主語を大きくしないようにと気をつけていても、うっかり大きくなっていることはよくある話
あくまで『私』が考えたことなのに、つい主語が大きくなってしまうことがある。
幼いころの私はたびたび、友だちの持っているものを欲しがっては、自分も親に買ってもらえるように「みんな持ってる」と言って説得を試みた。しかし「みんなってどこのみんな?」と訊き返されて列挙する友だちが二、三人程度しかおらず、結局買ってもらえずじまいということが多々あった。
そういった経験を繰り返していくうちに、自分が説得するときに使っている『みんな』という言葉は、数の力で大きく見せることで説得力が増したような気になっているだけで、実際には大した力を持たず、むしろ、その胡散臭さから説得力を欠く要素になり得ることを知っていった。そうしていつの間にか『みんな』を使ってなにかを主張することはなくなった。
一方、SNSの普及により、自分の考えを披露する場が増えた昨今、それと比例して、主語が大きいことが指摘されている様子をたびたび見かけるようになった。
そこで使われている言葉は『みんな』といった、わかりやすく数の力を仄めかしたものではなく、たとえば『主婦をしている私』の考えであっても、私という言葉を抜かして『主婦』と書き、あたかも主婦全員の意見かのよう述べるなど、そういった具合である。
それは故意に主語を大きくしているのかもしれないが、おそらくはうっかり書き損ねていてしまっていたり、あるいは、知らず知らずのうちに、(この一例で言うところの)主婦全員に当てはまると思い込んでしまっている場合もある。
そうなってくると、私にも身に覚えがないだけでうっかり主語が大きくなってしまうことがあるように思う。この章を書くときでさえ、冒頭の『幼いころの私は』という部分を、もとは『幼い子どもは』と書いており、読み返して初めて主語の大きさに気づき、慌てて修正したほどだ。この章の言わんとしていることを、まさに、この章のなかで示してしまうところだったのである。
そういえば今朝、夫の発言にも主語が大きくなっている様子が見られた。
数日前に夫は、柳沢慎吾さんが「俺がよぉ〜、俺がよぉ〜」と歌っている動画を観て、以来、日に何度も娘に歌って聴かせるようになり、娘はとうとう上手に「おえあお〜」と歌い返せるようになった。それを聴いた私が娘に感心していたとき、その横で夫が「この歌が僕たち両親二人からのプレゼントだよ」と言った。もちろん、私はそんな歌をプレゼントするつもりはないし、そもそも歌い聴かせたことすらないのだ。
その場で訂正したが、夫はそれを無視してもう一度「僕たちからのプレゼントです」と言った。この場合、主語を僕『たち』にしたのはうっかりでも思い込みでもない。まさか、あえて主語を大きくした良い例としてここに書かれているとは、夫も知らないだろう。