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狂った関係

 集合住宅の薄暗いエレベーターホールで、運悪く最上階にあった一機しかない昇降機が降りてくるのを待っていた。中層階の部屋に住んでいるから、この分だと階段を使った方が早いかもしれない。そう気付いたのはボタンを押した後だった。


「あら、小野さん?」


 声に振り向くと買い物帰りらしい奥さんが隣に並んだ。上の階の、旦那さんと息子さんがいる中年女性。


「久しぶりね~」

「はい、お久しぶりです。ご無沙汰してます」


 普段外出する時にはなんでか人と会わないから、ひと月以上顔を合わせていなかった。


「最近どう?」

「ぼちぼち……ですかね」

「うちは旦那がね~」


 世間話をしながらエレベーターを待っていると、視界の端に何か光った。陽光の差す階段の方へ目をやれば、わたしの同居人が長い足で二段飛ばしに駆け上がっていく姿を捉えることができた。

 エレベーターで奥さんと別れて部屋に入ると、どこも照明はついていなかった。きちんと揃えてある大きめの靴の姿があるから、その使用者も帰宅しているはずだ。


「戻りましたよ」


 一応玄関から声をかけて、わたしの靴も隣に揃えてからリビングを覗くと、壁際のソファには間違えようもない同居人の影があった。


「起きていますよね?」


 隣の寝室に鞄と上着を置いてリビングと繋がる引き戸を開けると、風に驚いた同居人の瞳がまんまるに見開かれて淡い瞳は陽色に光る。引き戸はソファの背側の壁の中に引き込まれる形になっているから、振動もあったかもしれない。


「アオさん」


 ソファの上でクッションと膝を抱く同居人(アオさん)の足元に膝をついて見上げると、細い足に流れて光を弾く髪のむこうに暗い顔が窺えた。

 瞳は色を失っている。


「どうしましたか?」


 いまにも溢れそうな感情を呑み込むようにいちど喉を動かすと、アオさんはそのままわたしの肩に額を載せてくる。背に回された細長い腕は力強くて少し痛い。

 首筋に埋められた顔は表情が窺えない。


「メゴに手を出したら、許さない」


 言葉になり切らなかった吐息が鎖骨にかかる。


「誰にだって、悪いことはされていません」


 わかってる、と耳元で小さく聞こえる。肉の少ない尖った顎が肩に刺さっていた。

 わかってるんだ……と古くなったレコードのように同じ文句を繰り返すうちに、アオさんはかすかに震え出した。肩が濡れて冷たい。背に回された腕や、クッションをお腹のあたりに挟んで密着してくる薄い体はとても暖かい。

 しばらくされるがままに任せていると、アオさんは頭を離した。


「ごめん……」


 うつむいた顔を長い髪がベールのように覆い隠す。


「気が、狂いそうで……」


 細い声は今にも消えそうな命の灯を連想させるけれど、この人は、甲斐なき星が夜を明かすように長生きするだろう予感がする。


「とっくに狂ってますよ」


 アオさんの薄い肩を軽く押して、顔がわたしを向くようにソファへ軽く押し付ける。


「アオさんは、狂ってます」


 わたしの言葉の先は、何度もきいているから覚えてしまっていると思う。

 それでも続ける。何度でも、言い聞かせるように。


「そうでなかったら、わたしみたいなのと生活なんてできないですからね」


 アオさんの苦笑いは、久しぶりだった。


「……君を、僕だけのものにしてしまいたい」


 伸ばしかけて空を彷徨う骨のような手首をつかんで引き寄せる。


「わたしはアオさんのものです」

「僕以外の人間が、君のことを知らなければいいのに」


 手の甲に口づけのフリをすると、アオさんは思い切りわたしの首を腕で締めた。

 愛情表現なのだけれど、非力なわたしは毎度生死の境を彷徨うんだ。


「ごめんよ、僕だけの、愛しいメゴ」


 酸素を求めて心臓の鼓動が早くなる。

 目尻に浮かんだ涙を暖かな手で拭われても、荒い息を吐いて微笑むことしかできないのがもどかしい。


「きょうは先に休んでください」


 家事はいつもこの人がやってくれている。几帳面な性格なのか、溜まっているものはない。

 あとは食事の用意と片付けだけ。

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