結果は同じでも想像していた過程と異なるのは納得がいかない
うまく言語化できるか不安だが、どうか伝わってほしい。
先日、健康食品会社の営業が、乳酸菌飲料の試飲を私と夫と娘の分あわせて三本くれた。ただ、娘は一歳に満たないので、もらった三本のうち一本余ることになる。
私は心のなかで夫にその一本をあげることに決めたのだが、それと同時に、ふと渡し方が思い浮かんできた。
まず、夫が冷蔵庫に一本残っているドリンクを見て私に「昨日もらったやつ一本余ってるけど、飲む?」と尋ね、私はは可健気な感じで「いいよ、飲んで。昨日まで仕事忙しそうだったから疲れ溜まってるでしょう。だから譲るよ」と答える。そして夫は私の優しさを噛み締めながら嬉しそうにドリンクを飲む。かなりいい流れだと思った。
ちなみに日ごろから私は、誰かに何かをするとき、それが善い行いであると気がつくと、それと同時に、まるで聖母マリア様のような優しさで(実際にお会いしたことはないが)振る舞う自分と、その善行に感謝されている様子を思い浮かべてしまう。我ながらいやらしい性格だと思う。
翌朝、私の予想どおり、夫は冷蔵庫を開けて残っているドリンクを取った。私はいよいよどちらが飲むか訊かれるだろうと身構えていたが、夫が次に放った言葉は「昨日もらったやつ、一本余ってるけど僕飲んでいい?」と、自分が飲みたいと主張するものだった。
日ごろ夫は「おやびん飲みたい?僕とおやびんどっちが飲む?」と訊いてくる性格なので、よほど飲みたかったのだろうか、こちらとしては想定外の流れである。
このまま夫がドリンクを飲むことは前日に考えていた結果と同じではあるが、思い描いていた流れとはまったく異なるので納得いかない。
読者にはおそらく伝わっていると思うが、本当は飲みたいところを、相手を労い譲る私に至極感謝してほしいと思っていた。言ってしまえばドリンクはもともとそこまで欲していない、とにかく恩を着てほしいとまで思っている。だが実際は、ここで夫に「いいよ、飲んで」と言ったところで労いの気持ちは伝わらないし、淡々と「ありがとう」が返ってきて、大したありがたみを感じてもらえることなく飲み干して終わるだろう。そしてその薄っぺらい感謝に、理想と現実のギャップで苛立つことまで目に見えている。
これらを一秒で考えて苛立つところまで想像できた私は思わず「本当は私のほうから譲って、それに対して感謝されたかった」と、ただひたすら恩着せがましいだけのセリフを述べてしまった。
少しでも冷静になれば「私も飲みたかったけど、いいよ飲んで。疲れてるだろうし」などと、本当は自分が飲みたいところを遠慮して夫の健康に気を遣う優しい妻を演じることで、うまい具合にもとの路線に戻せたのかもしれないが、時すでに遅しである。
こういった『結果は同じだけどこういう過程で進めたかったのに』という現象はたびたびある。
たとえば友人に嫌なことを言われたときのことだ。こう謝ってくれたら私も折れようと、頭のなかでその場面を想像するのだが、実際には一向に謝ってきてくれないことがある。
かといって私のほうから嫌だったと伝えるのも気が引ける。もしかしたら相手も、私が発した言葉で傷ついたことがあっても黙っていてくれているかもしれないと思うとなおさらだ。そうこうしているうちに、結局言えずじまいになってしまう。
そして数日後、何事もなかったかのようにいつもの調子で連絡がくると、私もつい、いつもと変わらない返事をしてしまう。結果としては仲直りできているわけだが、この性格上、やはり納得がいかない。
だが、夫にさえ勢いがなければ言えなかったような恩着せがましいことを、友人にはなおさら言えないので「あぁ、たしかに仲良くやれてはいるけれども…。本当は傷ついたけど何事もなく接している大人な人間なんですよ。どうか気づいてください」としばらく悶々としていたりする。
このように消化不良になってしまっても、ある程度の時間が経てばどうでも良くなるが、たまになにかの拍子に思い出して「私あのときこうだったのになぁ」などとネチネチ考えたりしている。
ちなみに、件のドリンクを恩着せがましさ満載で譲りうけた夫は、笑いながらどこか引いた目でこちらを見ていた。私は自分の行いのすべてを棚に上げて「なぜこんな目で見られなければならないのだ」と悶々とする。総じて、私の器の小ささがよくわかる話だと思う。