#5 初めの一歩
ババロフに導かれ、俺は荒れた公園のコートにたどり着いた。地面はひび割れ、ネットは破れかけ、ボールの跡が雨に消えたままの放置された場所――だが、今の俺にはその錆びれた場所が新たな戦場に見えた。
「ここが…テニスを始める場所か?」
「そうだ、タコ。お前はまだ何も知らない。だが、それでいい。すべてはここからだ」
ババロフは霧のような手を振り、俺の横に古いボールバスケットを置いた。そこには使い古されたテニスボールが山のように積まれている。
「まずはラケットとボールの感触を覚えろ。無理にうまく打とうとするな。ただ、触れろ。お前とラケットが一体になるのだ」
俺は触手でラケットを握り、ババロフが転がした一つのボールに狙いを定めた。だが、いざ打とうとすると、全身がぎこちなく硬直する。触手で持つラケットの重みと、目の前のボールとの距離感がつかめない。
「こ…こうか?」
軽くスイングしたつもりだったが、ラケットは空を切り、ボールにはかすりもしなかった。
「くそ…むずいな」
ババロフは低く笑った。
「焦るな。最初は誰もがこうだ。お前に必要なのは、失敗を恐れないことだ」
俺は気を取り直し、もう一度触手を構えた。ラケットのフレームが奇妙に重く感じるが、それでも――俺は打つ。
「よし……いくぞ!」
力任せに振り抜いたラケットはようやくボールをとらえた。しかし――
バシィンッ!
ボールはフレームの端に当たって、全く予想外の方向に吹っ飛んだ。遠くへ飛び、植え込みに突っ込んで消えた。俺は呆然とその方向を見つめる。
「…これ、本当にできるのか?」
ババロフは少しも気にした様子を見せず、不気味な笑みを浮かべている。
「何度でも挑め。ボールはまだある。お前のラケットが本物なら、失敗を重ねるごとに進化するはずだ」
何度も、何度も、俺はボールを打った。大半は空振り、あとはとんでもない方向へ飛ぶ。まともに当たったのは数回だが、それでも俺は諦めなかった。触手を少しずつしならせ、ラケットの感触を体に馴染ませていく。
そして数十球目。俺の触手とラケットがようやく一体となった瞬間が訪れた。
パコンッ!
ラケットの芯でボールをとらえ、完璧な音が響いた。ボールはまっすぐに飛び、ネットを超えてコートの反対側に綺麗に落ちた。
「やった…!」
初めての成功に、俺の心は少しだけ高揚した。
「魂のリズムを刻め」
ババロフは静かにうなずき、満足げに言った。
「テニスはただのスポーツではない。リズムだ。お前とラケットの、そして相手との戦いのリズムを刻むのだ。今、お前はその第一歩を踏み出した」
俺は荒れ果てたコートの上で深呼吸をした。触手の先まで新しい感覚が伝わる。この感覚――戦いのリズムを、もっと知りたい。
「ババロフ、もっとやらせてくれ。もっと打ちたい…!」
「よかろう。だが覚えておけ、タコ。テニスとは孤独な戦いだ。お前はこの先、何度も挫折し、嘲笑を浴びるだろう。それでも、打ち続けられるか?」
俺はラケットを握りしめ、決意を込めて答えた。
「俺は打つ。俺は、俺自身を証明するために――このラケットと共に、絶望を超えてやる」
次なる挑戦へ
ババロフが再びバスケットからボールを取り出した。
「では、続けるぞ。お前の体が覚えるまで、俺も付き合ってやる」
その日、夜が更けるまで俺は打ち続けた。荒れたコートの上で、一つひとつのボールを打ち、俺とラケットの絆を深めていく。
触手が痛むのも、体力が尽きるのも気にならなかった。俺には――このテニスが必要だったのだ。
そして、ババロフの言葉通り、少しずつ俺の中にリズムが生まれていくのを感じた。闇の中で見つけた光、その光を掴むために。俺はまだ、始まったばかりなのだ。
「ウィンブルドンの頂点で、このラケットを振り抜いてやる――絶対にな」
俺は再びラケットを構え、夜の闇に挑むようにスイングを始めた。