光
それを罪と呼ぶのなら、ふさわしい罰はなんだ?
乾いた風が吹き渡り、砂埃を巻き上げている。生きる者の気配のない荒野はあらゆる命を拒絶しているようだ。雑草さえ生き延びることのできない不毛の地を越えた先に、魔王が座すという死で形作られた宮殿がある。強い日差しの熱で歪む大気の向こうに、かすかにその醜悪な姿がゆらめいていた。
久しく訪れる者のなかったであろうその荒野に、今は三人の若者の姿があった。見事な巨躯を全身鎧に押し込めた戦士は大剣を担ぎ、すらりとした細身の、女性にしては背の高い魔法使いは日除けのフード付きマントを深く被ってねじくれた杖に体重を預けている。そして最も年若い、まだ二十歳にもならぬ年頃の勇者は、日除けのフードを脱ぎ、死の宮殿のある方向を厳しい表情で見つめていた。無造作に束ねた髪が風になびく。
勇者たちの姿は、よく見るとその武具には無数の傷がつき、彼女たち自身も傷だらけだった。魔物との戦いは激しく、無傷で済むことなどない。だがほんの一年前までは、彼女たちは武具の心配も怪我の心配もする必要がなかった。心強い一人の仲間が、予備の武具も魔法のポーションも、いくらでも用意してくれたから。しかし今、彼はここにはいない。勇者自身が彼を追放してしまったのだ。もう二度と会わぬと、強い決意をもって。
「行きましょう」
勇者は仲間たちに告げる。二人の仲間はそれぞれに勇者に肯定の意を示し、そして勇者は死の宮殿へと向かって足を踏み出した。世界を、守るために。
魔王の存在が神託によって予言されたその日に、一人の赤子が生まれた。その赤子は左手の甲に聖痕を持ち、生まれながらにして勇者となるべき運命を負っていたという。赤子は両親から取り上げられ、神殿の最奥で世から秘匿されることとなった。魔物から守るために、あるいは、己を捨てて世を救う使命をその身に刻むために。
赤子は成長し、周囲の期待通りに、思惑の通りに、『正しく』勇者となった。世の穢れを知らぬ少女は、世界は彼女が守らねば消えてしまう儚いものであり、彼女が守る価値のある尊いものであると信じた。少女は世を脅かす魔物を討ち滅ぼすに充分な力を示し、齢十五にして神殿を発ち、諸国を巡る救世の旅を始めた。神殿は彼女の助けとするため、そして彼女を監視し誘導するために、戦士と魔法使いを護衛として同行させ、勇者一行は『世界』のために魔物を討滅する穢れなき英雄として人々から歓迎される存在となった。
だが、一つの出会いが彼女の運命を大きく変えた。荷馬も使えぬ峠越えの険しい山道を前にして偶然に声を掛けた荷運び人の青年は、彼女の持つ大量の荷物を不思議な力で小さな背嚢にすべて収め、軽々と背負って笑った。
「それでは行きましょう。日のあるうちに峠を越えなければ」
青年の持つ特別な力に、彼女は震えた。水も食料も、武具も魔道具も、あらゆるものがいくらでも持ち運べるなら、今まで彼女の旅を制限していた多くの問題が解決する。たとえば辺境では真水や食料の調達は難しく、都市部では割高になり金銭的な難しさがある、といった問題が、調達しやすい場所で大量に確保して彼に預けておくことで、ほぼ水食糧の心配をせずに行動できるようになる。さらに薬や予備の武具なども揃えれば、実質無補給で戦い続けることも可能になる。いちいち町に戻ることなく戦うことができれば、より効率的に各地の魔物を討伐し、より早く世界を救うことができるのだ。
「あなたの力が必要なのです」
峠を越えて次の町に辿り着いたとき、彼女は青年にそう切り出し、旅への同行を求めた。彼の力がこれからの旅に不可欠だと直感したのだ。青年は戸惑い、しかしその申し出を受けてくれた。花がほころぶように笑顔を浮かべた彼女を、青年は夢でも見ているような顔で見つめていた。
新たな旅の仲間を加え、彼女の旅は変わった。今まで訪れることのできなかった辺境の小さな村にまで救いの手を差し伸べることができるようになった。誰も助けてはくれぬという絶望を払拭し、人々の目に希望が灯る瞬間は、彼女にとって大きな喜びだった。しかし青年は、助けられたことを喜ぶ人々の姿を見て、苛立ちを募らせているようだった。そしてある日、とある地方の領主から乞われて魔物を討伐した夜に、彼は抱えていた不満を爆発させた。
「どうしてあのような無能どものために、あなたたちが傷付かねばならないのですか!?」
青年の激しい怒りに彼女は目を白黒させる。どうして、と言われても、それは『勇者だから』としか答えようがない。彼らは勇者ではなく、私は勇者だから、彼らに戦う義務はなく、私には戦う義務があるのだ。青年の言う通り王侯は魔物に対して為す術を持たないが、それを責めるのはいささか酷というものだろう。誰もが魔物に立ち向かえるわけではないのだ。
「あんな奴らのために戦っているわけじゃない」
戦士が苦笑いを浮かべる。魔法使いが複雑な表情で
「結果的に彼らの利益になっているけど、ね」
とつぶやいた。それぞれに思うところがあるのだろうが、それでも勇者としての振る舞いを変えるわけではない。
「私たちが戦わなければ、犠牲になるのは王侯貴族ではなく普通の人たちだから」
魔物と戦うのは怖い。死はいつも戦いの傍らで嗤っている。勇者である私でさえそうなのだから、勇者でない人々ならなおのこと怖いだろう。兵士であれ、騎士であれ、農民であれ同じことだ。勇者でない人に魔物と戦えとは言えない。
「何の罪もない人たちが犠牲になるのはおかしいでしょう?」
弱いことも、臆病であることも罪ではない。皆が懸命に生きているのだ。そんな世界を守るために、勇者は存在している。彼女は透明な微笑みを浮かべた。青年は彼女に反論することはなかったが、しかし納得した様子もなかった。憤りを押し込める青年を見ながら、彼女は不思議な思いに駆られていた。
いったい彼は、どうしてそんなに怒っているのだろう? 勇者が戦うのも、勇者が人々を守るのも、当たり前のことだというのに。
それからしばらくの後、青年は突如、勇者の働きに対価を要求することを宣言し、実際に助けを乞う人々に金銭を求め始めた。それは今までの『勇者』の在り方を大きく変えるもので、各地で激しい反発を招くことになった。しかし青年は頑として意見を曲げず、冷徹に言い放つ。
「ならば我らはここを発つまで。勇者の力を必要とする場所はいくらでもありましょうから」
自力で魔物に対処する力を持たぬ諸侯は顔を赤くしながら青年を睨みつけ、金貨の詰まった袋を投げてよこした。青年はそれを器用に受け止め、慇懃に深く頭を下げる。その態度はさらに諸侯を刺激し、青年の、そして勇者の評判は急速に悪化していった。
どれだけなじられようとも怯む様子もない青年を、勇者はぼんやりと見つめる。彼が何を考えてこのようなことを始めたのか、理解できてはいない。しかし、金銭的な余裕は確実に彼女たちの旅を楽にしていた。敵の本拠地である死の宮殿に近づけば近づくほど魔物の強さは増し、もはや彼の調達するマジックアイテムなしには戦い続けることはできなくなっていた。『身代わり人形』には何度命を救われたか知れない。しかし『身代わり人形』は非常に高価で、今までは気軽に消費できるものではなかった。
(それに――)
青年が人々に対価を要求するようになってから、勇者は人々の変化を感じていた。それは勇者への悪評に伴う人々の眼差しの変化、ではなく、『ただ守られる者』から『戦う者』への心の変化だった。高額の対価を支払えない者たちは、勇者にすべてを任せることのできない現実と向き合い、自分たちでできることを捜し始めていた。それらの人々は勇者に『守る』ことを求めるのではなく、『戦い方を教えてほしい』と求めてきた。魔物との戦いを自分たちの問題として考え始めたのだ。勇者が何とかしてくれる、その依存心を捨て、自らの力で未来を切り拓くために。
(私は人を、侮っていたのかもしれない)
世界は自分が守らねば滅びてしまうと思っていた。しかし今、自らの足で歩きだそうとする人々がいる。守られなくてもしっかりと自分の足で立つ人々がいる。すべてを一人で背負う必要はないのだ。人は、それほど弱くも儚くもないのだ。
勇者は前を見据える青年の横顔を見つめる。人々に変化をもたらしたのは間違いなくこの青年だった。自分とはまったく違うやり方で青年は戦っている。揺らがぬその意志を、彼女は頼もしいと思った。
勇者たちは旅を続け、人々を救い、悪評を増しながら少しずつ、死の宮殿へと近付いていった。悪評をまき散らすのは直接魔物を見たこともない権力者とそれに追随する者たちだけで、勇者と共に戦った者はそれが全く筋違いの批判であると知っていたが、そういう者たちが上げる声は小さく、世の人々は貴族様の大声を素直に受け入れている。
魔物の支配域を奪還するに従い、敵の抵抗は激しさを増している。それは戦いの中で青年の持つ役割、つまりアイテムによるサポートの重要性もまた、増すことを意味していた。青年の魔道具を使う時機を見る目は確かで、勇者たちは自分の戦いに集中することができている。しかし一方で、戦いの中で青年が敵の標的になる場面もまた、確実に増えていた。
「まったく、運がねぇな!」
運命に悪態をつき、戦士が大剣の鞘を払った。魔物の支配域との境界付近、薄暗い森の中で、勇者たちは魔物の一群と偶発的に遭遇していた。敵のリーダーと思しき、ねじくれた角を持った合成獣が大きく吠え声を上げる。仲間を呼んでいるのだ。
「退くか?」
「人里に近すぎる。追ってこられたら巻き込みかねない!」
勇者が長剣を抜き放ち魔物を鋭く睨む。この場所はまだ敵の支配域ではなかったはずだ。ならば魔物は領域を踏み越えている、ということはつまり、魔物は近いうちに侵攻する意思を持っている。ここで退けば侵攻の呼び水となる危険があった。
勇者を先頭に、青年を囲むように三人は陣を組んだ。戦いの気配が満ち、魔法使いが詠唱を始める。青年が背嚢から茶色の小瓶を取り出して周囲に振りまいた。勇者たちの身体に淡い光が宿る。
「火神の憤怒よ、貫け!」
魔法使いの杖の先から火線が奔り、魔物の一体を貫いて爆発する。それを合図に、戦いが始まった。
戦いは勇者たちの優位に進み、魔物はその数を減らしていく。増援は脅威になるほどの数ではなく、敵は戦意を喪失しつつあった。ついには敵のリーダーが大きく吠え、魔物たちは背を向けて逃走を始めた。最後の抵抗か、あるいは追撃に対する牽制か、敵のリーダーは口からまばゆい光線を放つ。勇者はわずかに横にずれて光線をかわし、敵のリーダーに斬りかかった。リーダークラスの魔物をここで斬ることができれば後々こちらが有利になる。
――ドサリ
重い物が地面に落ちる場違いな音がして、勇者は思わず振り返った。彼女の視界に地面に倒れ伏した青年の姿が映る。魔物の放った光線が青年の腹部を貫き、地面に赤く血溜まりを作っていた。戦士と魔法使いが青年に駆け寄る。血の気が失せた顔で勇者は悲鳴を上げた。
ほど近い町に宿を取り、戦士と魔法使いは深く息を吐いた。隣室では青年が眠り、勇者が憔悴した顔で付き添っている。すぐに魔法で治療し、青年は命を取り留めたはずだが、未だ目を覚ます気配はない。
「どうして『身代わり人形』が効かなかった?」
不可解そうに戦士はつぶやく。魔法使いは首を横に振った。
「わからない。ただ、もしかしたら彼は、自分には使っていなかったのかもしれない」
少し前に、青年が「大きな町に寄ってほしい」と言っていたことを魔法使いは思い出していた。魔道具の残りが少なくなってきたのだと話していた。具体的に何が、とは聞いていなかったが、『身代わり人形』も在庫の乏しくなっていた魔道具の一つだったのかもしれない。
「バカ野郎、って言いたいところだが、な」
そうさせたのは俺たちだ、と戦士は肩を落とした。守られているという意識からか、青年は普段から自分のことを後回しにすることが多い。残りの数が少ない『身代わり人形』を自分のために使うことを躊躇ったのだとしたら、それをさせたのは彼に引け目を感じさせていた自分たちなのだろう。
がちゃり、と鈍い金属音を立てて隣室の扉が開く。死人のような顔をした勇者が亡霊のように部屋に入ってきた。
「どう?」
問う魔法使いに勇者は力なく首を振る。
「まだ眠っています」
そう、と言って、魔法使いは視線を落とした。責任を感じているのだろう、勇者の憔悴ぶりは見るに堪えないほどだ。扉を閉め、勇者は固く目を瞑った。しばしの沈黙の後、意を決したように勇者は目を開いた。
「聞いてほしいことが、あります」
「本気で言ってるのか!?」
戦士の顔が信じがたいという驚きに染まる。魔法使いもまた、耳を疑うような表情になった。
「理由を聞かせて。どうして、彼をパーティから外さなければならないの?」
聞いてほしいことがある、そう言った勇者がその後に続けた言葉は、青年のパーティからの追放を告げるものだった。唐突なその申し出は戦士と魔法使いを戸惑わせる。勇者が理由もなくそんなことを言うはずはない。しかし、青年を失うことは今の彼女たちにとって生死を分けるほどの損失だということも事実だった。およそ合理的な判断ではない。二人は勇者の言葉を待った。勇者は躊躇い、口を開いては言葉にならず口を閉じることを幾度か繰り返して、心を少しずつ言葉に変えていった。
「……私は、勇者です。魔王を滅ぼし、世界を救う責務がある」
ぽつり、ぽつりと勇者は言葉を紡いだ。
「他の誰にも、できぬことです。他の誰にも、させてはならないことです。魔王を滅ぼすことができるのは勇者だけ。私の生は、そのためにある」
でも、そう言って勇者は唇を噛んだ。両目から一粒の涙がこぼれる。
「倒れる彼を見て、気付いてしまったの。私は、本当は、世界なんてどうでもいい。世の人々のことなんて、どうでもいいんだって!」
世界よりも大切なものを知ってしまった。他の誰よりも大切だと思ってしまった。両手で顔を覆い、嗚咽混じりに勇者は己の罪を告白する。
「私は、もう、『世界』のために戦えない――!!」
世界を救うために、命の危険を承知で青年に旅の同行を求めることはもはやできないのだと、勇者は途切れ途切れに震える声で言った。今日死んでしまうかもしれない、明日は守り切れないかもしれない、そんな不安を抱えたまま、これからの戦いを切り抜けることはできないのだと。勇者は手の甲で涙を拭い、決然と顔を上げた。
「彼が目を覚ましたら別れを告げます。私は、勇者だから」
勇者の決意を汲み、戦士は無言でうなずきを返す。魔法使いが勇者を抱きしめ、勇者は魔法使いの胸に縋って声を殺して泣いた。
そして、翌日の朝が来る。
「あなたとの契約を解除し、私たちのパーティから追放します。もうついてこないで」
戸惑い、呆然とした様子で青年は勇者を見る。当然だろう。前触れもなくそんなことを言われたら。
「それは、どういう……?」
辛うじて搾りだした青年の掠れ声に、戦士が小バカにしたように鼻を鳴らして応えた。
「心当たりがないとでも言うのか? 大した面の皮じゃないか」
心にもないことを言わせている。勇者の胸がじくと痛んだ。助けを求めるように青年は視線を魔法使いに向ける。しかし魔法使いは、軽蔑の眼差しを彼に返した。
「あなたの、異常なまでの金への執着にはもううんざりなの」
忌々しげに魔法使いはそう吐き捨てた。同調するように勇者がうなずく。
「あなたのせいで私たちの評判は散々なものよ。世界の危機を利用して金を儲ける火事場泥棒、貧しい者のためには指の一本も動かさない守銭奴、とね」
冷たい言葉が自身を抉る。世の評判など何の意味もない。そんなものはあなたを傷付ける理由になどならない。
「でも、それは、あなたたちのために」
「頼んでねぇよ」
青年の言葉を戦士はばっさりと切り捨てる。青年は唖然と言葉の続きを失った。
「あなたが勝手にやったことで、私たちの名誉が汚されたの」
青年は軋むようなぎこちなさで魔法使いに顔を向ける。魔法使いは顔をそむけた。きっと、じっと見られたらほころびを見つけられてしまうから。混乱した青年は、意味を為さぬ断片的な言葉を辛うじて搾りだした。
「でも、アイテム、役に、必要――」
泣きそうになる自分を叱咤する。自分で決めたことだ。傷付けると承知の上だ。意志の力で表情と感情を無理やりに引き離す。
「回復魔法なら私が使える。強化魔法なら彼女が使える。敵の攻撃は彼が防いでくれるわ。あなたの持つアイテムなんて、なければそれで済むようなものよ」
青年は力が抜けたように膝をつく。自制心を振り絞って勇者は青年に伸ばしそうになった手を抑えた。嘘だよ、あなたが必要だよ、そう言いたくなる弱い自分を噛み殺す。
男はすがるような瞳で勇者に手を伸ばす。今、私はどんな顔をしている? きちんと冷たい、人でなしの顔をしているだろうか?
「戦えもしない、足手まといのお守りはうんざり。昨日だって死にかけたあなたを助けるために必要のない苦労をしたわ。これから戦いはますます激しくなる。もう、限界なの」
これ以上傷づける言葉を投げかけるのは。涙が溢れぬよう大きく息を吐き、勇者は青年に背を向ける。戦士も魔法使いも、きっと同じ気持ちなのだろう、一瞥すら残さずに、彼を置いて歩き始めた。背を向けたまま勇者は別れを告げる。
「さよなら。もう会うこともない」
青年の慟哭が勇者の背を打つ。わずかに声が震えたことを気付かれはしなかったろうか? 二度と会いたくないと思うほどにきちんと嫌われただろうか? 私が死んでもわずかの後悔も抱かぬほどに、きちんと憎んでくれたのだろうか?
(あなたを、愛しています)
口に出せず飲み込んだ言葉は涙となって溢れるから、彼女は一度も青年を振り返ることができなかった。
無数の魔物を屍に変えて、勇者たち三人はついに魔王の前に立つ。髑髏で飾られた玉座から魔王は傲岸に勇者たちを見下ろしていた。戦士の持つ大剣には無数に刃こぼれし、魔法使いの杖はへし折れて力の大半を失い、勇者の聖剣すらその輝きに翳りが見える。薬も魔道具もとうに尽き果て、三人の状態は満身創痍と言って差し支えない。魔王もそれを知っているのだろう、勇者たちに注ぐ視線はつまらなさそうなものだった。
勇者は己を鼓舞するように聖剣を振り、魔王を見据えたまま仲間に言った。
「二人の命、私に頂戴」
戦士と魔法使いはニッと笑いを浮かべ、叫んだ。
『承知!』
戦士がボロボロの大剣を携えて走り、魔法使いが呪文の詠唱を始めた。勇者が魔王に聖剣を突きつけ気勢を上げる。
「ゆくぞ!」
世界の未来を背負い、勇者の最後の戦いが始まった。
「くだらぬ」
その目に憐れみすら浮かべて、魔王は勇者たちを見つめた。戦士は自らの血で赤く染まり、肩で息をして、大剣を支えにしてようやく立っている。魔法使いは気力が尽き果て、小さな灯火さえ作り出せぬ有様だった。勇者もまた聖剣を持つことさえ辛そうにその切っ先を下げている。
「我が配下をことごとく退けた勇者が、この程度か」
魔王のまとう闇色の衣は戦士の斬撃をからめとり、わずかの傷も魔王につけることができなかった。魔法使いの魔法は衣を焦がし、勇者の聖剣は衣を裂いたが、衣はすぐに再生し、結局意味のある攻撃とはなり得なかった。戦士の大剣に加護を宿すことができれば、魔法使いが最強の魔法を使えるほどの気力を温存できていれば、聖剣に光を取り戻せていたら――あるいは魔王に刃が届いていたかもしれない。しかしそれは、彼女自身が望んで閉ざした可能性だった。
「その程度の力しか持たぬ身で我が前に立つ傲慢の報いを受けよ」
魔王がその手を勇者にかざす。圧倒的な力が、死が、闇色の絶望を形作った。勇者は強く奥歯を噛む。
――死ぬわけにはいかない。負けるわけには、いかない!
勇者は聖剣を構える。魔王が一条の闇を放ち、勇者に襲い掛かる。勇者は聖剣を振りかぶり、裂帛の気合いと共に斬りつけた! 魔王の闇と勇者の光が相食み、互いを削り合う。
死ぬわけにはいかない。負けるわけにはいかない。魔王を滅ぼさねばならない。世界を救わねばならない! だって、世界とは、『彼が生きる世界』だから。『彼が生きる未来』こそが、私が真に望む世界の姿だから――
闇を払う聖剣の光が、力尽きたように消える。闇が、すべてを染め上げていく。願いも、祈りも、すべてを飲み込んで、勇者は全き闇に沈んだ。
その愚かさの報いを――