短編 ビニール傘
止まない雨の中、出入り口のマットに立った俺と、その男は睨み合っていた。丁度昼頃にコーヒーを買いに行こうと考えていたものの、レジの混雑に巻き込まれたくないという気持ちと雨が弱まらないかなという期待が、なかなか靴を履かせなかった。
最寄りのコンビニまでは二分ほど。そんなに大した距離ではないものの、この前の雨風にやられたことを思い出して、万が一折れたとしてもダメージの少ない、くたびれたビニール傘を手に取り、ドアの鍵を締めた。
予想通りレジの混雑はピークを過ぎており、なんとなくレジ横のひとくち羊羹を買ってしまったものの、目的のコーヒーは十分な量を確保できた。ペットボトル二本ともなると流石に重いかと思ったが、何度も繰り返し運んだ成果か、軽々と持ち上がるようになっていた。ダンベルのように上げ下げしながら自動ドアをくぐったところで、この男と遭遇してしまった訳だ。
傘立てに伸ばした手の延長線上には、先程まで差していた俺の傘がある。横の黒い布のものではなく、向こう端の新品に見えるものでもない。恐らく、敢えて盗まれても諦めきれる範囲であると判断した、そのよれよれの傘を盗ろうとしている。
手は伸ばしたままのポーズで、俺の視線が戻ってくるのを待っている。これでもかと眉間にシワを寄せてやると、相手の眉尻が下がり申し訳無さそうな表情となる。そうだ、そのまま手を引っ込めて、雨の中を濡れて帰るがいいさ。しかし、男はそのまま手を動かす。盗ろうとするのではなく、指をゆっくりと折り曲げて、人差し指だけを立てた状態にした。
これは、あなたのものですか。そう聞きたいのだろう。もし俺のもので無かったとしても人が見ている前で盗む訳には行かないだろう。指から視線を戻し、目を見据えたまま首を縦に振ってみせる。ここでようやく諦めたのか、手を引っ込めようと――いや違う。黒い傘の柄へと手を移動させようとしている。何も持っていない方の手を前へと突き出し、待ったと声に出さず制止する。
無言のままのやりとりは続く。声に出したらその時点で窃盗罪になってしまう、そんな気さえし始めていた。現在も窃盗未遂であるに違いない。ほんの出来心であれば、仮に俺の傘に手を出すのであれば、許してやらないこともない。しかしその傘は俺が入る前からささっていた、おそらく郵送物を出しに来ていた隣のレジのご老人のもののはずだ。長時間かかると見たOL風の女性が、こちらの列に並び直した事からも想像が出来る。店内には店員を除き二人の客。消去法で向こうの新品らしきものは彼女のものとなる。
男は手を引っ込めて、初めて口を開いた。「すみません」と蚊の鳴くような声で絞り出されたその言葉に、ゆっくりと頷いた。
自動ドアがまた開き、中から出てきたご老人が横からスッと俺の傘を掴み、自然な動作で広げた。
「俺の傘!」二人分の男の声が駐車場に響いた。
意外と早くて取り返せませんでした。