聖女におなりあそばされると
クラインは私の右の手首を掴んで私に覆いかぶさっている。
私の手首を机の天板に押し付けているのは、私が彼を殴ろうと文鎮を掴んでいるからだが、私に覆いかぶさるようにして身を乗り出しているのはやり過ぎでは?
だって私は完全にあなたに脅えているのよ。
男性がこんなに大きくて、力が強い、そんな事に初めて気が付いたのだ。
クラインは私が脅えで動けなくなった事を確実に知ったのだろう。彼は私から手を離して身も剥がした。
が、私を労わるどころか謝罪もせずに偉そうに言い放ったのである。
「カラバリの男はみんなこうだ。煽られれば燃え上がる。聖女サマこそ俺の処し方をご存じでいらっしゃったのではないかな」
「私が男の処し方などわかるはずなど無いでしょう。私は聖女ですのよ。処女性を失えば私から神の加護は消えて無くなります。今まではバロウスが全て守って下さったというのに、あなたは守るどころか私を襲うばかりですか!」
「俺を馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。俺があなたを襲う?俺は子供にはまったく興味があるませんよ」
「私は子供ではありません」
「ではやはり恋を知らないまま老年を迎えられた方でございましたか?」
「私はまだ十八です!」
私は叫びながら立ち上がっていた。
そして、自分が叫んだセリフにぞっとして口元を押さえた。
聖女は年齢不詳でいなければいけないのに!
いいえ、いいえ、私が十八歳だったなんて、たった今思い出した事だわ。
そう、忘れていた事を思い出して、瞬間的に計算したのだわ。
私は十歳の時に聖女候補として国に召し上げられ、その五年後に聖女アプリリスを継いで、それから三年が経っているはずだから、と。
「間違いですね。聖女ともあろう方が嘘はいけない」
クラインが笑ったような気がした。いつものように鼻で笑ったのでは無くて、少しだけ気安さを感じてしまうような、そんなクスっだ。
私が聖女らしくない振る舞いをしたから?
そうね。
聖女という職のために神殿と治療院のある敷地から一生出る事は叶わない、そんな身の上を「可哀想」と口にする人達も多くいたわね。
私は自分に与えられた騎士がろくでなしであったどころかきっと心優しい人に違いないと思い直し、数々の無礼を流すつもりで彼に言葉を返していた。
「え、ええ。そうですわね。あなたに乗せられましたわ」
「いやあ、俺の膝にあなたを乗せるには幼すぎますよ、アプリリス様。君はまだ十七歳のはずだ。誕生日はもう二週間先でしょう」
「え?」
私は彼をまじまじと見つめるしかなかった。
私が生きてきた私の記録など、私が前代のアプリリスからアプリリスを継いだ時に全て破棄されてしまったはずでは?
「あなたは私をご存じでしたの?」
クラインは私から目線を逸らした後、なんと、大きく舌打ちをした。
まるで、失敗した、と言っているようにして。
それから彼は私に視線を戻すと、私を小馬鹿にしたようにして口を開いた。
「知っているはず無いじゃないですか。俺が聞いていたアプリリス様は、抱きたくなるいい女という話だった。女を知らない男は、どんなに年を重ねても女を見る目が貧相で困る。実際は苛立っちまうぐらいに痩せっぽちなガキでしかないじゃねえか。ちゃんと飯を食ってのかよ、聖女サマは、あ?」
クラインは再び私の方へと身を乗り出し、私こそ彼から逃げるようにして彼を仰ぎ見ることになった。聖女が身を逸らして人を見上げるなんて。
しかし、私を見つめるクラインの青い目は私を射抜くようであり、私は彼の目から視線を動かせなくなってしまった。
「瞳の中に太陽があるくせに弱々しいな」
私は思わず自分の目を右手で隠していた。
私の目は一応は緑色だけど、緑色の輪郭の中、黄色と赤が花びらみたいな形で瞳孔を囲っているのだ。薄茶色の髪はどこにでもあるものだが、この目だけはどこにでも無いから、私の自慢の一つだった。
だから、聖女でありながらそんな自慢という傲慢を持っていることを気付かれた、そんな恐怖で反射的に隠してしまったのだ。
いいえ。
クラインは私を見透かしている!
そう気が付いたから隠してしまったのよ。
「お返しにさ、あなたの瞳こそ夜空で輝く星のように綺麗ね、ぐらい言おうか」
「え?」
私が再びクラインを見返せば、彼は既に身を起こして私から離れていた。
何て訳が分からない。
気が付けば私は、クラインに握られていた右の手首をそっと左手で掴んでいた。
右手首は痛みどころか赤くもなっていない、とそこで私は初めて気が付いた。
クラインは私を痛めつける気など一切無く、単に私の軽率な行動を咎めたいだけだった?
そうよ。
相手がいくら自分のガーディアンであったとしても、聖騎士は男の人でしか無いのよ。聖女が男の人を呼び出して一対一になるなんて、絶対にしてはいけないことじゃないの。
私はクラインに微笑んでいた。
「あなたのお陰で私は学びました。騎士ジアーナに感謝と祝福を、神様。ええ、まったく私の振る舞いは短慮でございました」
「それだけか?」
「ほかにも私に至らない点がありましたか?」
クラインの眼つきは私を完全に蔑んでいた。
いいえ、彼は怒りを抱いていた?
私は彼の視線に耐えられなくなって、それでも聖女であるという威厳だけは失うまいと必死だった。
私こそ思いっ切り蔑んだ視線をクラインに向けると、彼から視線を外さないまま右手を戸口の方へと閃かせた。
出ていけ、という合図だ。
「本当の名前を失っただけある。聖女は薄っぺらいな」
クラインはこれ以上ない捨て台詞を私に投げつけると、そのまま踵を返して私の執務室から出ていった。
クラインが完全に出ていって扉が閉まった後、彼を殴れなかった文鎮を私は彼だと思って思いっ切り扉に投げつけていた。
「本当の名前?アプリリスを継いだ時に私はアプリリスとなったのよ!意識は違えど私はアプリリス。アプリリス以外の何者でもないのよ!」
叫びながら私の両眼から涙が零れているのは分かっていた。
過去が消された私であるが、私には十歳までは家族がいたはずなのだ。
いいえ、いなかったから、私はこんなに完全に過去を消してしまえたのかしら、と、普段は考えようともしない自分の悲しみに気が付いてしまったから。
私を守ってくれる人のはずなのに、クラインは私を攻撃ばかりする!