#4 ニクシス
あのウィンブルドンの光景を目にしてから、俺の胸には決意が渦巻いていた。けれど、触手だけではテニスはできない。あのラケット――武器が必要だ。
そんなときだった。暗い霧が立ち込めるような路地裏に、その異形の存在は突然現れた。
「待っていたぞ……深海の迷い子よ」
声は低く、不気味な響きを持っていた。何の生物なのか、俺にも見当がつかない。人間でもなく、魚でもない。全身は奇妙な模様に覆われ、闇そのものが形を取ったような姿だった。触手なのか手足なのか、いくつもねじれた先端がうごめいている。
俺は思わず、触手を引き絞ったが――その存在は、静かに笑った。
「恐れるな。我が名は“ババロフ”。武器を求める者の案内人だ」
「ババロフ?」
俺は警戒しながらも、その言葉に耳を傾けた。
「お前の求めるもの――ラケットだ。だが、この世界にはただのラケットではない。魂を選び、力を引き出す“本物”が存在する」
「…俺を導いてくれるってことか?」
ババロフは嗤った。
「そうだ。だが選ぶのはお前だ。触れた瞬間、ラケットもお前を選ぶだろう。その覚悟があるのなら、来い」
暗黒のラケットショップにて。
ババロフに案内されてたどり着いた場所は、まるで異界そのものだった。普通のラケットショップの扉をくぐったはずなのに、目の前に広がったのは影が蠢く闇の空間だった。壁には何十本、いや、何百本ものラケットが吊るされている。全てが異なる形状、重量、材質――その中から、俺の魂に合うものを見つけなければならない。
「さあ、選べ。触手で感じろ。お前の体に馴染むラケットを」
俺はゆっくりと店内を歩き、1本ずつラケットに触れた。だが、どのラケットも冷たく、俺を拒絶するような感触がした。
「違う…これじゃない…」
俺は次々に触手を伸ばした。軽いもの、重いもの、古びた木製のもの、最新のカーボン製のもの――どれも俺の心に響かなかった。
諦めかけたそのとき、壁の奥から何かが俺を呼んだ。まるで海の深淵から響くような音――それは俺だけに届く囁きだった。
「…おいで、タコ……俺もまた、孤独だった」
俺はその声に導かれるように、棚の奥深くへ触手を伸ばした。そして、それに触れた瞬間――俺の体中に電流が走った。
「これだ…!」
そのラケットは異形そのものだった。通常のラケットよりも柄は長く、フレームの縁には奇妙な模様が刻まれている。持った瞬間、俺の触手に吸い付くように馴染んだ。
ババロフが満足そうに低く笑った。
「そいつは“ニクシス”――深淵の者たちに愛されたラケットだ。持ち主の苦しみも、絶望も吸収する。そして、渇望に変えて力を引き出す」
「ニクシス…か」
触手に吸い付くように馴染む感触――それは単なる道具ではない。まるでラケットそのものが、俺の絶望を理解しているかのようだった。
契約
俺は静かに目を閉じ、ラケットを握りしめた。このラケットが俺を選んだのなら、俺もこのラケットにすべてを賭ける。
「これで、お前もまた“戦士”だ」
ババロフは低くそう告げると、霧のように姿を消した。
俺はその場に立ち尽くし、暗闇の中でラケット――いや、ニクシスを見つめた。
「俺は、これで戦う…」
絶望の底から這い上がり、このラケットを武器に。ナダルもジョコビッチも、このラケットで打ち倒す。そう決めた。
次なる一歩へ。
俺は闇の店を後にし、街灯の灯る通りへ戻った。ニクシスが俺の触手にしっかりと絡みついている。このラケットと共に、必ずウィンブルドンに立ってみせる。
闇の中で選ばれし武器を手に、俺の物語は新たな段階に入ったのだ。