三人以上で話し合うときはポジション取りが大切だが、そこに頼りすぎると身を滅ぼす
学生のころ、尊敬する知人に話し合いの場での極意を教えてもらったことがある。知人によると、話し合いが始まって一言目を発するなど、リーダー的な存在にはならないほうがいいとのことだ。
望ましい流れとしては、たとえば、リーダーシップをとった人が「これどう思う?」と切り出し、ほかの人たちが「こうだと思う」と口々に言う。自分はその間ひたすら黙って話を聴きつつ、自分の考えや周りの意見を頭のなかでまとめてさらっと俯瞰的な意見を出す。このように、俯瞰的に捉えたり熟考したりする時間を作ることにより、良い意見が出せるようになるそうだ。
教えてもらうまで、私は口々に話す側の人間だったので、あまり考えがまとまらないうちに焦って話してしまい、その結果、穴があったり短絡的な思考に陥りがちだった。しかし、教えてもらって以来、自分の考えをじっくりまとめつつ、周りの話も本質的な部分に焦点を当てて聴くことができるようになったので、飛躍したことを言ったり論理が破綻してしまったりすることはなくなった。
そしてそれは、就職活動のグループディスカッション選考でも大いに役に立ち、選考は必ず通過していた。さらには、企業側に採りたいと思わせた学生に、先輩社員と一対一で話す機会が与えられる『リクルーター面談』にも呼ばれたりした。
こうして、沈黙に重きを置き、たまに出す雄弁さでクリティカルヒットを叩き出すというコンボは、就職活動の場にとどまらず、ゼミの輪講や、さらには友人たちと大勢で会っているときにも使うようになった。そのうち、幸いなことに友人間で(社交辞令かどうかはともかく)「困ったときにいつも相談したくなる」と言ってもらえることが増えた。
ところが、困ったことに最近は、大人数で会っているときに誰かが悩みを打ち明けたり、誰かが別の誰かに余計なことを言うなどして場が凍ったりすると、皆が私の目をじっと見て、次の一声を待ち侘びるようになったのだ。
これまでの私は、あくまで後手にまわり、皆が話している間に熟考するという美味しいとこどりのようなことをしてうまく話せていただけなので、短時間でいい考えを浮かべて、さらにそれが誰かにとって余計な一言にならないか精査するという非常に機転の効いたことは、私にとっては大変難しいことなのだ。
そういうわけで、最近はただ余計なことをつらつらと述べては、帰路、あの一言が友人たちにどう伝わったのかと、つい考えてしまい、ときには恥ずかしくなったり訂正したくなったりする。
辛いのは、この年齢になると雄弁である以上に余計なことを言わないスキルが求められる(と私は思っている)ことだ。今後、友人たちと集まったときに相談や場が凍ったとき、いの一番に私に眼差しが向けられる機会が減るのも時間の問題だろう。
実際に先日、学生時代の友人たちと濃い話をしていたとき、まず話題を持ち込んだ友人が私の顔を見てきて、例によって私はとんちんかんな考えを伝え、それに対して、一人の友人を除き、ほかの友人たちが口々に話していると、その一人の友人がおそらく私たちが話し込んでいる間に熟考していたようで、いよいよ発言すると「おぉ〜」とどよめき立つような流れができていた。
もとは口々に話す側であったが、いつの間にか熟考ポジションになっていたのだ。このメンバーでは一年に一回のペースで会っているのだが、来年以降は私の意見を求めてもらえなくなるかもしれないと思うと、少し寂しくなった。
しかし、そうなると来年はまた熟考ポジションを奪取できるかもしれないと思うと、それはそれで安心する。
ちなみに、楽しい話をしているときはいちいちポジション取りなど気にせずに話している。もし楽しい場面でも自分のポジションに気を取られることがあれば、それはおそらく自分にとって楽しい場所ではないので、別の居場所を探すようにしている。今回の話は、あくまで濃い話などで意見が求められるような場合に限る。