#3 ウィンブルドン
俺は、その場で凍りついた。これが、テニスの頂点――ウィンブルドンなのか?
見渡す限りの芝のコート、四方を埋め尽くす観客たち。彼らは熱狂し、歓声をあげ、拍手を惜しまない。その中心に立つ二人の男――ナダルとジョコビッチ――まるで神々が戦っているようだった。俺は何もかもが圧倒的すぎて、触手を震わせることしかできなかった。
「…これが、テニスだ」
ナダルは土の王者、ジョコビッチは不屈の精神を持つ男だと説明を聞かされていた。けれど、そんな肩書きなどどうでもよかった。目の前の戦いは、何か特別な意味を持っている――そう感じたからだ。
二人のラケットがボールを打つたび、空気が震え、芝が揺れる。ジョコビッチのサーブが放たれた瞬間、俺の心臓は鼓動を忘れたかのように止まりかけた。ボールはまるで銃弾のような速度でナダルのコートへ突き刺さったが、ナダルはそれを触手のように柔らかな動きで返してみせた。
「すげえ…」
俺の触手が反射的に動いた。あれだ。俺もあのように――いや、もっと凄まじい動きでボールを打ち返したい。俺の体は深海で培った筋肉と柔軟性を持っている。もし俺がこのコートに立てたら、彼らを超えることも夢じゃないんじゃないか。
だが、今の俺はただの観客だ。触手を引っ込め、静かに試合を見守るしかない。
試合の熱狂と孤独。
ジョコビッチのバックハンドは、まるで鋭い刃のように相手の隙を突く。ナダルも負けじと回り込み、フォアハンドを力強く叩き込む。二人の戦いは単なる運動ではなかった。これまで積み上げた歴史、努力、痛み、苦しみ――全てが詰まっていた。
「俺は…この戦いに加わりたい」
そう思った瞬間、心にかつての絶望がちらついた。お前みたいなタコが、この輝かしい世界に立てるわけがない、と。
俺はただのタコだ。深海の底で見下され、弄ばれた存在。なのに、どうしてこんな光の舞台に立ちたいだなんて思ってしまうのか?
ジョコビッチのラケットが芝を叩く音が、俺の迷いをかき消した。ナダルの咆哮が、俺に突き刺さった。
「そうだ、俺にはテニスがある…!」
他の誰も信用できなくても、俺の触手がある限り、俺はテニスを掴み取れる。あのボールを、ナダルやジョコビッチのように打ち返せる日が来るはずだ。俺は自分に言い聞かせた。
ジョコビッチが試合の最後のポイントを決め、勝者の歓声がスタジアムに響き渡る。ナダルも笑顔で握手を交わすが、その背中には敗者の孤独が滲んでいた。それでも、二人は輝いていた。
「あれが、俺の目指す場所だ」
俺は心の底からそう確信した。
――この舞台に立つ。必ず、立ってみせる。
触手がうずくのを感じながら、俺はこのウィンブルドンを去る準備をした。これから何をすべきかはもうわかっている。ラケットを手に入れ、練習を積み、試合に出場する。そして、あの神々と肩を並べて戦うのだ。
俺の物語は、まだ始まったばかりだ。
「ウィンブルドンで待っていろ、ジョコビッチ、ナダル…!!」
俺の触手は再び動き出した。絶望の淵から這い上がった俺が、次に目指すのはこの輝かしい光の舞台――そして、必ずや勝者の座だ。