涙と花びら
願い潰え、祈り途絶えた先にあるもの。
死の宮殿の玉座の間を光なき漆黒が包む。ざらついた静寂が満ちる。魔王はつまらなさそうに鼻を鳴らし――わずかに眉を寄せた。闇が晴れ、勇者は呆然と立っていた。勇者だけではない、戦士も、魔法使いも、生きていることが信じられぬように自分の身体を見ていた。
「どうして……」
勇者の疑問に答えるように、一体の人形がふわりと現れ、目の前で燃え尽きて消えた。それは何度も見たことのある光景――『身代わり人形』が発動した証だった。だが勇者たちは自分たちが持っていた『身代わり人形』をすでに使い果たしていた。ならばこの人形はどこから――
「虚しい小細工を。わずかに寿命が延びただけだ」
魔王の指先に再び闇が灯る。一度凌いだとしても、攻撃の術がなければ勝利を掴むことはできない。聖剣が光を失った今、魔王に抗する力はもう勇者にはなかった。勇者は魔王を睨みつける。できることはもう、それくらいしかない。
「死ね――」
「突撃せよ!」
聞き覚えのある声が玉座の間に響き、魔王が放つ死を遮るように、何もない空間から騎兵が現れて魔王と勇者の間に割って入った。闇色の光は騎士たちを貫き、『身代わり人形』が燃え尽きて消える。
「魔道具があなたたちを必ず守る! 怯むな! 勇気こそ我らの剣と心得よ!」
『応っ!』
檄に応えた騎士たちが槍を構え、魔王に突撃する。魔王は騎士たちを吹き散らし、無数の『身代わり人形』が再び光を放って消えた。
「どう、して、ここに……?」
勇者は呆然と、騎士たちを指揮する声の主を振り返る。空気から滲み出すように姿を現したのは、決別したはずの、自分を憎んでいるはずの、青年だった。青年は勇者に駆け寄り、背嚢から薬を取り出して勇者に振りかける。魔法のポーションは自らの血に塗れた勇者の身体を瞬時に癒した。
「話はあとで。まずは回復を」
青年は魔道具を次々に背嚢から取り出し、勇者を、戦士を、魔法使いを癒す。傷が消え、気力と体力を回復させた三人の顔に希望が戻った。戦士に大剣を、魔法使いに新たな杖を渡し、淡く青く光る石を勇者に差し出して、青年は言った。
「この聖石があれば聖剣は光を取り戻す。俺がこれだけサポートすれば」
青年は挑発するように笑う。
「魔王くらい、倒せるでしょう?」
三人は顔を見合わせ、脱力したように吹き出した。大剣を肩に担ぎ、戦士がにやりと不敵な笑みを浮かべる。
「当たり前だ。俺たちなら」
杖を握り、魔法使いがうなずく。
「ええ、私たちなら」
聖石が聖剣の刃に吸い込まれてまばゆいばかりの光を放った。勇者は魔王を振り返り、聖剣を突き付けた。
「魔王に勝てる」
青年は満足げな表情を浮かべ、時間を稼いでくれていた騎士たちに退却を命じる。騎士たちの攻撃は魔王の衣を破ることはできない。彼らの役割は最初から青年が勇者たちを回復させるための時間稼ぎなのだ。役割を果たした騎士が後ろに下がり、勇者たちに道を空けた。
「忌々しい羽虫どもめ。無駄なあがきとなぜ分からぬ」
苛立ちを込めて魔王がそう吐き捨てる。戦士が笑った。
「イライラするなよ。余裕がないのかい?」
魔王の顔が険しさを増す。魔法使いが集中を始め、戦士が大剣を構えて地面を蹴った。
「無駄だ。貴様の剣は余の衣に傷一つ付けることはできぬ」
戦士が大剣を振りかぶる。魔王の衣が剣を絡めとろうと蠢いた。大剣が衣に触れる寸前、その刃に光が宿る。青年が使った呪符が大剣に魔力を宿したのだ。光を帯びた刃は魔王の衣を切り裂いた。
「衣をわずかに引き裂いたとて無意味だ。その程度、すぐに再生する」
「だったら、間に合わないほどの速さで」
魔法使いの瞳が翠に輝き、魔王を暴風が包む。青年が放り投げた巻物が空中で燃え尽き、魔法使いが生み出した暴風の速度をさらに速めた。暴風は戦士が切り裂いた綻びを広げ、衣を切り刻んでいく。魔王の顔に初めて焦りが浮かんだ。
「バカな!? 再生が間に合わぬ――」
衣を失い魔王は無防備な身体を晒す。聖剣を持ち、勇者は正面から魔王に向かって駆けた。魔王の中心に赤黒く蠢く『核』が見える。
「き、貴様如きが、余を、この魔王を――!!」
隠し切れぬ焦燥が魔王の顔を引きつらせる。あがくように放った闇を切り裂き、勇者は魔王の『核』に聖剣を突き立てた!
「私たちの、勝ちだ」
――グオォォォーーーーーーッッ!!!
地の底から轟く断末魔と共に魔王の身体が末端から崩れ始める。魔王の瞳が激しい憎悪に赤く輝き、最期の呪詛が口をついた。
「セめテ、余ヲ滅ぼス貴様だケは、永遠ノ夜ニ沈めテくレよウゾ!」
魔王の口から泡立つヘドロのような、粘性を帯びた赤黒色の腐液が勇者に向かって吐き出される。勇者が目を見開いた。腐液が勇者を飲み込み――
「バ、バカな……」
魔王が口を開けたまま呆けたように勇者を見る。勇者の足元から六角柱の光が立ち上り、腐液を遮っていた。勇者は青年を振り返る。青年の手に握られた結界石が役割を終えて砕けた。
「お前にくれてやるものは一つもない」
傲然と言い放った青年を恨みがましく見つめ、魔王の身体が、爪先から頭まで、余すところなく灰となって床に降り積もる。そしてその灰さえ、幻のように、床に溶けて消えた。
「……勝っ、た?」
魔法使いが空になった玉座を見つめる。
「勝った、んだよ、な?」
戦士が信じられぬように周囲を見渡した。勇者は皆を見渡して力強く宣言する。
「魔王は滅んだ! 我々の、人の勝利だ!」
――うおぉぉーーーっ!!
騎士たちが剣を掲げて高揚を叫ぶ。魔王が滅んだ。それは魔物の脅威に怯える夜が終わったことを意味している。世界は今、憂いなき新たな朝を迎えたのだ。戦士と魔法使いがぱちんと握手を交わした。
――ゴゴゴゴゴゴ
直後、死の宮殿が小刻みに震え始める。主が退場し、その魔力によって造られたこの宮殿もまた、消え去る運命なのだ。天井からパラパラと小石が降る。揺れが徐々に大きくなった。
「マズい! 崩れるぞ!」
戦士が天井を見上げて叫んだ。青年は背嚢から褐色の石を取り出して天に掲げた。
「脱出します! 俺の周りに集まって! 急いで!!」
慌てたように騎士たちが青年に群がる。戦士もどたどたと青年に駆け寄った。勇者が複雑な表情で青年を見る。躊躇いに足が止まる勇者の手を掴み、魔法使いが強引に引っ張って青年に近づいた。転移石と呼ばれる石が光を放って青年たちを包む。光は崩れゆく宮殿の天井をすり抜け、青年たちを外へと連れ去っていった。
生きる者の気配のない荒野に、青年たちは立っていた。彼らの視線の先には、まさに今、崩れ去ろうとしている死の宮殿があった。もうもうと砂煙を上げ、宮殿は戦いの歴史の最後を彩るようにゆっくりと沈んでいく。無数の魔物たちを道連れにして。
「終わったな」
戦士が感慨深げにつぶやく。しかし魔法使いは首を横に振り、視線を勇者に向けた。戦士がつられて同じ方向に目を遣る。勇者は不安げに震える瞳で青年と向かい合っていた。
「どうして」
そう言った勇者の声はかすれている。青年はまっすぐに勇者を見つめた。
「あなたを助けるために」
「私は!」
勇者は胸の前で両手を握る。
「あなたに、どれほど、ひどい、ことを」
勇者は青年から目を逸らしてうつむいた。青年は穏やかに語り掛ける。
「どうしてあなたが俺を追放したのか、分からなかった。あなたを恨みもした」
勇者の肩がびくりと震える。けれど、と小さくつぶやき、青年は一歩、手を伸ばせば触れられる距離に近づいた。
青年は追放されて後、二つの目的のために世界を巡った。一つは、きわめて珍しい魔道具である『妖精の粉』を探すこと。『妖精の粉』はそれを振りかけた者の姿も、臭いも、気配さえ消してしまう力を持っていた。もう一つは、協力者を募ること。諸侯の許に赴き、青年は頭を下げて助力を乞うた。「勇者を助けてください」。拒絶され、侮蔑の視線を向けられながら頭を下げ続ける青年の姿に、少しずつ協力者は増えていった。『妖精の粉』と協力者を得た青年は、自らに『妖精の粉』を振りかけ、【無限収納】に手に入るだけの魔道具と協力者の一団を入れて勇者を追ったのだ。魔物ひしめく死の宮殿を、『妖精の粉』の効果が切れればその瞬間に魔物の餌になるその場所を、たった一人で。
青年は勇者の手を取る。勇者が身を固くした。青年はゆっくりと、はっきりした声で言った。
「あなたを、愛しています」
勇者が弾かれたように顔を上げる。青年の目から涙がこぼれた。
「ようやく、間に合った。無事で、よかった。生きていてくれて、よかった――」
地面に膝をつき、前屈みになって、勇者の手を額につけて、青年は泣く。勇者もまた膝をつき、溢れる涙の止める術を知らず、二人は長く泣き続けた。
勇者の腰に佩いた聖剣が淡く輝きを放ち、しゃらん、と澄んだ音を立てて砕けた。砕けた欠片は青い花びらとなって風に舞い、色のない荒野を彩る。魔法使いが感嘆の声を上げて空を見上げた。青い花びらに包まれた温かい涙だけが、響いている。
魔王が滅んだという情報は瞬く間に世界を巡り、人々は喜びに沸いた。魔王亡き後の魔物たちは制御を失って自壊し、脅威と言えるほどの勢力になることは二度となかった。人々は英雄の帰還を心待ちにしたが、魔王を滅ぼしたはずの勇者も、その仲間たちも都に凱旋することはなく、ひっそりとその姿を消した。勇者は魔王と相討った、あるいは新たな魔王の出現を予感し旅立ったなど様々な噂が立ったが、真実は誰も知らなかったと伝わる。
勇者の消失と時期を同じくして、一つの不思議な噂が辺境を巡る。若い行商人の夫婦が、どんなものでも、いくらでも入る背嚢を持って、各地で人々を救うのだという。乾いた土地を背嚢から湧き出る水で潤し、麦の立ち枯れた村にパンを届けるその夫婦は、きっと神が遣わした天使に違いないと人々は言う。噂は人伝に広がり、尾ひれがついて、その夫婦は山崩れの土砂を背嚢に吸い込んで麓の村を救っただの、妻が一人で熊を斬り伏せ旅人を救っただのと、もはや真偽の定かならぬ伝説となって、結局その夫婦が何者なのかは誰も知らない。確かなのは、その夫婦に会ったと自称する者たちが口をそろえる一つのことだけ――
「少なくともあの二人は人間じゃあないよ。だってあんなにいつも幸せそうな夫婦なんて見たことがないもの」
越えた先に、必ずあるンだよ、たぶんね。