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⑴『蜃気楼的、解体文章考察』
⑴『蜃気楼的、解体文章考察』
㈠
いつぞやの俺は、大層弱っていた。まだ陽の上がらない明朝の、原質原理を標榜しつつ、言葉の在り処を敷衍して、美しい文章に魅せられていた。それでも、死を前にして、文章が蜃気楼の如く、消失するのは、何よりも自分が知っていた、というべきか。
㈡
何かを考察することは、それなりに意味のあることだ。自己の歴史が、試される刹那である。つまり、蜃気楼的、解体文章のことだが、何かを何かだと、理解することの、激しい痛覚に似た運命論の、それらが蜃気楼であるという現実的絶望が、絶え間なく、世界に響き渡る。
㈢
小説家は、小説だけ書いていれば良いという訳でもない。時には、思想論、時には、政治論、時には、文学論を書いて、生活の糧にしなければならない。それは、生きる、ということの、端的な源泉になる。我々は、小説家である以上、解体文章が、眼前に立ちはだかるのである。