闇
気付かぬという罪がある。
王都の高級住宅街、貴族や官僚、そして一部の大富豪のみが住むことを許される区画の中で最も王城に近い場所に邸宅を構えたその男は、椅子に座って最上階の窓から見える景色に愉悦を浮かべていた。王城を除けばこの国で一番高い建築物である彼の邸宅は、あたかも第二の王城のように王都を睥睨している。実際、この邸宅は王城が行政機能を失った場合の予備として使えるよう様々な機能を備えている。もっとも、実際に何か事が起こった場合に、王城がその機能を失って王城の隣にあるこの邸宅が無事であるという事態は考えづらいだろう。つまりこの邸宅は、彼が王となったときに王城となるべきものとして築かれたのだ。そしてその思惑は宮廷内で半ば公然の秘密となっている。にも拘わらずそれが許されているという事実が、この男が持つ絶大な富と権力を示していた。もはやこの国は、この男の金を頼りにしなければ立ち行かないのだ。
「やがてすべてが俺の前に跪く。貴族も、王も、勇者でさえもな」
仄暗い復讐心を湛えた瞳が醜い笑みを形作る。こらえきれぬ様子で男は乾いた笑い声をあげた。
ほんの一年ほど前まで、男はただの荷物持ちだった。町から町へ、旅人や行商人を相手に彼らの荷物を運搬する。主に峠越えの山道で仕事を請け負い、日銭を稼ぐ。決して楽な仕事ではなかったが、他に取り柄のなかった彼には他に生きる術が思いつかなかった。読み書きも計算もできない彼にとって、この仕事は自分に似合いだと、そう思っていた。
だが、一つの出会いが彼の運命を大きく変えた。今、世界は魔王と呼ばれる魔物の王が率いる悪魔の軍勢と激しい戦いを繰り広げており、人間側のいわば切り札として期待を一身に背負っている、一人の女性がいた。彼女は勇者と呼ばれ、わずかな手勢を率いて世界を巡り、魔王の侵略から人々を守り、希望を振りまいていた。そんな、本来ならば姿を見ることさえない雲の上の存在である彼女の荷物を、ある日彼は預かることになったのだ。
「たくさんあってごめんなさい。でも、どうしても必要なものなの」
どこか申し訳なさそうに仕事を頼む勇者は、伝え聞くような天使の如き完璧な人格者ではなく、美しくはあったが、いわば普通の娘だった。まだ二十歳にも届かぬ華奢な体に世界の命運を負う姿は、神々しいというよりも痛々しく映った。世界はこんな女の子に頼り切っているのかと愕然とした思いを抱きながら、男は安心させるように微笑んだものだ。
「お任せください。どんなものも、どれだけあっても、きちんとお運びいたします」
男は山のように積まれた荷物に手をかざす。淡い光が荷物を包み、形を失って男が背負う背嚢に流れ込んだ。勇者が目を丸くする。言葉もなく呆けたように立つ勇者に向かって、男は事も無げに言った。
「それでは行きましょう。日のあるうちに峠を越えなければ」
男は生まれながらに、他の誰も持たぬ特殊な力を持っていた。それは【無限収納】。重量も体積も関係なく、いくらでも物を己の作り出した異空間に収納する力。しかし彼はその力の価値に気付いていなかった。彼はこの力を、ただ荷物を運ぶのに便利な力としか認識していなかった。その力の価値に初めて気づいたのは勇者だった。勇者は即座に男に旅への同行を打診し、男は戸惑いながらもそれに応じた。日々、いつ来るかもかも分からない客を捜しまわる生活から抜け出したい、その一心だった。
勇者は彼と、そして仲間と共に世界を巡り、行く先々で魔物の脅威を打ち破っていった。侵攻にただ手をこまねき、自己の権益を守ることに汲々とする王侯たちの姿はあまりに不甲斐なく、彼はしばしば憤りを吐き出した。
「どうしてあのような無能どものために、あなたたちが傷付かねばならないのですか!?」
魔物と激しい戦いを繰り返すたびに、勇者やその仲間たちの身体に傷が増えていく。そして戦いの勝利の利益を享受するのは支配者の顔をした無能どもなのだ。「おお、勇者よ。よくやってくれた」と醜悪に笑いかけるだけの王侯たちに男は強い怒りを向けた。しかし勇者たちは窘めるように首を横に振った。
「あんな奴らのために戦っているわけじゃない」
がっしりとした体格の、気のいい兄貴分である戦士が苦笑交じりに言った。
「結果的に彼らの利益になっているけど、ね」
やや複雑な面持ちで魔法使いがつぶやく。
「私たちが戦わなければ、犠牲になるのは王侯貴族ではなく普通の人たちだから」
何の罪もない人たちが犠牲になるのはおかしいでしょう? と勇者は透明に笑った。確かに、罪もない者が犠牲になるのはおかしい。だがそれは、勇者たちに世界の責任を負わせる理由になるだろうか? 力があるというだけで、彼らの優しさに付け込んで、たった三人で魔王と戦わせる理由になるだろうか? 褒めそやし、言葉で讃えるだけで義務を果たした顔をしているのは王侯貴族も平民も同じだ。
(俺が守らなければ。彼女たちを世界の犠牲にはさせない。絶対に!)
彼に戦う力はない。戦いにおいて彼は常に仲間たちに守られていた。ならば自分に何ができる? 彼女たちを守るために、自分ができることはなんだ? 考え抜いた挙句、彼が出した結論は『金』だった。
(勇者の働きに対して正当な対価を要求する。それを原資にして、旅の途上で訪れる国や町で商売をしよう。利ざやの大きな商品を大量に運んで、一度の取引で大きく儲ける。儲けた金で、彼女たちを守るための力を買うんだ)
命を奪う敵の一撃を肩代わりする『身代わり人形』、傷を一瞬で癒す『魔法のポーション』、一時的に能力を増加させる『強化薬』など、金に糸目をつけなければ手に入るマジックアイテムはいくらでもある。それらがあれば彼女たちの戦いは今よりずっと楽になるはずだ。今まで対価も払わず利益だけを貪ってきた輩は反発するだろう。だが、世界には等しく負担を求めるべきだ。勇者に世界を救う責務を負わせるというのなら、勇者を守る責務を世界は負うべきなのだ。
(きっと、俺のこの力はこのためにあったんだ。勇者たちを守るために、勇者たちが世界にすりつぶされないように)
己の道を思い定め、男は決意の光を瞳に宿した。おそらく自分は世間から冷たいまなざしを向けられることだろう。勇者の威光を嵩にきて利益を貪る亡者と言われるだろう。それでいいのだ。それこそが勇者の仲間として自分に与えられた役割なのだから。
それから男は自らの思いを実行に移した。勇者の力は無償ではないと人々に周知し、王であろうと平民であろうと例外なく対価を求めた。その徹底ぶりに勇者たちは困惑し、時に苦言を呈したが、男は聞く耳を持たなかった。男の目論見は成功し、欲しいものは望むだけ手に入れられるだけの金を男は手に入れた。その金で買った数々のマジックアイテムは勇者たちの確かな助けとなり、男は自らの正しさを確信する。魔物との戦いが激しさを増し、時に戦いの中で死にかけても、男は勇者たちに同行し、アイテムで彼女たちをサポートし続けた。だから彼は気付かなかった。勇者が苦しげな表情で彼を見つめていることに。
「あなたとの契約を解除し、私たちのパーティから追放します。もうついてこないで」
それは突然の宣告だった。辺境の町で、朝、目が覚めて、これから新たな魔物の支配域に入ろうと気持ちを引き締めていた矢先の出来事。言葉の意味を理解できず、男は戸惑いと共に仲間の顔を見渡す。気心の知れたはずの皆の顔は、今日はひどく冷淡な無表情だった。
「それは、どういう……?」
辛うじて搾りだした掠れた声に、戦士が小バカにしたように鼻を鳴らして応えた。
「心当たりがないとでも言うのか? 大した面の皮じゃないか」
鷹揚で細かいことにこだわらない戦士のこれほどまでに棘のある言葉を男は今までに聞いたことがなかった。その豹変ぶりに心が追い付かない。助けを求めるように男は視線を魔法使いに向けた。しかし魔法使いは、軽蔑の眼差しを彼に返した。
「あなたの、異常なまでの金への執着にはもううんざりなの」
忌々しげに魔法使いはそう吐き捨てた。同調するように勇者がうなずく。
「あなたのせいで私たちの評判は散々なものよ。世界の危機を利用して金を儲ける火事場泥棒、貧しい者のためには指の一本も動かさない守銭奴、とね」
勇者の言葉に男は一瞬言葉に詰まった。彼の行動は確かに、彼自身の悪評に止まらず勇者たちの評判も貶めてしまっていることには気づいていたのだ。だがそれは、勇者たちの命を守るために必要な行動の結果であり、彼の行動そのものを否定するものではないはずだ。
「でも、それは、あなたたちのために」
「頼んでねぇよ」
男の言葉を戦士はばっさりと切り捨てる。男は唖然と言葉の続きを失った。
「あなたが勝手にやったことで、私たちの名誉が汚されたの」
男は軋むようなぎこちなさで魔法使いに顔を向ける。顔を見るのも不愉快だと言うように魔法使いは顔をそむけた。
なぜ、急にそんなことを? 混乱を極めた思考はうまく言葉を紡いでくれない。喉はカラカラに乾き、震える唇からようやく出てきたのは、意味を為すかも怪しい断片的な言葉だけだった。
「でも、アイテム、役に、必要――」
勇者は仮面のように表情を動かさないまま男に告げる。
「回復魔法なら私が使える。強化魔法なら彼女が使える。敵の攻撃は彼が防いでくれるわ。あなたの持つアイテムなんて、なければそれで済むようなものよ」
男は力が抜けたように膝をつく。なければそれで済む? 彼女たちを守ろうと、懸命に考えてやってきたことのその結果が、あってもなくてもいいような、そんなものだった? 何もかもが無駄だった? 本当は、何の役にも立っていなかった?
男はすがるような瞳で勇者に手を伸ばす。勇者はわずかも表情を変えない。
「戦えもしない、足手まといのお守りはうんざり。昨日だって死にかけたあなたを助けるために必要のない苦労をしたわ。これから戦いはますます激しくなる。もう、限界なの」
清々した、とでもいうように大きく息を吐き、勇者は男に背を向ける。戦士も魔法使いも、何の感慨もなく、一瞥すら残さずに、彼を置いて歩き始めた。背を向けたまま勇者は別れを告げる。
「さよなら。もう会うこともない」
感情のないさよならが男の心臓を打つ。男の目から涙が溢れた。地面に伏し、何度も手で地面を叩いて、男は泣き続けた。その慟哭を背に受けた勇者たちは、一度も振り返ることなく、辺境の町を後にした。
一年前のあの屈辱は、今でも昨日のことのように思い出せる。自分の献身のすべてを無意味と断じた勇者たちとの決別は、男を決定的に変質させていた。彼はそれまで勇者たちのためにしてきた商売を、自分のためにするようになった。愚かなことに勇者たちは、彼が儲けた金の全てを彼に持たせたままで去っていった。その莫大な財を使って商売に注力した彼は、あっという間に世界有数の富豪へと登り詰めたのだ。
窓の外に広がる景色には、多くの人々が忙しなく行き交う。もうすぐその全てが自分のものになるのだ。彼はもうすぐ王になる。彼は儲けた金を魔物との戦いで荒廃した領地の経営に苦労する貴族たちに積極的に貸し付け、もはやこの国の大半の貴族は彼への借金で進退窮まっている。そしてそれは王家も同様だった。期限を迎えて返済ができないことが確定したとき、王はその玉座を明け渡すのだ。
勇者たちからパーティを追放されたことはもはや彼の傷ではない。勇者たちは今も、対価ももらえず、世界の人々からいいように使われる憐れな生贄の役割を全うし、魔王に挑んでいることだろう。それに比べればどうだ、自分はもうすぐ王の座に手が届く。有り余る金を持ち、もはやこの世にできぬことなどないのだ。愚かな者たちと手を切り自らの道を進むための、あれは必要な儀式だったのだ。勇者たちのことなどもはや彼にとって関心事ではなかった。彼女たちよりも間違いなく自分は成功を収めたのだ。
――コンコン
扉をノックする音に思考を中断され、男は顔をしかめた。返事をする前に扉は開き、勝手に入ってきた女の顔を見た男の目が驚きに見開かれる。そこにいたのは一年前、彼を絶望の闇に叩き落とした者たちのひとり、魔法使いの女だった。
「久しぶりね」
懐かしさも親愛もない形式的なその挨拶に思わず声を荒らげそうになり、男はぐっと言葉を飲み込んだ。気を落ち着かせるように息を吐き、平静を装って男は顔を歪ませる。
「何の用だ?」
魔法使いは無遠慮に男に近づいた。
「勇者が死んだわ」
「魔王に負けたのか!?」
男は思わず身を乗り出す。もし勇者が魔王に敗れたとしたら、魔王軍と人間の勢力バランスが大きく崩れる。勇者に頼り切ったこの世界で魔王に対抗できる力を持った者は存在しない。それは遠くない未来に人間が滅亡することを意味していた。魔法使いは失望を顔に表し首を横に振った。
「魔王も滅んだ。私たちは魔王と相討ちになったのよ」
男は安堵の息を吐く。魔王が滅んだのなら、魔王軍は組織としての一体性を保持できまい。魔王というカリスマがあっての魔王軍なのだ。魔物どもに自ら互いに協力して人間に対抗するような理性はない。
「ご親切にそれを知らせにきてくれたのか?」
男は皮肉に口を歪ませた。魔法使いの意図はどうあれ、魔王が滅んだという事実は有益なものだ。魔王の脅威がなくなれば世界の物流は大きく変わる。魔物の襲撃を怖れずに済むならより大規模な人と物の行き来があちこちで行われるようになるだろう。他者に先んじて各地の物流を制すれば、今よりもさらに莫大な利益を生むことになる。頭の中で新たな商売の収支を計算し始めた男に向かって、魔法使いは淡々と言葉を放つ。
「私はあなたに真実を告げに来たの」
計算を中断し、男は怪訝そうに眉を寄せた。わざわざ今更、何を告げようというのだろう。告げられたところで何が変わるわけでもあるまいに。確かなことはただ一つ、彼女たちは彼を捨てたということだけだ。
「勇者は、あの子はあなたを、愛していた」
突然の予想外な発言に男は思わず噴き出した。
「何を言うかと思えば。吐くならもう少しマシな嘘を吐くことだ」
「嘘じゃない」
魔法使いはじっと男を見つめている。男の顔にサッと朱が上った。隠し切れぬ憎悪がその目に宿り、魔法使いを睨みつける。
「ふざけるな!」
男は拳で机を叩いた。
「あの日、俺を手酷く裏切ったのはお前たちだ!」
かつて侮蔑の眼差しで男を見た魔法使いを、男は嘲笑する。
「魔王を滅ぼし、役割を失って、成功した俺にすり寄ろうという魂胆か? 大した手のひら返しだが無駄なことだ! 俺がお前たちを赦すことはない! 永遠にな!!」
魔法使いの顔に憐れみの色が浮かんだ。
「……不自然に思わなかったの?」
「なに?」
男の声がわずかにうわずる。不自然? 何かあのとき不自然なことが――
「どうして急に私たちの態度が変わったのか」
男が言葉に詰まる。魔法使いは淡々と言葉を続ける。
「分かっていなかったの? あなたがどれほど私たちを助けてくれていたのかを」
「役に立たないと言ったのはお前たちだ!」
明らかに動揺した大声で男は魔法使いの言葉を否定した。魔法使いは答えず、さらに言葉を重ねた。
「気付いていなかったの? 彼女があのとき、震えていたことに」
震えて、いた? いや、そんなはずはない。彼女は終始冷徹な無表情で彼を詰り、感情のない声でさよならを告げたのだ。一片の感情さえ見せずに――
「あのとき別れを告げたのは、あなたを死なせないため。激しくなるこれからの戦いにあなたを巻き込まないため。あの子が魔王と戦ったのは顔も知らない『人々』のためなんかじゃない。あなたを、あなたの生きる未来を守るために、あの子は戦ったのよ」
男の鼓動が急速に早まり、その顔からは血の気が引く。あのときの彼女の無表情は、自らの心の内を隠すためではなかったか。感情のない声は、感情を殺さねば別れを告げられなかったからではないか。背を向けて振り返らなかったのは、顔を見られることを怖れていたからではないか。ならば、彼女は、本当に、自分を守るために――
「勇者は死んだわ。私はそのことを伝えに来た。じゃあね、もう会うこともないでしょう」
魔法使いはそう言い捨てると、男に背を向けて、振り返ることなく部屋を出る。一人残された男は呆然とその後ろ姿を見送った。
――勇者が死んだ。
かつて自分が守ると、決して犠牲にはしないと誓った女の子が死んだ。そのことの意味が少しずつ男の中に満ちていく。瞳孔が収縮し、大きく目を見開いて、男は意味を為さぬ叫び声をあげた。
後ろ手に扉を閉め、魔法使いは独り言ちる。
「……言うなと言われていたけれど、ごめんね」
部屋の中からは男の慟哭が聞こえる。魔法使いは固く目を閉じた。
「生涯、悔やみ続けるがいい。あの子の存在を忘れぬように。そうでなければ――」
魔法使いの足元から青い炎が巻き起こり、彼女の身体を包む。
「あんまりでしょう? ねぇ?」
魔法使いの右の目から一粒の涙がこぼれる。青い炎に溶けるように焼き尽くされ、魔法使いは灰のひとかけらも残さずに消えた。
どうか、叶うなら、もう一度、もう一度だけ――