鍵の掛かっていない家に無言のまま侵入し、少し内部を物色する。
「……もしもし、俺です。
別に巫山戯ている訳じゃありませんよ。
すいませんが、鑑識の連中をお願いします」
電話に出た警部のセリフを流しながら、俺は端的に続ける。
「死体です」
事の顛末はありきたりと言えばありきたりな、でもそうとは言えない様なものだった。
昨今、拡大している熊による被害。
この老夫婦の営む酪農場もその被害に遭った。
日々日々殺される牛たち。 そんな被害を出すまいと農協や自治体に相談し、懸命に防御策を練るも、結果は出ず、仕舞いには牛舎にいても襲われる始末だ。
牛の味を覚えた熊はひたすらに牛を狙い続ける。
そんな時、狙い澄まして来たのが、恐らくニュースで事件を知ったであろう詐欺師であった。
ヤツらは困り果てた老夫婦から、言葉巧みになけなしの金を奪い去って行ったのだ。
夫婦は残った数頭の牛を知り合いの酪農家に譲り、そのまま絶望のうちに首を吊った。
そしてその遺体は牛を食べに来た熊によって喰われてしまったのだろう。 ふたりとも下半身と内臓の殆どは失われていた。
俺は報告書の写しを読みながら、遺体のあった場所を見つめる。 あの日見つけた遺書と、周囲への聞き取りからの推測だが大きく外れてはいないだろう。
ギシギシと軋みを上げ、俺を呼んだ人たちに決意する。
「犯人は捕まえますよ、必ずね」
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……
――ギシ……ギシ……――ギシ……ギシ……