⑧その満足
洞窟の中をひと通り安全確認をしたリーリエが、雨で濡れた前髪をかき上げながら、翡翠の傍にやってきた。
「殿下、やはりこの洞窟で雨宿りしましょう」
翡翠は洞窟の入口付近に座っていて、焚火にあたりながら、頷く。
「キルティアは寒くはないか?」
翡翠が隣に立つキルティアを見上げながら、心配そうに声をかける。
「こちらにきて、一緒に火にあたらないか?雨に濡れてしまっては、寒いだろう」
「殿下、恐れ多いことです。私は大丈夫です」
キルティアは翡翠とは顔を合わせず、火があたらない場所まで下がってしまい、翡翠からは顔が影になってしまい、表情がわからなくなってしまった。
二人のやりとりをみて、リーリエは苦笑していた。
「この雨の様子だと、あの崖の先端にある大きな岩の上に月が見えるようになる頃には雨が止むでしょう」
リーリエが指さした先には大きな灰色の岩があった。三人は雨の中、この灰色の岩を目印に崖を下りて、この洞窟にたどり着いた。この洞窟の下はさらに急降下した崖になっており、目の前を遮るものがなかったので、天気が良い日なら、景色を見渡すのには丁度よい場所だった。
今は大雨になったせいで月など見えず、どこに月があるのか見当もつかないが、リーリエは天気がよめるのか、判断に躊躇いがなかった。
「雨がやんだら、すぐに王宮に帰りましょう。追手があるかもしれないですし」
キルティアはリーリエの話を聞いていないようで、視線は下を向いたままで、ずっと黙っていた。
「私が周辺の見張りをします。殿下とキルティア様は今は身体を休めてください」
キルティアは返事こそしなかったが、剣を握ると、翡翠の前をとおり、洞窟の入口の壁を背にして座り込み、膝を抱きかかえるようにして、目を伏せた。
どれくらい時間が経っただろうか。
翡翠はまどろみかけた目をこすり、あたりを見回す。
洞窟の外を見ると、雨は止んでおり、洞窟の入口の左側に大きな丸い月が見えた。洞窟の入口右側には月明りに照らされたキルティアが壁に寄りかかって寝ているように見えた。
リーリエは周辺警護をしているのか、近くにはおらず、洞窟には翡翠とキルティアしかいなかった。
静かな夜だった。
その静けさが月明りと焚火の音を誇張しており、洞窟には二人しかいないことをいわしめていた。
(珍しく寝ているのか)
しばらく翡翠が座ったままキルティアを見つめていると、月明りがゆっくり動き、キルティアの顔がよく照らし出された。
月明りに照らされたキルティアの左耳の銀色のピアス、透き通るような白い肌の神々しさに翡翠はおもわず息をのんだ。
翡翠は吸い寄せられるようにキルティアにゆっくりそっと近づき、自分の外套をかけてやった。
そしてそのままキルティアの頬に手をかけると、ゆっくりと自分の唇をキルティアのそれに合わせた。
翡翠が唇を離すと、すぐにキルティアの鋭い目と目が合った。
「・・・満足ですか・・・?」
翡翠は顔を赤くして、慌てて目を背けると、
「起きていたのか」
とバツが悪そうに言った。
キルティアは何も言わずに立ち上がると、崖の先端まで行き、
「リーリエ騎士団長が言う通り、晴れましたね」
何事もなかったかのように、崖の上から周囲を見回す。
翡翠は左横から月明りに照らされ、濡れた赤髪をなびかせる女剣士にただ、目を奪われていた。
「殿下、濡れたままの髪だと、首に纏わりついてしまって動きにくくないですか」
焚火にはあたっていたが、長い翡翠の銀髪はまだ十分に乾いてはいなかった。キルティアは一つに束ねた自分の髪を簡単にお団子頭にして見せて、
「同じように結ってしまいますか」
と言った。翡翠は突然の申し出に一瞬動揺したが、確かにそうだと納得して、キルティアに髪を結ってもらうことにした。
キルティアは座っている翡翠の後ろに膝をついて座ると、手慣れた手つきで銀髪を手櫛でまとめて、頭の上で綺麗なお団子頭を作った。
「うまいものだな」
「旅人でしたので、お金になるような技術はいろいろ持ってますよ。髪結いもお金になりますから」
「金をとるのか」
「今回はとりませんよ。こんな簡単に結っただけじゃとれませんよ」
「・・・さっきは異国の国の言葉もわかっていたみたいだし、多彩なんだな」
翡翠は感心して褒めたつもりだったが、キルティアは一瞬固まってしまった。
「旅人でしたから、この国に出入りするさまざまな国の言葉は何となく喋れるようになりました」
翡翠は髪を結いあげてすっきりした自身の首の後ろを右手で触ろうとしたとき、キルティアにその右手を掴まれた。
「首の後ろ、木の枝か葉っぱで切りましたか?皮膚が薄く切れて、少し血が出たあとがあります」
翡翠は先ほど森の中を走っていたとき、木の枝で首の後ろを少し切ってしまったことを思い出した。
自分では見えない部分の傷なのでどうしたものかと考えていると、
「小さい傷なんで、唾つけとけば治ります」
と言って、キルティアは自身の人差し指に唾をつけると、ためらいもなくその傷の上につけた。
「えっ!!!」
翡翠は真っ赤になった顔で後ろに座っているキルティアを振り返る。キルティアはその表情を見て、何かを悟ったようにバツの悪そうな顔をする。皇族に自分の唾をつけるなんて、不敬にもほどがある。この場で首を斬られても仕方ない所業だ。
「申し訳ございません!!今は傷口を洗えるような水や消毒の類も持っておらず・・・。市井ではそういう場合には応急処置として唾をつけておくときもあるんです・・・・」
キルティアが決して他意はない旨を平謝りしている中、翡翠は顔を真っ赤にしてその場でただ俯いているだけだった。
物音に気が付いたのかリーリエが先程三人で下りてきた崖の上からタイミングよく降りてきて、
「殿下、キルティア様、そろそろ行きましょうか」
と声をかけた。
リーリエはお団子頭にした二人を見て、何か言いたそうだったが、結局言わなかった。