いつも意地悪な兄さんは
守り石事件は、事件など無かった、で私は押し通すことにした。
もちろんこんな失態を自分が仕える聖女がしていたと聖務局に報告などすれば、女官達こそ仲間内で面目が立たなくなると考えたのだろう。よって彼女達は何事も無かった顔をして、守り石については一切口を開かないことに決めたようだ。
さすが、新任した私に新たな女官を選抜させなかったという、老獪なる先代からの女官達よ。
けれど守り石事件を見逃した女官達であるが、先に言ったように彼女達は海千山千の人達である。つまり、自分達にとっての得となることには敏感であり、得を得ようと貪欲に行動が出来る人達ということだ。
逃げたはずの彼女達は神殿に戻ってくると、次の仕事のために温室前に出ていた私と一緒にいたクラインにどうなったかも聞かずに、しらっと通常業務に戻ったのである。
クラインをちやほやちやほやと囲んでおしゃべりする、という通常業務だ。
「お疲れでしょう。甘いお茶は如何?あなた様は頑張り過ぎでございますわ」
「お若い時のお体に溜まった見えない疲れとお怪我は、老年になった後に体に出て来て大変ですのよ。お若い今こそをお体を大事にするべきですわ」
「俺の溜まったものをあなた方が解放してくれると?」
クラインの返しに女官達はなぜか悲鳴を上げた。
うるさい。
「ああ!アプリリス様が睨んでいる。あなた方を私に奪われたと焼餅を焼いていらっしゃるようですよ。さあさあ、私はいいですから、アプリリス様こそをあやしてさしあげてください」
何よ、その口調は。
女官達には好青年を演じて、何が、私はいいですから、だ。
それに、それに!
「睨んでなんかいません!それに、あや、あやすって、何よ!」
クラインはにやっと笑うと、女官達の輪からするっと抜け出して私の真ん前に立った。そしてその長身の身を屈めて、私の頬に彼の頬が付くぐらいまで顔を近づけた上で耳元に囁いてきたのである。
「お前は俺がいないと寂しいみたいだな?」
「ど、う、ぞ、女官達とあま~いお茶でも飲んでいらっしゃったら?あなたは溜まっているものを出したいんでしょう?」
冷静な聖女らしい声を出したかったのに、歯ぎしりしているような声しか出せなかったことが悔しい。
いいえ、さらにクラインが機嫌良さそうに笑ったのが許せない。
「意味がわかってんのかよ、おぼこが」
「おぼ、おぼこって、あなたは――」
「俺は出すならお前がいいんだけどな」
「はぎゃ」
ほら、変な声しか私から出なかった。
クラインが私の耳元で囁いた声は、私の腰をぞわぞわさせるという初めて聞いた甘い声という変な声なのに、聖女である私がギギって鳴く海ナマズみたいな声しか出せなかったとは!
え?鳴く魚?海にナマズ?なんかいたかしら?
「唇を捻じ曲げているとギギみたいな顔になるぞ」
ギギ?
鱗が無くて縞模様のある小型の魚が私の頭の中を泳いだ。
ギギ、海ナマズの名前。
クラインに私の思考回路を読まれた気がして、私はぞっとしながら顔をあげた。
私の目に映るクラインはいつものように揶揄い顔だった。
兄さんはいつもいじわるばっかり。
私の頭の中で幼い女の子の声が響いた。
その声は幼くても私の声でしかない。
私には、兄が、いたの?
もしかしてクラインこそ私が十歳までの家族で、お兄様、だった?
私はまじまじとクラインの顔を見つめた。
彼と私が家族であるならば、自分と共通の遺伝の特徴があるはずだからと。
彫りの深い目鼻立ちは神懸かった天才彫刻家の手によるもののように完璧で、青い青い瞳はアランダルの王侯貴族よりも高貴そうに輝いている。
騎士らしく短く整えられたクラインの金色の髪は、私の薄茶色の髪と同じ素材で出来ていると絶対に思えない。だって最上のシルクのようにしなやかでキラキラ輝いているのだもの。
「違う、絶対違う。近所どころか同村でもないはずよ。存在が違い過ぎる」
「どうした?またなんかしちまったのか?」
「していません。あなたが海ナマズを急に持ち出すからって、クライン?」
よく私の心臓が止まらなかったものだ。
クラインはそれはもう良い笑顔、空中に金粉が舞っているんじゃないかと錯覚するぐらいのキラキラ笑顔を顔に作ったのだ。
「クライン」
私の呼びかけにクラインは口元を動かした。
私の名前を呼ぶように。
「リ」
「ま、まあ!騎士様。聖女様はお仕事がありますから」
「そ、そうですわ。こちらへどうぞ。聖女様には大事なお仕事がありますから」
「いえ、私の職務は聖女様の」
「ええ、ええ。アプリリス様のこれからのお仕事は、私共が離れていてこそなんですのよ。私達がおそばにいてはかえって邪魔になりますわ」
「そうそう。騎士様は今こそお休みにならなければ!」
女官達は再びクラインを囲むや私から引き剥がし、それはもう物凄い勢いで彼女達の仕事場という名のお茶のみ部屋へと引っ張って行ってしまった。
やはり、女官は聖女を守る事が第一であるのだろうか。
そうよね。クラインは私をアプをつけずに呼ぼうとしたみたいだし、いくらなんでも愛称呼びはちょっと親密すぎるわよね。
あら、でも、アプリリスだったら、アプリーやアプル、よね。
クラインは私をリリスって呼ぼうとした?
そうだとしたら、まあ、リリスは物凄い悪女の魔物じゃありませんか。
私の口元はいつのまにやらにへらと笑みを作っており、数分前の苛立ちなんか雪解けのように消えて無くなっていた。
「皆様、私の心の平安の為に心を砕いてくださったこと感謝します」
「聖女様。雨でだめになった苗の代りはどこにありますかねえ」
「苗、な、はっ!」
私ははっと気が付いた。
私がいるのはどこ?
天候の読み間違えのせいで植え付け失敗のやり直しをしなきゃいけなくて、それでその準備のために私は温室前にいたのでは無くて?
今日はこれから守り石事件があろうがなかろうと、二日前の自分の天候読み間違いのせいで植え付け失敗した苗の植え付け直しがあったのではなくて?
「ああああ。苗の植え付けから逃げたかっただけね。あのオババ達は!」
「聖女様、そんで、今日は人が集まらねんで、どうしましょうかね」
「もう!今こそクラインにいて欲しいのに!」
「そんなに俺を求めていたのか?俺はここにいるよ」
後ろからクラインの笑いを含んだ声が聞こえた。
私は振り向いて、今はあの日の温室前では無くて宿屋のベッドの中であったと思い出した。
思い出すしかない。
とろんとした目つきの寝起きの顔に少々小汚くなっているクラインは、夢の中で見ていたクラインの何倍も魅力的に見えたからだ。
「農場の夢を見ていただけよ。苗の植えつけを私一人でやらなきゃだったあの日を思い出す夢だったの」
「ハハハ。守り石事件の日の夢か!それでお前は小煩く歯ぎしりをしてたのか、ギギ、ギギってな」
前言撤回。
魅力なんて無いし、外見だけで中身は単なるデリカシーのない男だったわ。
私はクラインから離れるように寝返りを打った。
けれど、クラインはそんな私に腕を掛け、なんと再び自分に抱き寄せ直した。
「親密すぎるわ。離れましょうよ」
「自分を兄さんと呼ぶ女に、俺がなんかをするわけ無いだろう」
クラインがぶっきらぼうな声で語った内容から、私は夢の内容を全部寝言で言っていたに違いないと恥ずかしくなった。けれど、聖女なのに自分を顧みるどころか、わざわざ自分の恥を教えてくれたクラインを憎たらしく思うだけだ。
「兄さんはいじわるばかり、って、くるしい。強く抱き過ぎ!もう!」
意地悪って言った途端に、クラインがいつものようにふざけるでもなく、無言で、万力のようにして私を抱き締めてきたのだ。
体が大きい人だから本気で怖い。
クラインを兄さん呼びするのは二度としない。禁句にする。
「だから、もーう、離して!」
お読みいただきありがとうございます。
ここで第一章が終わりとなります。
アプリリスの過去を引き出す海ナマズ。
日本近海に生息するゴンズイそのままです。
ギギって呼ばれています。
ミノカサゴみたいに毒を持っている危険な魚で、
毒はたんぱく毒ですので火傷しないように気を付けて熱い湯に患部を入れて解毒するそうです。
でも、すっごく美味しいお魚なんだそうですよ。