「莫妄想」
皆さま、身体にはくれぐれもご自愛くださいませ。
【一】
剣禅書の達人で、幕末の三舟と謳われたひとりに山岡鉄舟(一八三六 - 一八八八)がある。
『年九歳の頃、初めて剣法を久須美閑適齋に学び・・・』(剣禅話 山岡鉄舟 高野澄編訳 タチバナ教養文庫)とあり、
『余年二十歳の頃、たまたま僧某と相会し、談武士道に及び、理論禅理に至る・・・』(同上)とある。
更には、『余、年十一の頃、愚父朝右衛門に従つて飛騨国高山の邑に在り。毎日武芸を学び、暇あれば習字を事とす。折柄、当地の人にて岩佐一亭なるもの、書を以て鳴る。是を以て愚父、余をして書法を一亭に学ばしむ・・・』(同上)とあるから、剣(九歳~)書(十一歳~)禅(二十歳~)の順で、鉄舟は修養を積んだことになる。
ここで改めて、鉄舟の生い立ちや、逸話の数々を述べることはしない。
内弟子にあたる小倉鉄樹氏からの聞き書き「山岡鉄舟先生正伝 -おれの師匠-」(ちくま学芸文庫)によりたい。
鉄舟自身の言葉に関しては、「山岡鉄舟先生正伝 -おれの師匠-」にいくつかの手蹟もあるが、
『師匠自身が他の人のように大部の自叙伝等を書いて、手柄を残そうなんて色気がまるでないのだから・・・』(山岡鉄舟先生正伝 -おれの師匠-)
とあり数は少ない。よって、冒頭にあげた「剣禅話」で補完されたい。
さて、ここでなぜ鉄舟か、という問題である。
答えは題にある「莫妄想」。
「莫妄想」とは、唐末から宋初にいたる一七〇一人の禅師の語録を集成した「景徳伝燈録」(承天道原著 一〇〇四年成立 計三十巻)の巻第八、「汾州無業禅師」(七六二-八二三 商州上洛の生)の段に出てくる言葉である。
そもそも「景徳伝燈録」とは、日本語訳が収録されている「国訳一切経(和漢撰述部 史伝部 14)」(佐橋法龍,増永霊鳳訳)の序説によれば、
『古来禅門に於いて、参禅学道の最も重要な指針の一として尊重せられてきた、所謂「五燈」の第一に位置する典籍である。「五燈」というのは、この「景徳伝燈録」と、「天聖広燈録」(三十巻・一○二九成立)・「建中靖国続燈録」(三十巻・一一〇一成立)・「宗門聯燈会要」(三十巻・一一八九年成立)・「嘉泰普燈録」(三十巻・一二〇一年成立)の四書を合せた名称であるが、この「五燈」、就中その第一に位する「景徳伝燈録」は、従来、(1)禅宗の歴史を研究する上の第一の資料として、また(2)「一千七百則」の公案を収録した参禅道上の第一の資料として、この二つの面から注目され尊重されてきたものである。』
とあり、加えて、
『学人の修道の好指針となるべき、公案としての禅僧の語句を集録することに、極めて大きな意義をおいて撰述せられたものに他ならないのである。また、それであるからこそ、一千七百一人の禅僧の名を連ねている「景徳伝燈録」は、一千七百則の公案として、南宋以来今日に至るまで、学人参禅の好指針として参究せられてきたのである。』とある。
この他、序説にもあるが、伝記的傾向を帯びたものではなく『「景徳伝燈録」撰述の目的が、まず各祖師の語句を伝えることにあつた』ため、これから参禅する学人に、唐末から宋初にいたる、総計一七〇一人の禅師の言葉を学究のたよりとすることへ、多くの主眼が注がれている書物であるのだ。
ただし、注意もある。
『今日では、その資料的な価値については決して第一のものとはいい難いものであるけれど、しかし、また一面では広汎な時代に渉つて、最もよくまとめられたものであるだけに、もし、扱う人が古逸諸禅籍を参照しながら、十分な取捨選択の史眼をもつて接するならば、やはり、貴重な資料の一としての意義は失なわれないであろう。』と。
「古逸諸禅籍」とは、
『(1)燉煌出土の文獻、(2)中国山西省の広勝寺から発見された文獻、(3)朝鮮海印寺所蔵の大蔵経に収められた文獻』を指し、
『就中、(1)の楞伽師資記・暦代法宝記・六祖壇経・伝法宝紀・神会語録、(2)の宝林伝、(3)の祖堂集は特に重要である。』とある。
以降、『特に重要』と掲げた典籍の、重要である由来が述べられるが、言わんとすることは、「景徳伝燈録」を丸のみに了解してしまっては誤謬を生みかねないということにある。
あることをないように、ないことをあるように理解してしまえば、個人の都合に帰着してしまう。ここを踏まえ、以降展開していきたいが、誤解を恐れずに言うと、
『(1)の楞伽師資記・暦代法宝記・六祖壇経・伝法宝紀・神会語録、(2)の宝林伝』に私はあたれていない。
『(3)の祖堂集』の一部(巻第十五)、無業禅師の記載がある箇所は参照できたから、読者にはこの前提のもと、読んでいただければ嬉しく思う。
そもそも「莫妄想」という言葉は、前述したように「景徳伝燈録」の巻第八、無業禅師の章に記載あるが、「祖堂集」には見受けられない。
無業禅師の霊験あらたかな生誕の叙述から、師にあたる馬祖とのやり取り。長慶三年(八二三)十二月二十一日に荼毘するまでの流れは、両書に共通するところである。
「莫妄想」があらわれる文章を「景徳伝燈録」からひく。
『凡そ、学者、問を致さば、師、多く之に答へて云はく。莫妄想と。』
「莫妄想」の意味は、注にこうある。
『妄想することなかれ、の意。妄想は常識的な対立的見解を抱いて分別の心を生ずること。』
意味としては、明快である。
ただ、どうだろうか。私たちが今日抱く「妄想」の意味とは、多少なりとも差異があるように思われる。
妄想の語感に付きまとうものは、例えば自身の英雄的な一場面を想像したり、翻って悲劇的な、例えば病にある母の入院する病院から留守電が入っていた場合に、いらぬ想像を働かせたりと、他にも様々だが、こういうものを俗に「妄想」と考えてはいないだろうか。もちろん、間違いではないだろう。
しかし注には『常識的な対立的見解を抱いて分別の心を生ずること』とある。難しいから噛み砕いてみたい。
常識とは、Wikipediaによれば『社会的に当たり前と思われる行為、その他物事のこと』とある。
対立的とは、相対的な解釈、すなわち私とあなた、国と国民のようなもので、分別とは、これらに区別の線引きをすることを言っている。その心が、生ずるのである。
だから、私たちが日ごろ生活を営む上で、意識化にもあがってこないような当たり前のことを、ここでは言っている。それを、「妄想」と定義している。
では、そのような当たり前のことを、なぜ無業禅師は『多く之に答へて云』うようになったか。
※以降は多くを「景徳伝燈録」に依拠
無業禅師が、師の馬祖に初めて謁見した際、いくつか問いを投げかける。
一つは馬祖の提唱する「即心是仏」について。一つは、禅宗の開祖達磨大師の伝える「心印」について。
馬祖は、無業禅師のあまりある勢いに、いったん出直してこいと言う。
「景徳伝燈録」にいう無業禅師は、
『四分律の疏を習ひ、才に終れば便ち能く敷演す。毎に衆僧の為に涅槃の大部を講じ、冬夏も廃すること無し。』とあるように、
年若くして四分律(僧生活の戒律をまとめたもの)を理解するや、これを応用するに至り、涅槃経の大部を僧衆に講じていたほど、稀なる人物であった。
出直せという馬祖の真意は、頭でっかちになることへの戒めを含め、もとをただす意味合いもあったであろう。
そうして立ち去ろうとする無業禅師に、ちょいと無業さんやと馬祖は呼びかける。
無業禅師は振り向く。
すると馬祖は「これは(※呼びかけに応じる)、どういうことだ?」と問いかける。
無業禅師はハッとして、一礼し、立ち去ろうとする。すると、
「鈍感だなぁ。一礼してどうするというのだ」と、いじわるにまた、馬祖は問いかける。まさしく、禅問答である。
無業禅師はこの一連のやり取りを了解し、居ても立っても居られず、禅匠の聖跡を訪ねる旅へ出る。
旅の途中。長安の西明寺で一服していると、
その風貌(※「祖堂集」によれば身長六尺(180cm)、山のごとしとあり。「景徳伝燈録」によれば声は鐘の如くであったと)に惚れたか、あるいは清明なる人柄に惚れたか、寺の僧らは無業禅師に要職へついてくれるよう懇願する。
無業禅師は、『本志に非ざるなり』と断り、また旅へ出る。
さて、ここからが重要である。
ある日旅先で、節度使の李抱真という人が、無業禅師の噂を聞きつけ、朝な夕なに彼を訪ねていた。
「景徳伝燈録」は言う。
『師、常に倦める色有り』
休息の寺では要職を懇願され、解放されたと思えば、節度使の訪問に嫌気がさしていたことだろう。
無業禅師は言う。
『吾れ、本、上国の浩穣を避くるに、今、復た煩しく君俟に接す。豈に吾が心ならんや。』と。
上国とは規模の大きな都市で、浩穣とは人が多いことを意味する。人間の溢れかえる場所から避けるため旅へ出たけれど、それでも旅先では忙しなく人間に接している。
どうして、これが僕の本心でないと言えようか、無業禅師は切実に自省する。
この自省が「妄想」すること「莫」かれという「莫妄想」の考えに至ったかは分からない。
ただ、『豈に吾が心ならんや』のあとに『乃ち・・・』と続き、抱腹山に寄って、清涼の金閣寺で大蔵経を閲覧しているところをみると、切実な自省が行動の端緒となっていることに私の注意は向く。
【二】
ひとつの印象的な言葉が日常を侵し始めると、途端に行動が言葉を中心に回り始めることを省みれば、私にとって「莫妄想」はまさしく好事例である。
鈴木大拙の「日本的霊性」(岩波文庫)から引く。
『禅の特異性はその直截なところに在るので、この点では真宗経験と同一軌に出ている。仏光国師が北条時宗に教えた「莫妄想」も、明極(楚俊)和尚が楠正成を励ました「截頭両頭一剣倚天寒(両頭を截断すれば一剣天に倚って寒し)」も、同じところを狙っている。二つのもののあいだに媒介者を入れないということである。』
『二つのもののあいだに媒介者を入れない』と言っているのは、この文の前段で『何等の条件の介在なしに、衆生が無上尊と直接に交渉するということは、二元論理の世界では不可能ごとに属する』とあり、『それを日本的霊性が、なんのこだわりもなくすらすらとやってのけ』た一例として、仏光国師と北条時宗、明極(楚俊)和尚と楠正成の逸話を取り上げている。
よって、『二つのもの』とは衆生と無上尊を指すが、無業禅師の『豈に吾が心ならんや』が「莫妄想」を生む経験的事実のひとつであると仮定するならば、『二つのもの』とは「私」と「他人」ととらえることも出来るし、更に深入りするならば、「私」と「他人を前にした私」ということにもなるだろう。
自省の時間は、常に自身との対話である。
この「他人を前にした私」というものが、人生というものに深い根を張りめぐらしている。
自省の習慣がつくと、「他人を前にした私」が不必要に会話を投げかけ、精神を侵し始めるのである。
きっと馬祖は言うだろう。
「鈍感だなぁ。会話してどうするというのだ」
これを聞いて(※無業禅師の場合は一礼に対してだが)、無業禅師は居ても立っても居られず、旅に出たことは前に書いた。
ようやく、鉄舟にもどる。
「剣禅話」の「仏教之要旨(門生聞書)」から引く。
『豈是れ仏教の咎ならんや。実に後世天下の士が丈夫の志操を失ひて卑劣の妄想に甘んずるの咎なるのみ。卑劣とは何ぞや、妄想の為に己が主人公を生捕られ、外物を逐い回りて奴郎を分たざる凡愚の迷倒心を謂ふなり。』
ユニテリアン教をいたずらに妄信し、仏教の有効性を否定する当時の風潮を憂いての言葉である。
ユニテリアン教とは実際の文面にもあるが、『実に後世天下・・・』と続く内容は、ここに限ったものでもないであろう。開国して間もない、文明開化の時代に、異文化の摂取を急ぐ日本人への警鐘でもある。
元号が明治と改まって、鉄舟は静岡の権大参事、茨城の参事、伊万里県の権令と要職を歴任。明治五年からは、明治天皇の侍従として、十年間奉仕することになる。
鉄舟は新生日本の黎明期において、多くの議論が交わされる中核的な職種に、長いことあったのだ。
『卑劣とは何ぞや』と鉄舟は問う。
曰く、『妄想の為に己が主人公を生捕られ、外物を逐い回りて奴郎を分たざる凡愚の迷倒心を謂ふなり』と。
ここで「妄想」が原因としてあげられている。
「妄想」は『己が主人公を生捕』りにし、生け捕られることにより、『外物を逐い回りて奴郎を分たざる凡愚の迷倒心』は生ずるのである。これを総じて『卑劣』と、鉄舟は言っている。
禅を極めた鉄舟だから、ここで言う「妄想」とは禅的な意味を持つだろう。「妄想」の意味を、もう一度「景徳伝燈録」の注から引く。
『妄想は常識的な対立的見解を抱いて分別の心を生ずること』
『常識的な対立的見解を抱いて分別の心を生ず』るということと、『己が主人公を生捕られ』ることとに、私はまったき同じ意味をみる。
「妄想」することによって、「妄想」の「対象」は、「対象」としての位置を占める。この「妄想」によって生じた「対象」は、「妄想」の習慣化によって、より強固なものとなり、いずれは「妄想」するという行為が、「対象」を生ずるための手段として利用されるようになる。
よって、「対象」は自然、想起されることを目的に据えるから、手段と目的をともに担う「妄想」する自己は、「対象」の傀儡となり、ますます「妄想」を行うように躾られていく。
これを鉄舟は、『己が主人公を生捕られ』ると言っている。
『外物』とは自己その他のものである。
ただ墨汁の一滴が、純白のシーツに落とされる。これを自己とする。それから、外へ外へ宇宙のどこまでも遠く続くものが『外物』である。
『奴郎』は奴隷。「妄想」することに純朴な奴隷である。
よって、延々と尽きることない『外物』を追い続けることによって、次第に『奴郎』を、自己そのものと取り違えていく。
無論、自分が『奴郎』だとは思いもよらず。『凡愚の迷倒心』がそうさせるのである。
自戒の念を込め、ここに結ぶ。