氷の騎士と温もりの花嫁
男爵家の北側に位置する、冷たい石造りの一室。陽の光はほとんど差し込まず、いつもひんやりとしていた。形式上は「部屋」とされていたけれど、埃を被った古道具が隅に積み上げられ、実質は物置と大差なかった。そこが、私──エリスの居場所だった。
窓の外では、乾いた冬の風が木々の枝を寂しげに揺らしている。部屋の中は薄暗く、石壁を伝わる冷気が肌を刺すようだった。粗末な寝台に腰掛け、膝を抱える。私の血管には、半分庶民の血が流れている。表向きは男爵家の養女という立場だけれど、その出自のせいで、両親である男爵夫妻や、きらびやかなドレスを身にまとう義理の姉妹たちからは、常に冷たい視線と、隠された棘のある言葉を浴びせられていた。
「エリス、またそんなところでぼんやりしているのか?少しは役に立つことをしたらどうだ!」
甲高い義母の声が、扉越しに冷たく響いた。私は小さく肩をすくめ、返事をしなかった。彼女たちの言葉は、いつも私の心を凍らせる。
そんな私の心を温めてくれる、束の間の時間。それは、人目を忍んで行う、傷ついた小さな動物たちを手当てすることだけだった。
裏庭の薬草園の隅で翅を傷めたモンシロチョウを見つければ、私はしゃがみ込み、震える指先で羽根についた繊細な黄金色の粉を注意深く払い、特別な薬草を煮出した、淡い緑色の煎じ液を優しく、本当に優しく塗ってあげた。もう誰も使わなくなった古い井戸のそばで、足を怪我して悲しげに鳴く小さな子猫を見つければ、そっと抱き上げ、温かいミルクを注意深く口元に運び、柔らかな古布でその小さな身体を包んだ。
「もう大丈夫だよ」
囁く私の声は、いつも空気の中に溶けていくようだった。
私には、誰にも言えない不思議な癒しの力があった。私の手のひらの温もりに包まれた動物たちの傷は、まるで魔法のようにたちまち回復し、元のように元気を取り戻していく。それは、男爵家の誰にも知られてはならない、私だけの秘密の喜びであり、同時に、知られたら私の立場がさらに危険になるかもしれない──絶え間ない不安の種でもあった。
そんなある日の夕暮れ、西の空が燃えるような深いオレンジ色に染まり始めた頃だった。私は裏庭の、苔むした古い石垣の隙間で、血を流した小さなスズメを見つけた。そっと両手でその弱った小さな体を包み込み、いつものように、指先に癒しの力をそっと込める。乾いた血で汚れた茶色い羽根を丁寧に拭い、特別な薬草のペーストを優しく、傷口に薄く塗り込む。その温もりは、夕暮れ時に冷え切った石垣の感触とはまったく違った、生きた、脈打つような温かさだった。
「痛かったね…もうすぐ楽になるよ」
私がそう囁いた、そのときだった。背後から、硬い革靴の足音が、乾いた庭の土を踏みしめるように近づいてくるのに気づいた。反射的に振り返ると、そこに立っていたのは──王国騎士団の団長、レオナルド・フォン・クライスト。
磨き上げられた漆黒の鎧は夕暮れ時の薄暗がりの中でも鈍い光を放ち、月明かりを反射する銀色の装飾が、彼の輝かしい威容を際立たせていた。数々の戦場で英雄的な武勲を挙げ、冷徹なまでの沈着冷静さで周囲を畏怖させる存在。その冷たい視線は、出会う人の心臓を凍らせるとも言われていた。彼は、国王の命を受け、この辺境の男爵領を視察するために突然姿を現したという。
私は息を呑んだ。こんな誰も来ない裏庭で、なぜ、あの「氷の騎士」が?
レオナルドの視線は、私が傷ついた鳥を慈しむように抱きかかえる姿を、まるで凍結した画像のように、じっと見つめていた。普段は冷たい彼の深い青い瞳の奥に、普段の冷たさとは明らかに異なる、より深い、評価するような、そしてまるで思いやりを感じさせる光が、一瞬だけ、宿ったように私には見えた。彼は一歩も近づかず、遠い場所から沈黙を守り、ただじっとその普通でない光景を見つめていた。彼の存在感は、私の意識に重い重圧としてのしかかり、心臓は不安げに速いリズムを刻んだ。私は彼の冷たい視線に耐えきれず、まるで何か悪いことをしている子供のように、慌てて鳥を裏庭の古びた樫の木の根元にある、自然な隠れ場所へとそっと逃げだした。
──数日後。
レオナルドが王都へ帰る準備をしているという噂が、町中に静かに広がり始めた頃だった。そんな中、彼は突然、男爵の埃っぽい執務室を訪れ、形式的ながらも毅然とした口調で、私を自身の保護下に置きたいと申し出たのだ。
「男爵、娘御を王都へ連れて行きたい」
彼の声は低いながらも、反論を許さない威圧感があった。
男爵とその脂ぎった顔の妻は、彼の予期せぬ要求に言葉を失い、目を丸くして顔を見合わせた。半分庶民の血を引く、家の恥のような娘に、なぜ高位の騎士団長がそのような関心を示すのか──彼らの低い意識では、とうてい理解できるはずもない。
「え、ええと…クライスト卿、それは一体…?」
男爵が恐る恐る尋ねるのが聞こえた。
「彼女には、私が認めるべき特質がある。形式的な手続きは後日行う。異存はないな?」
レオナルドの冷たい視線は、男爵の哀れな抵抗を容易くねじ伏せた。
「…かしこまりました」
男爵は声を震わせ、形式的に頭を下げた。
私自身も、あまりに唐突な決定に頭の中で疑問符が無限に飛び交い、不安と困惑の冷たい波に襲われていた。なぜ、私が?
こうして私は、最低限の荷物を古びた革の鞄に詰め込み、レオナルドが用意した、黒曜石のように重厚な装飾が施された黒い馬車に乗り込んだ。王都へと続く長い道のり、馬車の単調な揺れの中、二人の間で交わされる言葉は、形式的な挨拶程度で、実質的に皆無だった。レオナルドから発せられる、空気そのものを凍らせるような冷たい雰囲気は、狭い車内の隅々まで浸透し、私は隣に座る彼のシルエットを、まるで氷の彫像のように感じ、緊張のあまり呼吸すら忘れた。彼の過去――両親の不誠実な関係が彼の心を深く傷つけ、人を信じられなくさせていたという冷たい物語を、この時の私はまだ、知る由もなかった。
王都の中心部に威厳をもってそびえ立つ、クライスト伯爵邸。広大な庭園と高い石壁が、その富と権力を静かに物語っていた。私は、与えられた華やかな個室に身を置いたが、私の心は相変わらず冷たい不安に囚われたままだった。天蓋付きの豪華な寝台も、金色の刺繍が施された柔らかな絨毯も、今の私にはただの重苦しい飾り物のように感じられた。レオナルドは、私の日々の必要とするもの全てを手配したが、親愛の情を込めた個人的な会話を交わすことは、意図的に避けているようだった。私は、なぜ彼が自分を遠い男爵家から連れ出したのか、その真の理由が全く理解できず、孤独と不理解の冷たい重圧に押しつぶされそうな日々を送っていた。
──しかし、ある夕暮れ時、空が深い青色に染まり、一番星々が夜空に瞬き始めた頃、レオナルドは突然私を邸の奥にある、手入れの行き届いた静かなバラ園に誘った。夕暮れ時の空気は冷たく澄み、色とりどりの花々の微かな香りが漂っている。月明かりが優しく照らす中、彼はいつもの毅然とした声とは異なり、落ち着いた低いトーンで、自身の過去について静かに語り始めた。
「私の両親の結婚は、形だけのものだった。互いに尊敬はなく、隠れた裏切りを繰り返していた」
彼の声は乾いており、まるで遠い過去の出来事を語るようだった。
「幼い私は、彼らの嘘と冷たさを敏感に感じ取り、次第に人を信じることを諦めていった。感情を表に出すことは弱さだと考え、意識的に心の扉を閉じてきた」
彼は月を見上げ、その横顔は暗い影に覆われている。
「だが…男爵家の裏庭で、血を流した小さな鳥を私の儚い指先でそっと包み込み、献身的に手当てをするあなたの姿を遠い場所から目撃した時、私の奥底に凍てついていた感情のかけらが、突然温かい光を放ったのだ」
彼の青い瞳が、初めて、冷たさの奥にある人間的な温かさを湛えているように私には見えた。
「あなたのその優しさは、親切を周囲に見せつけるためのものではない。それは、あなたの心の奥深くから湧き出る、本物の優しさだ」
レオナルドの声は、いつもの冷たい硬さを潜め、低いながらも、温かい温かさを帯びた響きを持っていた。私は初めて、彼の冷たい瞳の奥に、隠された優しさの光が確かに存在していることを感じた。それは、遠い星のように、微かで冷たいながらも、確かに温かい温かさを秘めているように思えた。
それからというもの、レオナルドはまるで凍った湖の氷が春の陽光にゆっくりと溶けていくかのように、少しずつ私に心を開き始めた。彼はよく、私が手入れをするようになった邸の小さな薬草園に姿を現し、そこで小さな動物たちの様子を観察した。不器用ながらも、時折温かい言葉をかけ、そして時には珍しい色とりどりの花を私の手のひらにそっと置いた。
「これは、あなたの庭に合うだろうか?」
彼の差し出す小さな白い花は、夕暮れ時の薄明かりの中、純粋に輝いていた。
私もまた、彼の冷たい外見の奥に隠された、誠実さ、真摯さ、そして突然表れる秘めた情熱の衝動に気づき始めていた。彼の冷たい瞳が、時折私を見つめる時、そこに熱い炎が宿っているのを感じることがあった。私は、自身の出自に対する隠されたコンプレックスを抱えていたが、レオナルドの純粋な眼差しは、それをゆっくりと溶かしていった。
──そんなある日。
正式な王室の晩餐会への招待を受け、男爵夫妻が突然姿を現した。晩餐会の喧騒の中、彼らは以前のように私を見下し、冷たい嘲笑と嫌味を含んだ言葉を私に向け投げつけた。
「まあ、あれが噂の…庶民の血を引く娘でしょう?クライスト伯爵も、趣味がお変わりになったものですね」
義姉の声の調子は、蜜のように甘く、しかしその奥には冷たい刃が隠されていた。
「身の程をわきまえたらどうかしら。あんな低い出自の娘が、いつまでそばにいられることやら」
義母の声は、周囲の貴族たちの耳にもはっきりと届いた。
その言葉が私の耳に届いた瞬間、そばに立っていたレオナルドの瞳から、これまで私が見たことのないほどの激しい怒りの炎が噴き出した。彼は周囲の喧騒など全く気に介さず、深く響く声で男爵夫妻を公衆の面前で弾劾した。
「彼女の純粋な心と、金より価値ある優しさを理解できないあなたたちこそ、自身の卑しさを深く認識すべきだ!エリスは無理やり私の元にいるのではない。私が彼女の内なる光を見出し、彼女の比類なき優しさに深く惹かれたのだ!あなたたちの冷たい心には、彼女の美しさは決して理解できないだろう!」
彼の声は、長年人々を信じられずに凍り付いていた心の奥底から、決然と放たれた解放の叫びのようだった。
予期せぬ公開の言明に、男爵夫妻の顔は恐怖と屈辱で青ざめた。周囲の高位の貴族たちも、普段は冷静沈着で感情を表に出すことのないレオナルドの激しい感情の露呈に、驚愕の表情を隠せなかった。私は、自分を守るためにこれほどまで激しい感情を露わにしてくれる彼の姿を見つめながら、心臓が激しく鼓動するのを感じていた。それは、冷たい冬の夜に突然差し込む、温かい陽光のようだった。
その日以来、レオナルドはこれまで以上に率直に自身の深い気持ちを私に伝えるようになった。彼はしばしば彼女の透明な瞳を見つめ、温かい温かさを込めた言葉で彼女の比類なき優しさを称賛した。彼の硬い表情は柔らかくなり、彼の冷たい瞳には、揺るぎない愛情の光が宿るようになった。私もまた、彼の冷たい外見の奥に隠された、深く真摯な愛情に徐々に心を開いていった。彼のそばにいると、これまで私が経験したことのないほどの深い安心感と、穏やかな幸福感に包まれた。まるで、凍てついていた大地に、春の温かい息吹がゆっくりと訪れるかのようだった。
ある夜、夜空を銀色の光が優しく包み込む中、レオナルドは薬草園の奥にある静かな東屋で、片膝をついて私の前に跪いた。彼の硬い手の中には、純粋に白く、夜にだけ開花するという神秘的な月下美人が、大切そうに握られていた。
「エリス。初めてあなたの孤独ながらも優しい姿を見たその瞬間から、あなたの純粋な心と、隠れた強さに、私は深く心を奪われていた。過去の冷たい傷のために、人を信じることを恐れていた私だが、あなたのそばにいると、本当の温かさを感じる。私にはあなたが必要だ。どうか、私の妻になってほしい」
レオナルドの声は、いつもの毅然とした調子の奥に、微かな震えを含んでいた。彼の冷たい瞳の奥には、いつもの冷たさとはまったく異なった、熱いほどの愛情の炎が揺らめいていた。私の瞳からは、抑えきれない喜びと感動の温かい涙が、静かに溢れ出した。
「はい、喜んで、あなたの妻になります」
私の声もまた、震えていた。半分庶民の血という冷たい鎖に繋がれていた私の心は、レオナルドの温かい愛情によって、完全に、そして元には戻れないほどに溶かされていたのだ。
二人の結婚式は、近しい親族と本当の友人たちだけを少人数招いて、静かで厳かな式として執り行われた。町を冷たい冬の空気が包む中、純粋な白いウェディングドレスに身を包んだ私は、温かい微笑みを浮かべ、強い決意を秘めたレオナルドの隣に立った。彼の普段は冷たい瞳は、今日だけは温かい温かさと、深い愛情の光に満ち溢れていた。
神聖な誓いのキスを交わしたその瞬間、夜空から静かに舞い降り始めた純粋な白い雪片は、まるで二人の新しい未来を祝福しているかのようだった。かつて、それぞれが冷たい孤独の中に身を置いていた私たちは、今、互いの温かい温もりを感じながら、共に新しい人生の道を歩み始めるのだ。彼らの間で育まれた愛は、冷たい冬の季節を乗り越え、必ず訪れる春の温かい陽光のように、周囲の世界を優しく、そして確かに照らし出していくだろう。