おとなりさん
わたしたちが引っ越してくるより前からお隣に住んでいた二人は、三觜慧さんと東海林静さんという。同じ職場に勤めているわけでもないのに朝は一緒に出掛けて、夕方になって一緒に帰ってくることがよくある。生涯連れ添うつもりだと静さんは冗談ぽく笑って教えてくれたことがあるけれど、二人の関係について同居人以上のことを慧さんから聞いたことはない。
朝とかにすれ違うと洩れなく声をかけてくれて、アオさんも憎からず思っているらしい。佳き隣人だった。
「おはよう」
朝、ゴミ捨てに出るときに、スーツ姿の慧さんもちょうど家を出るところらしかった。
「おはようございます。
お早いですね」
「少し遠出しようかと」
聞けば、今日のスーツは普段着らしい。大抵は時季に関わらず三つ揃えのスーツ姿で、仕事の日のものと普段用がどう違うのか、わたしには判らない。
「素材とか、デザインの違いだね」
このデザインは慧さんの勤める会社では規定違反なのだと、よく判らないけれど解説してくれる。
「シズはきっと昼まで寝ているから、静かにしておいてもらえると助かるよ」
「アオさんにも伝えておきますね」
頷いて一緒に階段を下りる。
この時間のエレベータは混んでいるし、健康のためにと慧さんはいつも階段を利用していた。この辺り、アオさんと行動が似ている気がするんだ。
「お気をつけて」
階段下にあるゴミ置き場でバス停のほうへ向かう慧さんの背中を見送ってから、わたしは階段を上って部屋に戻る。
玄関のドアを開けると慣れない香りが室内に充満していた。
「おかえりなさい」
アオさんがリビングで迎えてくれる。
「チャイを淹れたのだけれど、飲める?」
朝食はもう済ませているから、食後のティータイム。
普段はコーヒーがメインだけれど、こうしてたまに変わることがある。
「匂い、気になるかな?」
表情に出てしまっていただろうか。
「窓を開けてもいいですか?」
窓に近付くときにはアオさんに許可を取ってからアオさんの見ているところで、と約束しているから尋ねた。頷くのを確認して、半分ほど開くと風が吹き込んでくる。
今日は暖かい。
アオさんがローテーブルに運んできたカップに満たされた乳白色の液体が、香りの根源だった。
少し冷まして飲みやすい温度になっている。
「シズさんが、今日はお休み日らしいですよ」
「なら、昼間は出掛けていようか」
お隣の静さんには数か月に一度程度、安静にする日がある。その日は普段は気にならない些細な物音や振動にも過敏になってしまうから、同居人の慧さんも何かと理由をつけて一人で外出していた。半日程度で普段通りの生活が送れるように回復するらしくて、頃合いを見計らって慧さんも帰宅してくる。
アオさんもそれは把握しているから、刺激を与えないように協力してくれる。
「ちょうどお豆が切れそうだから、一緒に買いに行かない?」
それで、今日はコーヒーにしなかったのかもしれない。
「いつものところですか?」
「前のところへ、久しぶりに顔を見せに行こうか」
ここへ引っ越してくる前、私がまだ大学生だった頃にお世話になっていたお店のことだ。
「お昼も、あのあたりでいただいてきましょうか」
「梅の花の季節かな」
「咲いていますかね」
お隣さんの同居するまでのなれそめは、星空文庫に掲載しています「あの日もいまも(https://slib.net/97348)」にて触れております。