1、救われた琴音
「休業中」の貼り紙が、その日ようやく剥がされた。
月光食堂。店主一人だけのこじんまりとしたお店だ。
場所はバスで曲がりくねった山道を二十分揺られ、月灯り図書館前の停留所で下車。そう、月光食堂は小さな私設図書館に併設する食堂だ。
ラベンダー色のエプロンの紐を、湖を渡る夏風に遊ばれながら、新たな店主がテラス席の用意をする。
「いらっしゃいませ。月光食堂、まもなく開店ですよ」
七月の夏色を封じこめた湖を前面に、緑滴る森を背景に店主は満面の笑みでランチ客を迎えた。
◇◇◇
曇天が橙色に焦げている。アパートが火事で燃えたのだ。
五月の午後、ほんの一時間前のこと。
どこかの部屋から「ガス漏れです、ガス漏れです、ガス漏れです」と平坦に繰り返す声は消えず。消えぬままに、ドウッと二階建てのアパートが揺れた。
外に飛び出した琴音は外階段を走り下り、足を滑らせた。
だめだ、逃げなきゃ。立ち上がることもできず、匍匐前進のように琴音は腕でアパートから離れた。圧倒的な熱を感じる、重い熱だ。
「はい、火事です。事故ではなく。住所は……」
混乱した状況なのに、男性が落ち着いた様子で消防車を呼んでいる。
灰色のスーツを着た四十代ほどの男性は、這いずる琴音に気が付いた。
「これはいけません」
琴音の腕をぐいっと引っ張って、背中をバシバシと叩く。
「いたっ。いたいっ」
琴音は悲鳴を上げた。
「消えましたね。大丈夫、カーディガンが焦げていただけです。よかった、もし化繊なら一瞬で火に包まれていましたよ」
男性は自分のスーツの上を脱いだ。場にそぐわぬあまりにも鮮やかな光景に、琴音は目を見張る。真っ青なハワイの空に真っ白なプルメリア。いかにも紳士で穏やかそうなのに、着ているシャツがアロハだ。
遠くから消防車のサイレンが聞こえた。遅れて救急車の音。男性は道路に向かって駆けだした。そして案内するために大きく手を振る。
集まってくる近所の野次馬が騒々しい。慌ただしく伸ばされるホースと「中に残っている人はいないか」と怒声のような確認。
放水。怒涛の放水。黒い煙は白くなり、アパートの二階部分は屋根が落ち、炭化した柱だけが残っていた。
消防隊員に助けられた老人は、鼻の辺りが真っ黒で。受け入れ病院を見つけると、救急車のサイレンと共に去っていった。平日の午後に部屋にいたのは琴音とその老人だけだったようだ。
「人が死ななくて良かったわね」
「晩ごはんの支度をしなくちゃ」
まるで芝居の幕が下りたかのように、近所の人たちが帰っていく。燃えていない家に、日常に。きっと「近くのボロアパートが火事になったのよ。延焼しなくてよかったわ」と興奮気味に家族に話すのだろう。
一時間前には、部屋を焼け出されるなんて考えもしなかった。添削の仕事を終えて、夕飯の材料を買いに行こうかと考えていたところだった。
「どうしよう……仕事!」
琴音は、真っ黒なてのひらで口を押えた。
ちょうど仕上げたばかりの作文と小論文の添削の紙を、机に置いていたのだ。
「うそ……うそっ。燃えちゃったの? うそでしょ、なんで?」
一枚あたり五百円程度の仕事だけど。通信教育の生徒さん達が一生懸命に書いたものなのに。琴音は慌てて立ち上がり、燃え尽きたアパートに駆け寄った。
住処の残骸は何もかもが真っ黒で、皿や鍋や電化製品らしきものが見えるだけ。炭化したものも燃え残ったものも、ぼたぼたと水が滴っている。
たった数枚の紙なんて、残っているはずがない。
――生徒さんの原稿を決して汚さないように。これは大事な預かりものなんです。とくに仕事中、机に飲み物を置かないように。何かを食べながらも絶対に禁止です。
――スクールペンの朱字を間違えた時は、万年筆用のインク消し液で丁寧に消してから訂正してください。完全に乾かないと、紙がペン先にひっかかり文字が滲みます。
毎年開かれる添削者の講習で、口うるさいほどに繰り返される言葉が琴音の頭の中で響いている。
どうしよう、どうしよう。汚すどころか、原物さえない。
「連絡、しないと」
震える手で、唯一持ち出したカバンからスマホを取り出す。アドレスがうまく押せない。ようやく電話がつながった時、琴音は「いつもお世話になっております。添削者の飴山琴音と申します」とかすれた声で話した。
「添削者番号は……えっと、えっと」
いつもなら8桁の数字の自分の番号をすらすらと言えるのに。今日に限って一文字目の数字すら出てこない。
328……ちがう、この数字ではじまるのは図書館の貸し出しカード。1505……これは営業事務の時の社員番号。
ようやく思い出した数字と、たった今起こった火事のことを琴音は伝えた。
事務の女性の声はいつも優しい。だが、琴音が添削用紙が燃えてしまったことを伝えると、見えていないのに彼女の表情が強ばるのが分かった。
「は? 火事? 子供でももっとマシな言い訳を考えますよ。汚損ですらなく、破損ですか? 会員の生徒さんに事情を説明して、原物ではなくコピーに添削させていただくと連絡を致します」
事務員のまくし立てる声で、琴音の耳がじんと痛む。
「飴山さん、あなたには人の心がないんですか? 生徒さんの大事な、とても大事な作文ですよ。それを失くした上に嘘までつくなんて。最低です。今後、あなたに業務を委託することはありません」
電話は唐突に切れた。
「は、はは」と、琴音は力なくスマホを地面に落とした。ごとり、と鈍い音がして水たまりに波紋が起こる。
「ねぇ、わたし、何かした? 火事で焼け出されたのに、コピーがあるのに、そこまで言われなきゃいけないの?」
目が熱い。呆然と火事を眺めていた時とは違う熱さだ。
「ねぇ! ねぇ! なんでわたしばっかり」
声を絞り出した琴音は咳きこんだ。煤けたにおいが鼻だけではなく、喉にもべったりとこびりついている。
もう誰もいなくなったアパートの残骸が、水の中に建つように滲んで見える。
頰を伝うその熱で、初めて琴音は自分が泣いていることに気づいた。
「……お母さん。今ぐらいは助けてよ」
肩にかけられたスーツの上着を握りしめ、琴音は体を震わせながら泣いた。
「しばらく寝るところを、お願いしなくちゃ」
のろのろと琴音は立ち上がった。足が重い、水分を吸ったスカートも。これまで火事の圧倒的な熱のせいで気づかなかったけれど、瀬戸内海から吹く風のせいか五月なのに寒い。湿気を含んだ服が体温を奪っていく。
一歩進むたびに、サンダルの中に溜まった水がこぼれる。背中にかかる黒髪もじっとりと湿り、元々の下がり眉が情けないほどに八の字を描いている。
「修道院に……早く。黙想の時間までに着かないと」
足がうまく上がらない。かつて暮らしていた修道院への坂は、こんなにも急だったのか。
「なに? あの人、顔が真っ黒に汚れてるんだけど」
「水浸しだし」
坂を下りていく女子高生たちが、琴音を一瞥して小さく笑う。
うん、想像できないよね。ただの変な人だよね。火事に巻き込まれたなんて、日常からあまりにもかけ離れているもの。女子高生たちはポニーテールを跳ねさせながら、海へと続く坂を足早に下りていく。
早く……早く。遠くに教会の十字架が見える。あと少し、教会を越えてウィリディタス修道院に。シスターに会えれば、お願いすれば。
琴音の視界で十字架が幾重にもぶれて見えた。
かくん、と膝の力が抜ける。気づけば琴音の眼前にはアスファルトの黒があった。
「あれ? なんで? 転んでないのに」
右頰にじゃりっとした粒を感じる。ああ、あの女子高生たちの通う学校の校庭から、砂が飛んできてるんだ。
早く立たなくちゃ。また見世物になるのはごめんだもの。
地面に手をつくが、腕に力が入らない。自分の体すら支えることができない。ちょうど下校時間だから、次々と中学生や高校生が坂を下りてくる。ひそひそと好奇に満ちた囁きが、波のように琴音を囲む。
「すみません。通してくださいませんか」
男性の声はあまりにもまっすぐで、学生たちの声が一瞬にして静まった。琴音の視界の半分はアスファルトで、その道を革靴が近づいてくる。その人が坂に膝をついた時、真っ青な空に描かれた白いプルメリアが見えた。
「あなたの家は先ほどのアパートですね? こちらに知り合いがいらっしゃるのですか?」
「ウィリディタスしゅうどう、いん。そこにお世話に、なってました」
五時の鐘が夕凪の大気を震わせる。琴音は力なく坂の上の教会を指さした。
「なるほど、ちょうどいい。私のことは無料のタクシーとでも思ってください」
滑らかな声だ、まるでひたひたと水が湖岸をひたすような。
琴音の返事を待たずに、体が持ちあがった。男性は紳士といってもよさそうな、穏やかな上品さをまとっている。だからこそアロハシャツの違和感が際だっている。
彼のスーツの上着に包まれて、琴音は抱えられた。
「あ、あの。降ろしてください、歩けます」
「修道院に着いたら降ろしますよ。ですが今はしゃべると舌を噛みます。あなたは修道院まで黙っていること、いいですね?」
柔和な笑顔なのに、押しが強い。琴音は黙って唇を引き結んだ。
年の頃は三十代後半か四十歳ほどだろうか。柔らかそうな栗色の髪も、澄んだ琥珀の瞳も一見すると儚そうに思えるのに。琴音を軽々と運んでいる。
ウィリディタス修道院に到着した時、すでに鐘は鳴り終えていた。ふつうの人は修道院に入るのをためらうだろうに、アロハの彼は違った。ここは女子修道院だ、中で見かける男の人は神父様くらいしか知らない。
なのにアロハの人は当たり前のように玄関から、白いマリア様の像が据えられたロビーへと進むのだ。
「すみません、誰かいらっしゃいませんか?」
広いロビーにアロハの人の涼しい声が響いた。大きな声ではない。
しばらく待つと、春から夏にかけての灰色の修道服とベールをまとったシスターが現れた。
「これは神川さま。ご連絡をくだされば……」
そう言いかけた年嵩のシスタークレアは、目と口を同時に大きく開いた。
「琴音ちゃん! どうしたのですか? 神川さま、いったい何があったのです?」
さすがシスターだ、慌てていても言葉が乱れない。琴音は、かつて馴染んだ暮らしを思い出して頰を緩めた。
もう大丈夫。その安堵が引き金になったのだろう。琴音はすとん、と眠りに落ちた。