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⑼『蜃気楼的、解体文章考察』
⑼『蜃気楼的、解体文章考察』
㈠
降り注ぐ、流星群的蜃気楼において、主に重要且つ、渋滞になるのは、その降り注ぎ方にあるだろう。何れ我々が死の病に、丁度120歳を超えた頃に、罹ったとしても、今、という現在を、しっかり充実させていれば、何の後悔もなく、死へと進むかもしれない。
㈡
しかし、それでもやはり、死とは恐怖のものだ。小説家が書く死など、たかが知れている。本当の死とは、まさに、自己が解体することであろうし、考察などしている余裕などないだろう。それでも、死まで、生を輝かす為、我々は必死になって生きることは、必至である。
㈢
こなれたもの、こなれないもの、しかしどうだろう、我々にもその流星群が、実しやかに、現実味を帯びる、新たなる現象となった場合。その場合、やはり、それらは蜃気楼的であるし、自己解体に置いて、分けの分からない現象が、夢うつつに、現世に現れるだろうことは、想像に難くない。