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⑹『蜃気楼的、解体文章考察』
⑹『蜃気楼的、解体文章考察』
㈠
意識的志向という名のもとにおいて、自己の思想は、完全に発展を繰り返すのであって、それが蜃気楼的であるか、非蜃気楼的であるか、ということは、然程意味を持たないだろう。何れにしても、我々には、目的を達する目標とういものが、人生にはつきものである。
㈡
処が、どうであろう、文章の文体と言ったら、それはおどろおどろしい、破滅理念の真ん中で、水泡をあてにして、堂々と場所を席巻するではないか。こう言った、目的の履き違えというものは、文章を包括している小説には、現実に存在する訳である。
㈢
事情はともかくとして、その解体文章の考察にあたっては、自己を変容させ、到達点まで進化しないと、場当たり的な、所謂不確かに不時着するのであって、それは解体以外の何物でもないと、現に現実が、眼前で諭してくれるのであると、言えるだろう。