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2、修道院のホワイトアスパラガス・スープ

 琴音が目を覚ました時、壁にかけられた時計は七時前を指していた。


「十分ほど前に日の入りしたところですよ」


 聞こえてくる静かな声に、琴音は慌てて上体を起こした。いつの間にベッドに運ばれたのだろう。

 修道院の中庭に面した窓の外は、薄暮の透明な青い光に満たされている。咲き誇る一重の白薔薇も、青に染まりそうだ。


 あんなにも煙のにおいにまみれていたのに。琴音の顔や髪に付着していた煤は、きれいに拭われていた。


「あの、側についていてくださったんですか? えっと」

神川透真(かみかわとうま)と申します。以後よろしくお願いします、飴山琴音(あめやまことね)さん」


 どうして名前を知っているのかと訝しんだが、琴音はすぐにシスターが教えたのだろうと納得した。


「よ、よろしくお願いします。神川さん」


 そう応じながら「よろしく」よりも「ありがとう」だろうと、琴音は自分に突っ込んだ。


「私のことは透真とお呼びください。お目覚めになったなら、一緒に食事にしませんか? シスタークレアが誘ってくださったんです。もっともシスターたちはもう夕食を終えていますが」


 修道院に慣れているのだろう。透真は部屋の扉を開けて、食堂へと琴音を(いざな)った。


 シスターたちが夕食を終えた食堂は、がらんとしていた。壁に掛けられた十字架も、大きなテーブルの並びもきちんと戻された椅子も何もかもが懐かしい。

 テーブルには布巾をかぶせた丸いパンが置いてあった。ずっしりと重いライ麦パンが二人分。そして

「お鍋の料理を温め直して、お召し上がりください」とのメモ書きも。


 今はシスターたちは晩の祈りの時間だろう。元々、沈黙であることが求められる修道院が、今はさらに静かだ。


「透真さんは、こちらで食事をなさることが多いんですか?」

「時々ですね。シスターから料理を教えてもらう機会があるので、その時に誘っていただいています」


 こんな男性が修道院の料理を? 琴音は疑問に思いつつキッチンへと向かった。

 ガスコンロに置いてあったのはグリーンピースと肉団子のブイヨン煮、ホワイトアスパラガスのスープの入った鍋だ。それにずっしりとしたライ麦の入ったパン。

 懐かしいウィリディタス修道院の料理だ。琴音は頰が緩んだ。


 ハーブ療法の母と称される聖ヒルデガルト。神聖ローマ帝国ドイツ王国の修道女で、日本でいえば平安末期の頃に活躍した。


 聖ヒルデガルトの教えを汲むウィリディタス修道院では、食は医とみなされる。薬草園やハーブ畑も併設されており、シスターたちがハーブを栽培し、料理に使う。

 中世ヨーロッパでは修道院には学問と教育、そして医学の光が満ちていた。医食同源、ヒルデガルトの教えはむしろ漢方に近いかもしれない。


 琴音は子供の時からウィリディタス修道院で暮らしてきて、素材を重視したシンプルな調理法の食事に慣れていた。


 一人暮らしの忙しい日々では料理もままならず、スーパーの総菜やお弁当を買う日が続いた。丁寧な暮らしは手間がかかる、けれど食事を(ないがし)ろにすると徐々に不調に見舞われた。

 まず、食事の後にやたらと喉が渇く。夜中に何度でも水を飲みに起きてしまう。次に肌に吹き出物が現れた。足が浮腫(むく)む。修道院で暮らしていた頃には経験しなかったことだ。


 けれどウィリディタス修道院では当たり前のように使っていたハーブも、買うとなると驚くほど高額だ。しかも調理に手間をかける時間もとれない。

 今は燃え崩れたあのアパートで暮らしていた琴音には、すべて遠い日の幻のようだった。


「ホワイトアスパラは、私が小さい頃は缶詰のイメージでしたが。今では生鮮品が流通しているのですね」


 蓋を開けた鍋を、透真が覗きこんだ。少し難しい表情を浮かべて言葉を続ける。


「缶詰のホワイトアスパラは柔らかくて食感というほどのものもなく、かすかなえぐみがあって。何というか食べず嫌いではなく、食べた上で苦手でした」


 缶詰は食べたことがない琴音は、なんと答えていいのか分からない。こういう時、機転の利く人ならば気の利いたことを話せるだろうに。口下手な自分が嫌になる。

 そのせいで、大学の新卒の時も数々の面接を落ちてしまっているのだ。


「アスパラガスは五月や六月が旬なので、この時期はよく食べていたんです 新鮮だからでしょうか、おいしいと思います」


 沈黙が食堂を支配する。今はシスターたちの祈りの時間なので、物音一つ聞こえてこない。

 この答えは正しいのか、相手が求めている説明に合っているのか? いや、多分正解ではない。

 仕事を失ったというのに、琴音は添削者の視点で物事を考えてしまっていた。


「いいですね。では旬のスープですね」


 透真は柔らかく微笑んだ。

 あれ? と琴音は拍子抜けする。会話というのはもっと緊張を強いられるものだと考えていた。主に修道院を出てからは、投げた言葉の軌道が逸れていないか、相手が呆れないか、機嫌を損ねないかばかりに気を遣っていたのに。


 スープや煮込みが加熱され、やわらかな匂いの湯気が立つ。料理を習っているというだけあって、透真はレードルでスープが焦げないように混ぜている。


 誰かと一緒にキッチンに立つのは、この修道院を出て行ってから初めてだった。

 その頃は料理当番のシスターと一緒だったけれど。アロハシャツの透真は不思議とシスターの隣にいるような。琴音は落ち着いた気持ちになった。


「琴音さん、食事をとりながらでいいのですが。お話があります」


 レードルを持つ透真の手が止まる。

 白いマグマだまりのように、アスパラガスのスープの表面がぼこっと音を立てて泡が砕けた。


 温め直したグリーンピースと肉団子のブイヨン煮を、琴音はスプーンで口に運んだ。一緒に煮こまれたじゃがいもはほくほくとして、味がよく染みていた。舌で押すだけで崩れるほどなのに、皿の中ではちゃんと形を保っている。

 まろやかで、優しい味だ。


 向かいの席についた透真は、とてもきれいな手つきでパンをちぎった。四角く茶色の濃いライ麦パンを口に運び、静かに咀嚼する。まるで古い映画でも見ているような心地になる。

 だから忘れていた。透真が話があると言ったことを。


「私はこちらの修道院長に、お願いをしていたのです。住み込みで料理の仕事をできる人を紹介してほしいと」


 透真が話しだしたので、琴音ははっとして手にしていたスプーンを置いた。


「家政婦さん、ですか?」


 それなら院長ではなく、家政婦を派遣する会社があるはずだけど。

 琴音の考えを察したのか、透真は「食堂を任せられる人となると、誰でもいいわけではありませんので」と応じた。


 聞けば、どうやら透真は私設図書館の館長であるらしい。公立ではないので、貸出は有料だ。それでもウィリディタス修道院が経営する療養所を訪れる人が借りたり、付近の住民が利用するらしい。


「うちの図書館は小さいのですが、併設の食堂で食事をお出ししているのです。住み込みの仕事になりますし、なにぶん辺鄙(へんぴ)な場所なので、休日も街に遊びに行くにしても車がないと不便なのです。ですから、なかなか人が決まらなくて」


 小さなため息を透真はこぼす。シスターに料理を習っていたのは、もしかして館長である透真自身が調理をするつもりだったのだろうか。

 テーブルに重ねて置いた長い指には、絆創膏が貼ってある。左の指は包丁で怪我をして、右の指は火傷だろうか。


「飴山琴音さん、いかがですか? 月光食堂の店主になってくださいませんか?」


 琥珀色の瞳が、まっすぐに琴音を射る。


 月灯り図書館。琴音は、深い藍色の空からこぼれ落ちる金の光の粒が見えたように思えた。雪のごとく音もなく、月光が凪いだ湖面に降っていく。

 湖を取り囲む森はまるで影絵。森の中にぽうっと暖かな明かりの灯る小さな図書館がある。

 あまりもイメージが鮮明に浮かんで、琴音は何度も瞬きをした。


「わたしはこの修道院で育ちました。院長にお願いして、次の住むところと仕事が決まるまでは、料理や掃除などを手伝いながらお世話になろうと考えていたんです」

「なるほど。ですが、それでは先の暮らしは見えなくありませんか?」


 突然の、直球すぎる問いかけだった。

 作文と小論文の添削の仕事はもう続けられない。かといって今さら就職も難しい。大学を卒業後、なんとか内定をもらった会社はあまりにも激務で、琴音は体を壊してしまったのだ。


 営業事務は受注業務が特につらく、残業時間も月に百時間を超えた。定時ににようやく客からの受注が終わり、それから配送に伝票を回す。そして請求書の発行だ。

 残業がない日などない。むしろ定時の後がさらに忙しい。なのに残業するなと叱られる。


 琴音はみぞおちに手を添えた。当時のことを思い出すと、胃が存在を主張する。それは胃痛の前触れだ。


 毎日の残業だけでは仕事が終わらない。ならば土日に出勤するしかなくなる。しかも無給だ。

 お風呂に入るのすらしんどくて、化粧を落とさずに寝落ちすることも多い。自炊など営業事務の頃はできる余裕がなかった。

 会社では「残業ばかりの無能者」と罵られ、琴音はミスが増えた。


 ふとテレビから流れた「アンパンマンのマーチ」を聞いた時、琴音は涙を流していた。

 幸せも夢も、何も分からない。

 そして三十歳の誕生日を前に、ベッドから起き上がれなくなってしまった。


「わたしなんかでお手伝いできることなんて……」


 今にも消え入りそうな声。琴音は膝の上で手を握りしめた。

 外で働くことができなくなったから、作文や小論文の添削の仕事を始めた。その仕事も結局失ってしまったけれど。


 家賃を払い、奨学金を返して税金などを納めて。食料費や光熱費を切り詰めてもぎりぎりの生活だった。それでも仕事がなければ、奨学金の返済が滞ってしまう。


「今日、私が火事に居合わせたのは偶然ではないのです。院長から紹介された琴音さんがどんな方なのか、遠目からでも見ることができればと思い、住所を教えてもらっておりました」

「え?」


 思いがけない告白だった。透真はばつが悪そうに、視線をスープ皿に向ける。白アスパラガスのスープは、残されることなく食べ終えていた。苦手ではなくなったのだろう。


 そう、この修道院の料理はおいしい。特にオーブン料理と煮込み料理。庭で育てているハーブを使用するのもあり、シンプルながら滋味深い。

 院長が琴音を紹介したのは、子供の頃から修道院で料理の手伝いをしてきたからだ。透真が自分で習うほどに、真剣さが伝わったからだろう。


 断る理由なんてない。

 これまでの人生で決断は苦手だったけれど。今、この時のチャンスは掴まなければ。


「月光食堂のお話し、お受けいたします」


 自分にこんな明瞭な声が出るのかと驚くほどに、琴音はしっかりと告げた。


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