リイラの母とクラインと私
アトロフスカは小さな山に石壁を貼り付けて作ったような町だった。
山の天辺にはアトロフスカの領主であるアトロフスカ様のアトロフスカ城が聳え、その城への侵攻を防ぐためか、どこもかしこも坂道な街路は山道を石畳で舗装しただけの外観である。もちろん住民達の住居群、宿屋や店が立ち並ぶところは開けた場所とはなっているが、階級ごとに住む場所が区分けされて振り分けられているかのような印象を受けた。
リイラの母はここでは中流階級にあたるのか、山で見立てると中腹部分となる場所に造成された建物群のある場所に住んでいた。
平地と違って敷地をあまりとれないためかロセアの家は小さかったが、淡い黄色に塗られた壁と茶色の瓦で葺かれた屋根を持つそれは、住み込みの女中として生計を立てていたロセアにとっては夢の家であろうと思った。
クラインがノックをすると、待ち受けていた様に夢の家のドアは開き、そこから痩せて地味な女中が笑顔で顔を出した。
「いらっしゃい。クライン様」
彼女とクラインは一言二言何かを言い交わしていたようだが、私の頭どころか耳にさえ彼らの会話など入って来なかった。リイラの母の家の扉を開けた女中を見た瞬間、私の頭は住み込み女中の母親とリイラの貧しい生活の一片を思い出したからである。
「どうした?」
クラインの促す声にハッと我に返れば、私とクラインは女中の案内でこの家の居間に足を踏み入れるところだった。
ここにリイラの母が待っている。
だがしかし、彼女を一目見た私は、胸に母への思慕が湧くどころか、頭に皮肉な考えしか浮かばなかった。
この家がリイラを聖務局に渡したその報奨金で手に入れたのだとしたら、リイラはとっても親孝行だったのかもしれないわね。
居間にて私達を出迎えたロセアの現在の姿が、神を愚弄するほどにけばけばしく、神が絶対に許さない怠惰と飽食の結果のようにして自分の足先の世話だって出来そうもないぐらいに太って弛んでいたからである。
「ああ、ああ、会いたかったわ。クライン様」
ロセアはクラインと連れだっている私などいないようにして、まるで恋人にするようにクラインに駆け寄って歓待の声を上げた。
押しのけられた女中の姿は、今やロセアの膨張しきった体で見えやしない。
「ああ、あなたは本当にいい男」
ねっちょりとした甘い声は、紅をべったり塗った唇が発するにはぴったりだと思った。頬を上気させてクラインを上目遣いで見つめる彼女の瞼だって、無意味な程にアイシャドーで青く塗られているのも納得できるというものだ。
私はクラインの腕に絡めた腕に力を込めると、背筋を伸ばしてロセアを真っ直ぐに見つめた。
「はじめ――」
「キノ夫人。あなたの千里眼にはいつも驚かされますよ。連絡もなく押しかけた俺なのに、わお、今日も俺の大好きなさくらんぼケーキが焼いてある」
「あら、クライン様はケーキなら何でもお好きなんじゃなくて?」
ロセアの声が変わった。
男にしなだれかかる女性みたいな甘ったるい声ではなくなったのは、クラインの子供っぽい言い方に母親だった部分が反応したから?
「あなたが焼くケーキはどれも好物ってことです」
「まあ嬉しい。私こそクライン様の訪問はいつだって歓迎ですわ。クライン様がレブチア伯爵にお口添え下さったから、こんな素敵な家に私は年金付きで住めるのですもの。いつでも我が家のようにいらっしゃって下さると嬉しいわ」
「母のようなあなたに結婚の報告に来た者としては、それこそ嬉しいお言葉です」
「クライン様。私よりも、まずはレブチア伯爵様から勘当を解かれることでは?」
私は、え、である。
ロセアの外見やら振る舞いがどうとかではなく、彼女の言葉でクラインがレブチア伯爵に勘当された、というところで。
「レブチア伯爵?勘当?領民のあなたに伯爵が感動したじゃなくて、親が子供を勘当するの勘当、よね?えええ?」
クラインは鼻の上に皺を寄せ、今はその話じゃない、を言外で知らせる表情を作って私に見せた。それから彼はロセアに向き直った。
ロセアはこれ見よがしに両手を組んで、いかにもな言葉を神に捧げている。
「ああ神様。放蕩息子は必ずあなたのもとに戻って参ります。クライン様もお父上の元に戻られるように祝福をお願いします。あなたの栄光よ永遠なれ」
「夫人。神に祈るのはそれだけですか?ここでも噂話や首都でのニュースは流れているでしょう。国の一部が聖女を粛清しようと動いています。あなたはそのことに関してご心配はされていないのですか?」
「クライン様。娘は聖女ですのよ。神に選ばれた者です。たとえ断頭台に送られても、それが神のご意思ならば受け入れねばなりません」
私はリイラでなくて良かったと思った。
リイラであったならば、きっと母の言葉に傷ついただろうから。
私はクラインの腕をぎゅっと右手で掴み、彼の腕に額を当てていた。
「ですから、娘は神のご意思に従って神殿におります。ずっとおります。神殿から動くはずなどありません。クライン様、本日お連れ下さったそのお方とどうぞお幸せに。に、二度とバカなことをなさって、お、お父上様を悲しませることがありませんように」
私は顔を上げた。
目の前に立つ女性は、堪えきれない涙を頬に流しながら、私を見つめている。
私の目の前の人は、今まで私が見ていた人では無かった。
私達を出迎えた人こそ、目の前のこの人だった。
女中にも見える質素なドレスを着た痩せた人で、年齢以上に老けていようが顔に化粧一つしていない、私が知っている母だった。
あれは、何だった?
彼女を覆っていた、あの悪意と色欲ばかりのあれは何だったの?
「ロセア。あなたの優しさにはいつも感謝ばかりだよ。そんなあなたの優しさに付け込んで悪いが、今晩ここに泊めてくれないかな。俺が親父に会う気力が湧く様に、それと、俺の妻も甘やかしてほしい。こいつは親がいないんだよ」
ロセアは私に向かって両手を伸ばした。
私は彼女に抱きしめられようと一歩前に踏み出した。
!!
ロセアが再びぶよッとした生き物に変わったのだ。
「ようやくお前を喰える」
私は目の前の化け物を燃やさねば。
反射的に私の中で炎が点火する音がぼうっと鳴った。
「きゃっ」
クラインが私を乱暴に後ろに引っ張ったのだ。
驚いた私がロセアを見返した時、すでにロセアはロセアに戻っていた。
私は彼女を燃やす所だった?
クラインは気が付いていた?
「あれは何?」
「俺と弟がロセアをアトロフスカに閉じ込めた理由。三年前から聖務局と交信できる凄いお化けが彼女に憑いているんだ」
「では今すぐにあの化け物を燃やしちゃった方がって、きゃあ」
「おおっと。女房から腕を外すのを忘れていた。すいませんね。では、改めてどうぞ。陸揚げしたばかりの新鮮な私の妻です」
今度はクラインは私の背中を思いっ切り押し、私はロセアの腕の中だ。
私の腕が感じた彼女の感触は、骨を感じる様な痩せた身体。
私は自分の手が感じる温かみに安心し、さらにしっかりとロセアを抱いた。
きっとロセアとリイラは八年ぶりに抱き合えたのだ。
けれども私達はそれから会話に花を咲かせることも無く、割とあっさりと互いから腕を外してお終いとなった。
「お茶よりもまずはお部屋にいらっしゃいな。お疲れでしょう。お風呂はご自由に、いつでも、お使いくださいな。では、夕飯の時間に楽しくお話しましょう」
私とクラインは互いに目線を交わしていた。
臭かったんだな。
臭かったみたいね。
お読みいただきありがとうございます。
ようやくクライン兄弟とリイラの過去の関係を出せるようになりました。
クラインはレブチア伯爵家の長男で、リイラ親子は伯爵家に奉公していた使用人だったんです。
本拠地のマナーハウスではなく、カラバリのコテージにて、です。
そしてここで告白しますが、実はクラインもクラインジアナというアタカマ砂漠などで必死に生きるコピアポア属のサボテンから名前を取っています。
和名も素敵(中二病)な雷血丸。
そして、レブチア属にもクラインジアナがいるらしく、そっちは緋宝丸という和名の子で、真っ赤な美しい花を咲かせます。
そう、セニリスもサボテンです。翁宝丸。レブチア属セニリス・リラキノ・ロゼア。
赤やオレンジが多い中で、ライラックピンクの可憐な花を咲かせる子です。
それから、今回の話で、以前にクラインが将来の希望として「親父の跡を継ぐ」なんて言っていたこともあり、奴が伯爵になりたい?と首を傾げる事になられたと思います。
カラバリに着いたら奴が何か言うと思いますので、頑張って奴がカラバリに行けるように書いていきたいと思います。
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2023/4/15誤字脱字報告ありがとうございます。
クラインは自分を船と見立てたりする海の男でありますし、アプリリスをここまで自分が運んできたということで、陸揚げと嘯いています。
聖女に後戻りができないように既成事実を作ると騒いでいた男ですが、アプリリスを売春婦扱いにする事は絶対に出来ない人ですので、女郎の初を奪った意味にもなる水揚げではなく二重意味がない陸揚げと言ったのでした。
聖女の住む神殿から引っ張って来た、また、新鮮なという彼の言葉から、水揚げの方がと思われたと思いますが、ここは陸揚げでお願いします。




