その1
1.
目の前で女がよがり声を出している。
男は女に覆いかぶさり、息を切らせながら、女の表情を凝視している。
すぐに扉を閉めて、その場を立ち去らなければいけない。
それはわかっている。
わかっているが、そこにはちょっとした間があった。
だいたい五秒くらい。
興奮したとか、そんなんじゃなくて。
自分の中になにかが入ってきて、それが頭を真っ白にして動かせなくしてる。
そんな感じ。
扉を閉めた。あわてて、
「す、すみません!」
と、どもるフリをつけて。
閉めた扉の前に立ち尽くして、ほんの少しぼーっとしてた。
「八島くん!」
廊下の奥から、男の声が聴こえた。振り向くとハートがあしらわれたエプロン姿を身に着けた体格のいい男が立っていた。
「あ、店長」
「どうしたの?」
やばいな。
「あの、その、えー」
急に話しかけられたのもあるが、なんて言い訳したものかと言葉を探った。
「あ、見ちゃった?」
「あの、その、すみません……」
「うーん、クレームくるかなあ」
店長は眉をしかめて表情を濁らせた。
「で、でも、どうして鍵締めておかないんですかね……それにほら、部屋のマークも空き室になってるし」
「そういうプレイだったのかな?」
「と、言いますと?」
「いつ人が入ってくるかわからないなかで楽しむわけ」
「はあ」
「ほら、君も覚えがあるだろう。部屋で一人やってるときに、母ちゃんがいまにも入ってくるかこないかというスリルを、さ」
「そんな具体的に話さないでくださいよ」
苦笑いをして返した。
「まあ、鍵をかけてなかったお客さんもお客さんだし、そんなに気にしなくていいよ」
「了解っす」
「ところで、きょう八島くんは何時上がり?」
「三時です」
腕のデジタル時計を確認した。日を跨いで十二時ちょうどだった。
「どう? 後で呑みに行かない? どうせ終電まで、時間潰さないといけないでしょ」
「いいっすけど、どこで呑みます?」
「うーん、このあたり意外と深夜まで開いてる呑み屋ないんだよねえ」
「そうですねえ」
「しょうがないね、マスターのところにしようか」
「オーケイです」
「うん、じゃあ残りも頑張ろう! 空き部屋の清掃終わったら、休憩してくれていいから」
店長はそう言って、廊下の奥に消えていった。
店長の背中を見送ると、もう一度、中で絡まり合っている男と女がいる扉に目をやった。
入ったときに視界に飛び込んできた女の表情が頭に浮かぶ。
笑ってたな。
女の表情を振り払って仕事に戻った。
✽ ✽ ✽
モップとバケツを抱えて空き室に入った。
こんどはちゃんと誰もいない文字通りの空き室だった。
行為のあとの抜け殻と汚れ具合をを確認して、とくに念入りに掃除をするポイントのあたりをつける。
しかし、一瞥して変だなと感じた。
部屋が妙にきれいだ。
インターフォンでフロントに確認する。
「お疲れさまです。301ってお客さん使われましたか」
フロントを担当してる久田卓が答える。
「使ってましたよお。さっきまで鍵出ていってましたし。へっ!」
久田はいつも話していて、口の中からくちゅくちゅ唾を弄ぶ音をさせている。
「そうですか」
「どうしたんですかあ、なにかありましたかあ」
「いや、部屋を使った跡がないんで」
部屋には使用済みのコンドームなどの性用品はおろか、ベッドすら乱れていなかった。
「そうですかあ、なにをやってたんでしょうねえ。そういえば、その部屋は可愛い女の子が使ってましたねえ。へっ!」
「え、どうしてわかるんですか」
多分どこのホテルでも同じだと思うが、うちのラブホテルのフロントでは客の顔がわからないように手元で、部屋の鍵だけを渡すようにしている。そういえば、久田はその受け渡しのときに見える手でどんな人か想像するのが楽しいと、以前言っていたことがある。
「おっと、おっと、うっかりですう。へっ!」
なにが、うっかりなのかわからなかったが、久田は続けた。
「休憩のとき、駐車場で見たんですよお。モスグリーンのスカートを履いた女の子でしたあ。へっ! もしかしたら、女の子一人でオナニーしてたのかなあ。きゃあん」
久田が意味の分からない嬌声をあげる。俺はそれに反応せず、
「わかりました」
と返す。インターフォンを切ろうとすると、
「あ、あ、あ、あ、そういえばエアコンのフィルターの掃除ですけどお、やらなくて良いですよお。ぼくがあとでやっときますから」
「え、いいんですか?」
「いいんですう。とにかくエアコンはそっとしておいてくださいぃ。ね、ね、ね、ね」
どうしていいのか聞こうとしたら、ブチッとインターフォンが切れた。
結局、その部屋ではとくに掃除をする必要がなかったので、申し訳程度にモップで床を拭いた。
久田が言ったとおり客がいたのは確かなようだ。ベッドの横のラックに茶封筒が置かれていた。
恐らく、忘れ物だろう。俺は茶封筒を持ってフロントに戻った。
フロントの奥のスタッフルームに裏から入ると、久田が洗濯物を整理していた。久田は身体の大きな男だ。というか、身に着けているシャツはいつもはち切れそうなくらいの肥満体型だ。その巨躯を見るたびに、久田が歩く地面にかかる圧力はどの程度のものなのだろうと俺は疑問に思う。
「おつかれさまですう。エアコンはいじってませんねえ? へっ!」
「ええ、いじってませんよ」
「そうですかあ。それじゃあ、このタオルを畳むのを手伝って下さいぃ。へっ!」
黙って久田の隣に座る。
正直、久田が苦手だった。だから、てきとうに別の作業をしようと思っていたのだが、直接言われては断る術もない。
タオルを畳んでいるその頭上では、天井から吊られたテレビがニュースを伝えていた。
ニュースによると、近年、我が国では、暴行事件が増加しているらしい。なかでも、婦女暴行の割合がここ十年で三倍に増加しているらしい。
「ここ十年。というと、ちょうど戦争が起きた年からですねえ。物騒ですねえ。へっ!」
久田はなにがおかしいのか、二タァと笑っている。
「そういえば、増えてるそうですよお」
「なにが?」
「結婚率ですう。それと、出生率」
「そうなんですか」
「ええ。戦争が起こると人間エロくなるんですよお。やっぱり、人間、死を意識するとそうなるんですよお。ベビーブームってやつですねえ」
「まあ戦争が終わると、復員で人が増えますからね」
それに、政府自ら子作りを奨励している。生後三年までの新生児を持つ家庭はたしか補助の対象だったはずだ。それと、もちろん戦地から帰ってきた帰還兵たちにも。
戦争はきっちりと社会に還元されている。
「そうじゃないんですよお。戦争が人をエロくするんですよお。戦争っていう極限状況そのものが子供を産むんですう。へっ!」
「……そうですか」
必要以上に答えないことにした。
「いやあ、ラッキーですねえ。まさか生きてるうちにベビーブームがやってくるなんて。今なら女の子、やぁらしいから、ヤり放題ですよ。いい時代だなあ」
「久田さんだけは誰とも寝てくれませんよ。押し潰されたらかないませんからね」
俺は軽口に聞こえるように気を遣いながら嫌味を言った。
「そんなあ。いいですよお、ぼくにはこいつがいますからあ」
そういって、久田は自分のスマートフォンを取りだして、アニメのキャラクターがプリントされた保護カバーを見せてきた。アニメのキャラクターはスカートをたくし上げて、自らパンツを晒していた。
「でも、そういう類いも規制されるそうですね」
「うぐ! うぐうぐうぐ。そうなんですよお。僕は、絶対反対ですよお。ええ、それはもう。断固もう。だいたい二次元がなにをするんですか。いいですかあ、二次元の女の子は存在しないんです。存在しないんだから、さっきのニュースの輩たちみたいにならないんです! 彼女たちは、僕たちの妄想なんです! どうして妄想まで規制されなきゃいけないんですか!」
へえ、と俺は言った。興味ないからどうでもいや。
「国家がエロを支配するなんてほんと嫌な時代ですう。へっ!」
「さっき、いい時代って言ってたじゃないですか……」
俺は呆れて話を打ち切り、さっき301を掃除したときに置かれていた茶封筒をエプロンから取りだした。
「なんですかあ、それ」
久田は俺の手からそれを素早く奪い取ると、封筒を開け中身を確認した。勝手に見てよいのだろうか?
「データディスクですね。うへー、うへー、うへー、エロいやつだあ」
久田が嬉しそうに言って机の上のデスクトップにディスクを挿入しようとする。俺は慌てて久田から、円盤を奪い返した。
「あ、なにするんですかあ!」
「ダメです、久田さん。こういうのは勝手に見ちゃ」
「ええ、そんなあ。かてぇことを言いなさんな。だんなあ、こんな楽しみもなければやっとられませんぜえ」
久田はふざけた口調で誤魔化したが、断固主張した。
「ダメです!」
「いやあ、そこをなんとか。最近は行政指導の規制やら何のせいやら知りませんがエロビデオ自体が減ってきて、しかも素人モノを素人が撮ったものとかマジで良い値段がするんですよお」
「久田さんは、二次元でいいんでしょう?」
「だから、高く売れるんですよお」
「非合法ですよ、それは」
「だから、高く売れる」
そういえば、以前から疑問に思っていたが、久田はアニメのグッズやら、パソコンのパーツやらを随分持っているそうだがその資金はどこから出てくるのだろう。久田がここ以外で働いているという話も聞かない。やはり非合法のDVDを売っているのか。
「貸してください。あとで、原本はあげますから!」
コピーするつもりらしい。
「ダメです! ぜーったいダメ!」
俺はそういってディスクを自分の鞄にしまった。あとで、店長と呑みに行くときに渡そう。
「もういいですう! 腹立ったからそこらへんの女の子を襲ってやるんです!」
ほんとに最低だ、こいつは、と俺は思った。
✽ ✽ ✽
三時になった。勤務交代で代わりの人間がやって来た。
退勤のカードをきって、店長を待っていようと思ったが、店長は書類の作成があまり進んでいないみたいで、先に行っておいて、と俺に言った。久田といっしょに居るのも嫌なのでお言葉に甘えて、さきにマスターの店に行っておくことにする。
うちのホテルから、マスターの店までだいたい十分ほどだろうか。
夜道を歩く。
街燈の灯りはきれかけていて、ときおり、ばちっ……ばち……と音を立てている。
久田と見たニュースが何気なく思い出された。
婦女暴行。
こんな暗い道だと確かに危ないよな。
戦争が人をエロくする。
戦争っていう極限状況そのものが子供を産む。
どういう意味なんだろ。
ぼんやり歩いていたら、いつの間にかマスターの店にたどり着いた。入り口の扉にネオンで彩られた《FRIEDEN》という文字が目に入った。
「いらっしゃい」
バーカウンターのなかに立つ、タキシードにブラックタイを身に着けた壮年の男性が声をかけてくれる。
マスターだ。
「八島じゃないか。まだ学校は始まってなかったのかい」
「うん。ちょうど来週の月曜からだよ」
俺はそう答えながらカウンターに腰をおろした。
「あとで、店長も来るって」
「そうかい」
マスターは口許の笑みを緩めず答えた。
マスターはいまでこそこんな風にのんびりとバーをやっているけど、十年前のあの戦争、つまり南方諸島独立紛争に従軍したこともある元自衛官だ。髪の毛が白髪で、随分と老けて見えるけど、じつはまだ四十代らしい。肉体の方もいまだ衰えていないらしく、そのタキシードに隠れて見えないけど、実はその下の身体は相当な筋肉質だ。以前、酔っぱらって態度が悪くなった客を追い払うところを見たことがあるが、文字通り背広の首根っこを捕まえてつまみ出してしまった。それになにより、その鍛えられた肉体というか、やはり元軍人という来歴からくるのかわからないが、なんというか全身に迫力があるのである。
「きょうはあんまりお客さんいないね」
というか、《FRIEDEN》にはいつもそんなに人がいない気がする。経営は大丈夫なんだろうか、勝手ながら心配してしまう。
「生憎だね。それより、ちゃんと言われたやつはこなしてるかい」
「やってる、やってる」
俺が二年前に進学のために家を出てまだこの街の右も左もわからない頃、なれない一人暮らしを世話してくれたのはマスターだった。もっと率直に言うと、この街にきた頃は――いまでもそうかもしれないが――田舎者でなかなか大学にも生活にもなじめなかった。その頃ずっとここ《FRIEDEN》に通ってマスターには相手をしてもらっていたのだ。進学したばかりの頃はまだお酒も飲めなかったけど、いまではこうしてビールの泡を口ひげにしてふざけられるようになった。マスターは大学に入学した俺にいつも「頭だけじゃなくて身体も使って考えろ」と「練習問題」を出してくれた。というか半強制的に厳命された。「練習問題」というのは、要は、肉体鍛錬のための筋トレメニューなのだけど、元自衛隊仕込みのそれは確かに効き目があったみたいで、高校時代とくにこれといって運動もしてなかったひょろひょろの俺も少しずつ鍛えられていった。それでとくに自信がついたとか、友だちが特別できるようになったとかいうわけではないけれど、少なくともオドオドすることはなくなったように思う。
扉のベルが揺れ、金属性の涼しい音が響いた。お客が一人入ってきたようだ。
「まだやってますか?」
店長かな、と思って俺は入ってきた男を見たが、違った。
優しくて柔和そうな男だった。男は清涼感のある感じに微笑みながら、俺とマスターに目をやった。髪をセンターでわけて、襟足をきっちり整えている。どことなく品のよさそうな感じがしたが、着ているものもパリッとしていて質の良い印象を受ける。首に着けているネクタイも嫌味な感じではない。なんというかモテそうだな、と俺は思った。
「やってるよ。だいたい始発が出るまでかな」
マスターが答える。
「そうですか。それじゃあ一杯貰おうかな」
男は言った。しかし男の懐から電子音が鳴った。着信音だな、と俺はすぐに気づく。彼は取りだして画面を一瞥した。彼は画面を見て、笑った。
爽やかな男の表情が歪んでほんの少し醜く見えた。
「いや、ごめんなさい。やっぱり行くところができたので失礼します」
そういって男はまたベルを揺らして出ていった。
男の背中を見送ると、俺はマスターに向き直って、
「初めてのお客さん?」
と訊くと、マスターは、
「いや、あの人はもっと早い時間にたまに来るよ。でも、こんな夜遅くは珍しいね」
と言った。
「ふーん」
✽
針が回転する。そのたびに時計は一定のリズムのもと時間の流れを知らせてくる。
四時を回った。
店長が来たらもう少し賑やかに呑めるのだけど、生憎、店長はまだ来ていなかった。俺とマスターはとくに話さずにいた。俺はお酒を転がして、マスターはなんどもなんどもグラスを拭いていた。
静かな夜だった。
少なくとも、いまここは。
「ねえ、マスター」
唐突に話しかけた。
「なんだい?」
「『戦争っていう極限状況そのものが子供を産む』って言葉の意味わかる?」
ときどきこうしてマスターに戦争のことについて訊く。
でも、マスターはけっしてなにも応えてくれない。
戦争そのものに対する一般論も、自分の従軍経験も。
ただ、いつも黙って俺の目を見つめてくる。
マスターは言った。
「お母さんの墓参りは夏休み行ってきた?」
マスターのその質問に間を置く。
手元のグラスに目を落とす。
そして、マスターのほうに顔を向けて、
「うん、行ってきたよ」
と告げる。
「そうか。それはよかった」
マスターは満足そうに笑うと、最後に一言付け加えた。
「戦争は良くないとか仕方ないとかいろいろあるけど、わかりゃしないよ。戦争は行ってみなきゃわからない」
2.
結局、店長は来なかった。始発の時間になったので、マスターにまた来るよ、と言って、店を出て電車に乗り帰宅した。アパートの部屋の扉の鍵を回して、自分の部屋に戻った。ばたっと、ベッドに倒れ込んだ。
結局店長にお客の忘れ物渡しそびれたな。起き上がって、鞄からディスクを取りだしてみた。
ディスクを眺めた。
表面には、なにも印字されておらず、傷もなく綺麗なディスクだった。
昨晩うっかり入ってしまったホテルの男女を思い出す。
女の汗ばんだ笑顔が思い浮かぶ。
ディスクを再び見つめる。
俺は身体の、とくに下腹部が火照ってくるのを感じ、疎ましく思う。
いや、ダメダメ。さすがにそれはダメだ。と、ディスクに対する気持ちを振り切った。ディスクを机に置くと、再びベッドに倒れ込み眠った。
✽ ✽ ✽
「透、透、ねえ起きて、透、たのしいことしよ?」
俺はなにやら音がしそうな勢いで瞼を開ける。目前に幼い表情があった。
「なんだ、春希か」
壁の時計を見て時刻を確認して、再び目を閉じた。
「入ってくるなら、ノックしてくれよ」
「不用心。ちゃんと、鍵をかけない透が悪いでーす。ほんと、最近物騒なんだから用心しなきゃダメ!」
少女は指でめっとバッテンを作った。
大学の後輩の井戸川春希だった。
「おまえこそ、気をつけろよ。そんな幼稚園みたいなちみっこいのがうろちょろしてたら、人さらいにあっちゃうぞ。いや、幼稚園児だから、補導されるかもしれん」
俺はベッドにうつ伏せになりながら、答える。
「むう。なにその言いかたー。あっ、人さらいって、透の気持ちに可愛いあたしをさらいたい気持ちがあるのね。やだ、不審者」
「煮て食っちまうぞ」
「ああ、そんな。ごめんなさい、あたしには、優しい優しいボーイフレンドがいるのでした。残念でした」
「はいはい。仲睦まじきは良き哉、実篤。だよ。それでそんな素敵なボーイフレンドがいる幼稚園児が不審者の家に何のようだ?」
「DVD! 貸してくれるんでしょ! 今日の夜に菊亜と観るんだから!」
キンキンとうるさいやつだ。枕をひっかぶって防音する。
「んー、机にあるだろ」
「どれ?」
「だから、机」
「ああ、これね。ちゃんと録画しておいてくれたんでしょうね。『解決、怪傑、魁傑』」
「録っといたよ。ていうか自分の家で録れよ」
そもそも、その『解決、怪傑、魁傑』ってなに映画だ? ミステリー? ホラー? アクション? わからん。
「レコーダー壊れてんの!」
だったら、観れないんじゃ……。
「もうイイです。あたしはお昼まで寝てるような社会生活不適合者はほっといて、優しい彼氏のところに戻ります」
「はいはい、バイバイ」
枕を被ったまますげなく手を振ると、春希は、
「むー」
と不満げな声を出した。
「なんだよ?」
「べつに?」
そうして、ふん、と言って、部屋から出ていった。
やっとうるさいのが去った。俺は再び惰眠の世界に戻ろうとする。
しかし、またバタンと音がして、目をやると春希が立っていた。
「なんだよ、忘れ物か? 幼稚園児」
「大学、来週からだからね!」
「知ってるよ」
わざわざそれを言いに戻ってきたのか、暇なやつだ。
「ちゃんと来るのよ!」
そう怒鳴って、今度こそ出ていった。
まったく。
しかし、またバタンっと音がした。
おい、なんだよ。ほんとに、ひねりのない嫌がらせだな。
「なんだ?」
「戸締り!」
そういって、乱暴に三度扉を閉めた。
こんど入って来たら、水鉄砲を撃ってやろう、と俺は洗面台から透明なプラスチックの銃を取りだした。そういや、これは春希から貰ったんだったな。誕生日プレゼントとか言ってたな……。
百円かよ。
水をためて、ベッドの前で銃撃体制を取っていたが春希は戻ってこなかった。
十分くらいじーっと扉を見つめていたら虚しくなってきた。ちょっと寂しい。
俺はベッドにまた倒れ込んだ。
✽
あ、あ、ああああ! 失策に気づいたのは再び起き出した夜だった。
俺は目の前の事実を受け入れたくなくて頭を抱えて机の上から目をそらそうとした。
しかし、机の引き出しには、『解決、怪傑、魁傑』とマジックで俺が大書したDVDが無造作に置かれていた。
あの、あほ! 間違えてもっていきやがったああああ。
どうやら、春希は俺が録画した映画ではなく、きのうホテルで俺が拾ったディスクをもっていってしまったらしい。
俺の頭に久田のいやらしい下品な笑顔が浮かぶ。
ディスクの中身は確認してないが、ラブホテルに置いてあった代物だ。
そんなもの……。
そんなもの十中八九あの幼稚園児がボーイフレンドといっしょに観て良いもののはずがない!
あああああ、しまったあああああ。
俺は慌てて春希にメールを送る。
「『おい、幼稚園児! いま、どこにいる?』」
すぐに返事が返ってきた。
「『家だよ~。菊亜、コンビニ行ってるから、帰って来たらDVD観るよん』」
修羅場。
俺には付き合いたての幸せいっぱいのカップルが、誤ってどこかの淫靡なおっさんとおばさんが妖艶に睦みあっているDVDを見て気まずくなる光景がすぐに思い浮かんだ。
それは良くない。大変よろしくない。
あの幼稚園児と人畜無害でいつもいつもヘラヘラしているボーイフレンドのほのぼのカップルがそんな闇に触れちゃダメなんだ!
どうしよう、どうしよう!
また、メールが来た。
「『やっぱりなんか、DVD観れない』」
そうだ! 確か春希の家のレコーダーは壊れている。
俺はすぐさまカーテンを開いて夜空の星に感謝した。
「『あ、菊亜帰ってきた~。素敵なボーイフレンドに直してもらいます(笑)』」
(驚)。
俺はカーテンをすぐに閉めて、煌めく星々を呪った。
菊亜は大学でも首席を取るくらいの男だ。日ごろ大学には通ってんのか、実験器具を壊しに行ってるのかわからないような俺や幼稚園児と違って、なんだかよくわからないマシーンをガリガリ使って、おまけに直して、そのうえ、新しいマシーンまで開発して、あまつさえ特許さえとって研究に打ち込んでしまう博学多才なハイスペックマシーン野郎だ。
おまけに、情に篤く、優しくて人畜無害ときてる。そんな奴だ。
やつなら……。菊亜なら……。
直してしまう。レコーダーなど……。すぐに!
それもちょちょいのちょいと!
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
俺は再び頭を抱えた。どうしよう!
しかし、そこはそれ。俺はすぐさま、立ち上がり決意した。
取り返すのだ!
ラブホテル従業員としての責務、そしてこの世の優しいほわほわの象徴である幼稚園児と人畜無害のハイスペックマシーンのカップルの平和、俺は守ってみせる!
ディスクを取りかえすのだ!
俺はスマートフォンを手に取ると、煌めく夜空の星の下(嘘。ほんとうは星なんて全然見えない)全力で走った。
待ってろ! お前たちの愛は俺が守る!
✽
「DVD? うん、観てみたよ。ていうか、なにそんなに焦ってるの?」
汗だくになって、はあはあ言いながら玄関に立つ俺を見て春希はしれっと言った。
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
俺は膝から崩れ落ちた。ああ、観てしまわれたか……。
「てゆうか、映ってなかったじゃん。録画できてないし! 楽しみにしてたのにー」
そういって、春希は頬を膨らませ、ポコポコと殴りつけてくる。
「え、映ってなかった?」
「うん、なにも。そもそもこれ民生用のDVD-Rじゃないね。専門のプロテクトもかけてあるし、容量も馬鹿みたいに大きいから、これは専門の人が使う業務用だね」
奥から声がした。菊亜の声だった。
俺はとくに了承も得ずに、春希の部屋にあがりこんだ。
奥にブルゾンのセーターを着た男がパソコンの前のアームチェアにもたれていた。
男はメタルフレームの眼鏡を持ち上げて俺を見上げた。よう。と俺に手を挙げた。
彼こそが、井戸川春希こと幼稚園児の心優しきボーイフレンド菊亜安秀だった。
✽
菊亜と俺は学部の最初の一年が終わるころに知り合った。菊亜は大学に入学した当初から俺と違って有名人だった。それは菊亜がなによりハンサムで恐ろしいくらいに勉学に励み、その知的なる剛腕を振るっていたというだけでなく、こいつの苗字もまたとりもなおさずその理由に一躍買っていた。
株式会社立菊亜日光大学生体情報学部神経生理学科理工学域三年菊亜安秀。
俺たちが通う菊亜日光大学は世界でも有数のコングロマリットである菊亜日光グループが経営する学校法人だ。近年では大企業が自社の人材の育成、確保を目的として大学を経営することが増えてきており、たいして珍しいことではないが、とはいえ菊亜日光大学は、そんな株式会社立という収まりの悪い言葉が頭につく大学としては我が国では二校目という比較的に株式会社立大学のなかでは古参に位置する方だった。
そもそも菊亜日光グループはもともと国内では戦前から続く老舗の医薬品メーカーとして有名だったが、国際的な立ち位置としてはさほど知名度はなかった。それが二〇一五年ほどよりの世界的な関税障壁取り払いの動きとその五年後に起きた南方諸島独立紛争での医薬品特需と国際的なスポーツ大会での最大のスポンサーとしての資金提供により一躍資本と知名度を同時に得て急成長。紛争そのものは比較的短期間で終結したが、菊亜日光グループはこれを見越して、医薬品事業からさらなる事業展開を起こし、これに成功。紛争以後の十年に至る現在までに、医薬品はもちろんのこと食品、エネルギー、果ては軍需品にまで事業を拡げまさしく破竹の勢いでの急成長を遂げた。今となっては世界に冠する大企業として君臨するに至っており、なかでもスポーツドリンクを始めとする菊亜ブランドのドリンク商品は世界中の人が愛飲しているという。戦争とスポーツ大会が同時に行われた2020年は我が国では陰に菊亜日光の年とも言われている。
ちなみに、これはしばしば囁かれることだが、そもそも紛争そのものがじつは菊亜日光の多大な意向のもと行われたのではないかという噂もある。ことの真偽は定かではないが、戦争とスポーツ大会以後のあまりの菊亜日光グループの躍進をみればその噂もむべなるかなというところは確かにあるのである。
で、この菊亜安秀という男はその菊亜日光医薬品を菊亜日光グループとして一代で大躍進させた菊亜日光グループ最高経営者の息子なのである。
「これは映像データじゃなくて、アプリケーションソフトが入ってるね」
菊亜はデスクトップで開いたディスクのファイルを見ながら言った。
ちなみにさっき言っていた専門のプロテクトとやらは、専門の菊亜くんがパスワードを迂回してさっさと突破してしまった。恐ろしいね、ハイスペックマシーン、菊亜くん。超字余り。
「しかも、これ普通の人が使うようなアプリケーションじゃないよ。医療用の神経電位パターンを読み取る装置とセットにして使うやつだ」
「へえ」
まあラブホテルなんて誰が使っても良いが、そんなお客がいたのかと俺は単純に関心する。
「うちの大学にある装置でも起動できるやつがあったはずだけど……」
「だけど?」
「なんか普通のやつと違うみたいだね。プログラムのデータフローが市場に出回ってる業務用電位測定ソフトとちょっと違う」
「つまり?」
菊亜は答えずに、モニターから目線を外し俺の方へ体を向ける。
「来週学校始まったら、うちの研究室に来いよ、試してみよう」
俺は勝手にお客のものをいじってもよいものなのかと自問したが、まあしかし、久田が考えていたような下世話なものではないようだ。
「わかった」
俺は菊亜の提案にのった。
「で、このあとどうするの? 」
うしろから春希が言った。DVDも観れないし、とまた膨れた。
「じゃあ、これ観るか」
と、菊亜はもう一枚違うDVDを取りだした。
「なにそれ」
「『解決、怪傑、魁傑 解決篇 エピソード零』だ」
俺が感じた、なにそれ、という疑問のことばは微塵も解決しなかった。
「わあい。やったあ」
幼稚園児は飛び跳ねた。
「透も観るだろ? 人数も増えたし、もう一回コンビニ行って酒を買ってくるよ」
「あ、あたしもいくー」
「あ、じゃあ俺も……」
「ダメです! 透はお留守番」
「なんで?」
「あたし達、ラブラブだからですー」
なにそれ……。
春希は、「ねー」と菊亜に笑いかけた。菊亜も「ねー」と返した。そして二人は俺を見て少しだけ、フッて感じに笑った。フッて感じに。なんだよそれ。
結局、そのあと俺たちはDVDを朝まで観た。
DVDは『解決、怪傑、魁傑 解決篇 エピソードマイナス一』『解決、怪傑、魁傑 解決篇 エピソードマイナス二』まであった。
3.
その日、アルバイトの休憩時間にホテルを抜けだして、近くの公園に行っていた。
何の気もない、いつものようにただ外の空気を吸いたくて出たのだった。
その日は公園に先客が一人いた。
綺麗な女の子だった。
その女の子は暗い深夜の公園の街燈の下で夜空を見上げていた。
何を見ているのだろうと思い、その女の子の目線を追って真上を見上げる。
星でも探しているのだろうか。
しかし、生憎こんな都会では夜の星は街の光のせいで見ることは叶わなかった。
色の白い女の子だった。
街燈に照らされてその女の子の白さは暗闇の中でもとくに際立って見えた。
邪魔しちゃ悪いと思い公園から立ち去ろうと思った。しかし、
「あの……」
と、女の子は声をかけてきた。どうやら、一方的に眺めていたつもりが向こうはそれに気づいていたらしい。
気まずさをどう隠したらいいものかと考えてなにも返せずにいると、女の子は、
「これ、飲んでくれませんか」
と、手持ちの缶の烏龍茶を目前に掲げて笑った。
急な申し出に戸惑い、受け取るか短い間迷ったが、結局礼を言って缶を受け取った。
手近なブランコに腰かけると缶のプルタブを引き起こした。
一口くちをつけると、息を吐いて一息ついた。
烏龍茶の冷たさが心地よかった。
女の子は隣のブランコに腰かけるとそんなこちらを見て満足気だった。
「あの……」
と、声をかけようとすると、女の子は、
「間違えて買っちゃたんです。烏龍茶苦手なのに」
「あ、そうですか」
しばし沈黙。
相変わらず彼女は黙って缶を飲む俺を見つめていた。
ポケットから煙草を一本取りだして吸う。
独特のじんわりとした感覚が血液に流れる。
気まずさに耐えかねて口を開く。
「あの、バイトの休憩中とかですか」
「あなたみたいに?」
彼女は髪をかき分けながら言った。
白い耳元があらわれて俺は少し胸を弾ませてしまった。
「どうしてわかるんですか」
「何を?」
「いや、俺がアルバイト中だって」
「あら、違ったかしら。もしかして、深夜に女の子を悪戯しちゃう悪い人かしら」
「いや、正解です。もちろんアルバイト中です」
彼女はなにがおかしいのか楽しそうに笑った。
「そうね。テレパシーかな?」
彼女はお道化てそう言ったが、すぐに合点がいった。
そういえば、制服を着替えてなかったじゃないか。
アルバイト中なんて服を見れば一発でわかる。
対称に俺は彼女の服装を確認した。
彼女はブルーのデニムジャケットに、スカートといういでたちだった。デニムの襟元からは白いシルクのシャツが見えた。そのシルクのシャツが彼女に対してちょっとした上品さをもたらしていた。
再び沈黙。
また黙って缶の烏龍茶をひたすら飲む。
いったい何を話せばよいやら……。頭の中であーだこーだしてるうちに時間切れとなった。時計の針はそろそろ休憩時間の終わりをつげようとしていた。
立ち上がって、お茶のお礼を言うと俺は彼女を見つめた。決心した。
一つだけどうしても聞いておかなければならないことがある。
「あの……。良かったらメールアドレスを教えてくれませんか」
俺はこのときどんな表情をしていたろう。真っ赤な顔ならまだいいが、いやらしいおっさんみたいな顔をしてなかったろうか。
彼女は呆気にとられたように真顔で俺の表情をまじまじ見つめ、そのあとまた再び笑った。
その表情を見て安堵した。嘲笑や侮蔑の笑いではないと思った。
「大丈夫、また逢えるよ」
彼女は言った。
どういう意味だろう。彼女は毎日この公園に来ているのだろうか。
「だから、メールアドレスはまた今度ね」
いや、どうやらやんわり断れてしまったらしい。それもそうか。深夜に出会った不審なアルバイトの休憩中の男にメールアドレスなんて、こんな物騒な時代に教えるわけがない。
ちょっぴりしょんぼりして顔を俯けると、ふいに口をふさがれた。
何が起こったのかよくわからなかった。
それはあまりに突然でその感覚を憶えておくことすら許されないほど短い時間だった。
いや、あまりのことに頭が麻痺してしまったのかもしれない。
彼女は目を閉じて口許に自分の口を合わせていた。
そして、口を離すと、それじゃあね、と言って笑って手を振った。
何も言えず、ただ固まって前を見つめていた。
彼女が公園を出ていく間際になってようやく声が戻ってきて、
「あの! せめて名前だけでも」
西部劇かよ。自分でもなんだかばかばかしく思えたセリフだった。
そのときになって、ようやく彼女はずっと笑っていた表情に変化を見せた。
それは、先ほどまでと打って変わってどこか寂しさを感じさせる表情だった。深く深く海の底に沈んでいってしまいそうな表情だった。
「いまはまだ名前は無いわ」
そう言って、また無理にさっきまでの笑顔に戻して、公園を去っていた。
一人になった公園で立ちすくむ。
狐につままれたような気分だった。
これは俺が見ているあほな夢なんじゃないかって気がしていた。
しかし、口許に触れると、それを認めたくないような気がしてきた。
ポケットの中のスマートフォンを握り締めた。
4.
夏休みが明けた。
初日の授業を早速サボって、菊亜の所属する研究室を訪ねていた。
「へええ。なんというか不思議なこともあるもんだな」
菊亜は心底関心したように俺の話を聞いた。もちろん、先日の深夜に公園で出会った女の子についてである。
「で、その子とはまだあってないのか」
「うん。やっぱり体良く断られたんだろうな」
学校が始まるまでに何度かあの公園を訪れてみたが、彼女の姿はなかった。
「まあ、そう落ち込むなって。少なくとも、キスできたんだからいいじゃないか」
ちなみにこのことは春希には話していない。そんな話をしたら、あの幼稚園児はキモイ! と一言切り捨てるだろう。
「彼女がそんな欲しいなら……。そうだ、久々に《TACTIQUE》に行ってみるか」
《TACTIQUE》とは、大学から一駅離れたところにあるクラブである。今日は夏休み明けということもあり、お客は多そうだなと思った。
「マスターのところは?」
何の気なしに、もう一つ対案を出してみる。しかし、菊亜は、
「いや、マスターのところは夏休み結構通ったから……」
と退ける。
「へえ、そうなのか」
菊亜がマスターのところに行くときは、だいたい、いつも俺といっしょだった。しかし、俺が夏休みに帰省している間にそんなにも通っていたなんて思いもよらなかった。
「そうだな、今日は学校も始まったし《TACTIQUE》に遊びにいくか」
「大学始まったから、遊びに行くってのも変な話だけど」
と、菊亜はぼそっと呟いた。俺はそれに対して、そこはそれ、これはこれは、と言ってとぼけた。
「それで、これなんだけど」
菊亜は俺が訪ねてきた要件を切りだす。
菊亜は俺に向かって先日よりのデータディスクを示す。結局、ディスクを回収してから一週間、持ち主から店に連絡はなかった。まあ、ラブホテルでの忘れ物なんて確かに名乗りにくいのかもしれない。久田のように、いかがわしい想像もする奴もいることだし。もっとも、菊亜によればこのディスクの内容はそのような猥雑なものではないらしい。
「前にも言ったけど、これは医療用のソフトウェアだ。そこにある生体情報検査装置を使うときに用いるんだ」
菊亜は丁度真横にある装置を指して言った。装置はちょっとした作業机のようなもので、丁度、健康診断のときにみかけるような(というかそれに類するたぐいのものだろう)ものだった。台の上にのせられたモニターの横にはちょっとしたラジオのような機器がありそこから横に頭部に装着するためのヘッドギアへとケーブルが伸びていた。
「生体情報検査装置ってことは人体を調べるのか?」
「そう。これは主に脳波を測定するためのものだ。お前も知っていると思うけど、人間の人体はちょっとした通電メディアだ。人体を構成する細胞間では、イオンチャンネルに基づいた細胞間物質の交換が常時行われている。この細胞間物質の交換を幇助するイオンには陽イオンと陰イオンがあってだいたい人体においては陰イオンが基本状態だ。ここに人体に対し何らかの刺激が与えられ陽イオンが発生する。その陽イオンがある一定の閾値を超えると人体の静止電位と反応し脱分極がおこり活動電位になる。ここまでは知ってるな」
「うん」
もちろん、知らない。
「この人体の通電としての仕組みをもっとも利用しているのが、ある意味では電流回路の集積ともいえる神経組織の塊である中枢神経系の脳だ。脳を構成する神経細胞は樹状突起と軸索から構成されているがこの神経細胞同士の間には僅かに間隙がありシナプスと呼ばれる。そのシナプス間を神経伝達物質が移動しタンパク質をレセプターに届け化学反応を起こす。このときに発生するのがさっき話したイオン反応で、シナプス前細胞とシナプス後細胞の間によるトランスポータータンパク質が……」
おかしいな、俺と菊亜は同じ学域のはずなのだが。俺は一体どうやって入学したんだろう。いや、そもそも俺と菊亜は恐らく運命的に……。運命とは……。果たして俺の人生とは……。菊亜との学力の差を感じ、俺が真剣に人生について考察しているなか菊亜は講釈を続ける。
――ちなみにだが、神経伝達物質の実験においては毒性物質が使われることが多い。というのも、神経伝達のメカニズムを解明する試薬として用いられてきた生理活性物質として例が多いのが毒性物質で、有名なのがカンナビナノド類やアフラトキシン等で……
俺は存在とはなにかにまで思索を深めつつあった。
「そして、当然だが人間が感じる感覚あるいは情動といったものもこの神経電位による作用と言っても良いのかもしれない。お前が見るもの、聞くもの、触るもの、嗅ぐもの、味わうもの、それらの化学情報が一種の電流の信号に変換され脳器官を刺激し、お前の世界を形作る。いや、それだけではない。お前が考えることやお前が日々話す言葉、それらですら神経の集積たる脳器官という電流回路が発生させる電気反応だ。そうだ、人間とは電気回路を所有し、その装置が作動するひとつの化学反応として発生した電流反応なのだ。そうすると、俺たちの存在とは……」
そこまで行って菊亜は急に黙りこくった。
なにやら、菊亜まで思索にふけりはじめたようだ。
二人で思索に耽っていると、菊亜は俺の真剣な表情に気づき、
「つまり、脳には電流が流れていて、これはそれを測定するための装置です」
恐ろしくあほなまとめ方をされてスタート地点まで戻ってきた。ごめんね、菊亜くん。今度の試験も頼むよ……。ちなみに菊亜の思索は知らないが、俺の思索は今日の昼に摂取すべきは如何なる存在物かという地点にまで到達していた。
「あとでカレーでも食べに行くか……」
菊亜は悲しい表情で(というか情けない表情で)俺に言った。どうやら俺の思索は菊亜と同調したらしい。
「まあ、だからこのディスクにはその脳波測定のためのアプリケーションが入っているんだけど、ちょっと他とは違うようだ」
「と、言いますと?」
「測定の精度が流通しているものより明らかに高い。それにデータ構造もおかしいし、なによりもファイルサイズが嘘みたいに大きい。こんなの構造として実装されているのは普通アプリケーションを構成するプログラミング言語くらいでせいぜい500キロバイトも有れば十分だ。でも、このディスクはそんなもんじゃない。もっと馬鹿みたいに大きい」
「ふむ」
「どうも、プログラミング構造のなかにアプリケーションソフトを構成する以外にもっと違うなんらかのデータ構造が隠されてるみたいなんだけど、生憎プログラムは文字なんでね。実際に出力してみないとわからない」
「で、出力は?」
オウムみたいに返してる自分の悲しさをグッとこらえて訊く。
「出てこない。まあ、基本が脳波測定プログラムだから当然だけど、画像でも、映像でも、音声でも出てこない」
菊亜はその後、キーボードをガチャガチャ操作し、画面にならぶ文字列に対して操作を加えた。
「やっぱり、このデータ構造はソフトウェアの起動とともに現れるようにセットされてる。でも、なんでわざわざ脳波測定を併せて行う必要があるんだ?」
菊亜はそのあともぶつぶつと独り言を続けた。そして、シートに深くもたれ込み、
「ああ、もうわからんな。いいや、試してみるか」
と、俺にヘッドギアを渡した。
「え、大丈夫かよ」
俺は訝しんで菊亜の表情を伺った。
「まあ、脳波測定だから。健康診断と思って……」
ヘッドギアを見てしばし躊躇ったが、もとはといえば俺が持ち込んだものだ、ここは一つ試してみるか、とヘッドギアを受け取り頭に被った。
「それじゃあ、行くぞ」
ヘッドギアを被り終えると、菊亜はアプリケーションソフトを立ち上げた。
菊亜の前のデスクトップのモニターには、数値と折れ線グラフが現れた。
「ほおお、健康だな」
菊亜は言った。遅れて暗いサブ画面に、真っ白な線が飛び交う球体が映された。球体の中の線はしばし光が飛び交っていた。どうやら俺の脳器官らしい。
「……」
直接自分の脳を見て、なんだか何も言えなくなってしまった。しかし菊亜はのんびりと、
「ふーむ、これがお前の世界であり、お前自身なわけだ」
と言った。俺はサブ画面のなかで発光する球体の光を見つめた。動いたり、菊亜の声を聴くたびごとに球体の発行する部位は変化した。
これが俺の世界で、俺自身か。
なんだか、とても奇妙な気分だった。自分が今まのあたりにしている目前の研究室の空間すら、ただ無数の光が飛び交う空間のように思えてきた。
いや。
思えてきた、というか。
実際に、目の前の光景が光で溢れて瞬いている。
真っ白い閃光、じょじょに物が輪郭を喪って、光の玉が視界を埋め尽くしていく。足元が不安で、立っているのかどうかわからなくなる。立っているのか。モニターに映された俺の脳器官、電流の煌めきの前に現れる俺自身。電流の煌めき、人間とは、巨大な電流反応の集積。無数の魂が嗤うように踊って。ザー。空間と時間の混在。ザー。意識の混在。歴史の物語と物語の歴史の混在。ザー。ザー。ザー。ノイズ。ザー。ブラウン管テレビのようなノイズ。ザー。もっとも大きな集合的無意識。光の発する音が心地よく響き、ぱーじりじりじじりいいりじり、ぽんぽん、ぱーじじじりいりりじ、ぽんぽん。ぽんぽん、と心地よいリズムが形象化していく。音、聴いたことがあるような初めての懐かしい音。銃声。破裂音。銃声。波の音。視界に現れる、無数の光、兵士の姿を象っている。匂い。甘い。パパパパパン。パパパパパン。また、銃声。海岸にいる。いや、海岸が見える。木々の向こうには青い。海。高揚する。僅かな恐れが、俺を興奮させ、目の前の少女に絡みつく。少女が着ているスカートの襞に触れ、雨に濡れた土ごとそれを持ち上げる。手を太ももに這わせて、唇をむさぼる。恐れと快感がないまぜになった少女の表情。公園の少女。甘い烏龍茶の匂い。目の前の男は少女に覆いかぶさり、俺は少女の秘部に到達する。湿った大地に少女の頬が触れ、土で汚れる。冷たい雨に濡れた大地と暖かな少女の皮膚の対比。憤り。目の前の俺が少女を犯している。怒り、不安、混乱。それが楽しい。絡み合う俺たちを見下ろす俺。銃口が向けられる。少女のなかで果てると同時に少女に絡みつく俺を撃つ。パパパパパン。溢れる血の混じった脳漿を舐めて、眠たい快感にさらに堕ちていく。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖恐怖・恐怖・恐怖・恐怖・恐怖・砲弾が飛び交う。銃声から放たれる光。この戦場に満ち溢れている暴力という官能。俺は無数の死体が転がり朽ち果てていく海岸が見えるジャングルで少女と乱暴な性交をし果てていた。
…………サンテン……………サンテン…………サンテン……………サンテン…………
✽ ✽ ✽
気がついた。
椅子の上でもたれ込んでいる。
電灯が眩しい。
「おい」
わかるか?
菊亜の声。
「何本だ」
何が?
三本。
菊亜が示す指の本数を数える。
三本。
八島透だ。
「大丈夫。大丈夫」
心配する菊亜に興奮気味に返事をする。
✽
菊亜の話によると、アプリケーションを立ち上げて俺の脳波の計測を始めてだいたい十分くらいはとくに何もなかったそうだ。俺も確かにヘッドギアを頭に嵌めるまでは憶えていた。
「で、しばらくするとモニターがおかしくなって。具体的にいうと視床下部のあたりがもう真っ赤になっちゃったわけ。いや、焦ったマジで。お前、脳溢血でも起こしちゃったのかと思ってさ。それで救急車を呼ぼうと思ったんだけど、お前が呼ぶなって大声で怒鳴るから。いや、一度やっぱり病院に行った方がいいな、うん。うちの系列の病院予約しといてやるよ」
菊亜にしては珍しく興奮気味に話していた。俺はさっきの後遺症なのか気分の谷間を昇り降りするように興奮とぼんやりを繰り返していた。
「それで、データが何かわかったのか?」
ヘッドギアを着ける前の菊亜の話だと、俺たちが試したディスクは脳波測定時にデータが出てくるようセットされてるとのことだった。
「うーん。ログを漁ってみたけど、出てたには出てたみたいけど、やっぱりモニターにはプログラミング言語としてしか表示されてないな」
考えがまとまらないまま話した。
「なんつーか、ジャングルにいてさ、雨が降ってて、そこから海岸が見えるんだけど、そこでいっぱい人が死んでんの。背中にはみんなライフルを抱えててさ。なんか軍服とかは着てなかったから兵士かどうかわかんないけど。そこで横には若い男が立っていてさ。目の前で現地の女の子が犯されんのぼーっとみてた。なんか、甘い匂いがして、それで銃声とか砲弾の音が聴こえてきたから、たぶんあそこは戦場だったんだと思う」
ってなんじゃこりゃ。
言ってて自分でも意味がわからなかった。そもそも俺は戦場にいったこともないし、銃声も砲弾の音も聴いたことはない。言葉が意識するより先に口をついて出ていた。
しかし、菊亜は真剣な表情をした。目の前のカレーに手を付けずしきりに何かを考え込むように口許に手を当てていた。
「ふむ」
俺もそんな菊亜に話しかけられずに黙ってカレーを食べた。
「さっきもちょっと話したけど、人間が見ているイメージや音、匂い等の五感は、なんらかの外的な刺激に神経細胞が反応した結果の電気的な作用だ」
「ふむ」
「コンピュータとかさ、原理的にはあれと同じなんだ。脳っていうハードになんらかの刺激を与えると、つまり光や音という物質を与えるとそれが神経系で機械的な電気信号に変換されて、その電気信号が見えるとか聴こえるとかいうことで、一種の離散的な現実として表す。コンピュータにおいては、コンパイルされているプログラミングが逆にもとの機械語として逆コンパイルされてバイナリデータに戻される。そしてそのバイナリデータの演算が行われて、最終的に出た0と1の演算結果がやはり物質たる半導体の集積回路の入力と出力のパターンとなり、コンピュータにフィードバックされて、それがコンピュータの出力つまり映像やら音やらになるわけだが、あのディスクに記録されているプログラムはデータ構造としてのプログラム自体を逆コンパイルしてそれを集積回路への電気信号に変換する過程において、生体電位と同期するものを実装しているのかもしれない。そして、それを実際脳器官に伝達させ神経系を反応させることで疑似的な経験を与えるものなのかもしれない」
「はあ」
一気にまくしたてられた。ようやくはっきりしてきた思考が再び霞のなかに溶けていく気分を俺は味わった。
「だとすると、お前が見たっていう。というか経験したその体験はそのディスクに収められたプログラムコードに基づいた電気信号だったわけだ」
「はあ、じゃあ、現実じゃなかったっていうことか」
「ちょっと違う。何度もいうがそもそも俺たちがいま感じて存在すると思っているこの感覚だって、このカレーだって、俺たちの神経細胞が受け取った電気信号の塊だ。人間の創造性や記憶も原理的には変わらない。つまり、創造性や記憶なんてのは、人間が自らの神経細胞における電位パターンの組み合わせに過ぎない。だから現実じゃないっていうか……」
「現実じゃないっていうか……?」
菊亜の言葉をオウムのように返した。菊亜は黙って思索に耽りははじめた。そして、
「わからん」
うむ、俺もわからん。
「まあ、いずれにせよ。意味がわからんものだな。ラブホテルなんかにひょいとおいて置かれていていいものじゃないぞ」
「確かに」
菊亜の話は正直よくわからないが、あのディスクがなんだか途方もないものであることはわかった。菊亜に言わせれば、あの経験はディスクに内蔵されたプログラミングだがデータだかのようだが、誰がいったい何のためにあんなものを作ったのやら。
食堂に据え付けられたTVモニターはお昼のワイドショーを映していた。
先日のニュース報道でも取り上げられていた婦女暴行の増加を評論家は憤懣やるかたないという調子で論評し、また今月になっても頻発している婦女暴行に憤っていた。
婦女暴行か。頭では先ほどのディスクの経験が微かに蘇った。
戦場の最中で犯される少女。それを見つめる兵士の自分。だがその少女を犯しているのもまた自分だった。目の前で少女を犯し続けている自分を見つめる自分。さきほどより視線を落として考え込んでいる菊亜にそのことについて話しをするべきかどうか迷った。
戦争っていう極限状態そのものが子供を産む。久田の言葉が思い出された。
ふいに、先日の公園で出会った例の少女のことを思い起こした。深夜の公園で見ず知らずの男にいきなりキスをする少女。正体不明の名前のない少女。そして、その少女とさっきの疑似的な戦場で出会った少女を思い浮かべた。仮装の戦場で犯され、蹂躙される少女。
寒気がした。
菊亜のスマートフォンが鳴った。
菊亜はつまらなさそうに画面を確認する。
「あ、えーと、誰から? 春希から?」
俺は続きを話すことがなんとなく怖くなり、また話題を変えた。
「いや。違う人。ふん、まいったな」
「どうしたんだ」
「いや、お前が来る前、後期に外部研修生としてうちの研究室に来る人に会ったんだけどさ。その人から連絡先を渡されてさ。それで今晩食事に行こうって誘われて」
もともと菊亜日光グループの系列であるうちの大学では産業界との連携も非常に強い。外部研修制度というのは、菊亜日光グループが経営するシンクタンクを始めとする外部の研究機関からの人材の受け入れだった。
「へえ、相変わらずモテることで」
俺は会話をそちらの方にもっていこうとした。
菊亜はうんざりしたような眼を見せて、ため息を吐いた。
おっと、この軽口は叩くべきではなかったな、と俺は自分のミスを確認する。
「どうせまた……」
と、菊亜は言った。菊亜はたぶん、菊亜の名前と顔くらいにしか興味を抱かないような連中を指して言ったのだろう。
「そうだ、お前も一緒に会ってくれないか。そうすれば、変な感じにもならない。ついでに春希も呼ぼう」
「いいよ」
まあ、基本的に女の人と浮いた話は俺にはない。女の人と食事ができる機会なんてめったにないし断る理由はなかった。
「でも、春希を呼んでいいのか。そんな女の人と会うのに」
「逆だろ。女の人と会うから呼ばなきゃいけないだろ」
まあ、そうかもしれない。
「彼女に黙って、他の女と遊べますか」
菊亜の目は純粋そのものだった。
5.
店に先に着いたのは俺たちのほうだったらしい。菊亜が予約していた旨を告げると奥の席に通された。座席にはまだ菊亜を誘った女の人も春希も座っていなかった。俺たちは先に食事をしてよいものかと僅かに議論したが、結局そんなに大仰な席でもなかろうという結論に達し唐揚げや枝豆などのつまみとビールを頼み先に始めておくことにした。
ビールが来ると俺と菊亜はとくに杯をぶつけることもなく呑み始めた。とくに深い意味はないが乾杯とかそういうのはしないのである。
「そういえば、透、夏休みの間に南平台ビルで幽霊が出たって話を知ってるか?」
特に話題もなかったので菊亜が話し始めた。
南平台ビルは丁度マスターの店からバスで一つ停留所を進めたところにあるテナントビルなのだが、今は肝心のそのテナントがおらず廃ビル同然になっているらしい。なんでも、実はそのビルはかつてヤクザの組が事務所に使っていたらしく、今でも中にはその抗争による弾丸の跡なんかが残されてるらしい。
「幽霊ってヤクザの幽霊か」
「いやあ、知らないんだけど、聞いた人の話によると、撃たれたあ、撃たれたあ、痛い痛いってうめき声が夏休みの間ときおり聴こえたんだと」
「やっぱりヤクザの幽霊じゃねえか」
いったい、ヤクザと幽霊はどっちが恐ろしくて、むしろそれが合わさるとむしろお互いの怖さを半減しあってしまうのではないか、などと話していると、待ち人が来た。
「ごめんなさい。わたしから誘ったのに」
春希ではないようだった、おそらく菊亜を誘ったという女の方だろう。部屋ののれんを潜って女は顔を見せた。
まだ残暑が残る季節だというのに少し早い秋のための恰好を女はしていた。スーツの下に赤いセーターを着こみ、下にキュロットスカートといういでたちだった。菊亜の話によれば女は外部研修生ですでに立派な社会人として企業に勤めており俺たちより年上であるとのことだった。だが、その表情は随分幼く俺たちよりも幾分か年下に下手をすれば未だ高校生といっても通じるのではないかという気にさせた。
菊亜は女に先に飲み始めてしまったことを謝っていたが、女は手を振り、気にする必要はないと言った。菊亜は俺の方に手をやって、俺を女に紹介した。
「同じ学域の八島透君です」
それで、こちらの方が……。と、女の名前を示そうとしたが、女は自分から名乗った。俺は目を大きく見広げあほみたいにポカンと口を開けたままその名前を聞いた。
「小川純です」
そして、俺は深夜の公園の少女の名前を知るところとなったのである。
小川純は俺を見て笑った。
✽ ✽ ✽
春希は未だ店に現れてなかった。
「そうなんです。それで実は大学は向こうの方で済ませちゃって、院に残って研究しようかとも思ったんですけど、民間のシンクタンクなら研究しながらお給料もいただけますし、最近だと大学に残って研究するのも民間で研究するのもそんなに変わらないですしね」
「へえ、そうなんですか。それじゃあ普段は我が国にいるってこともあまりなかったんですか」
「そうですね。私の父がわりと海外で働くことが多くて、それについて行ってましたから。だからもう大変。引っ越すたびに言葉を覚えないといけないし、友だちはあまりできないし、でも、もうそういう人生なんだって諦めてます」
「へえ、海外かあ。俺も子どものころは親父にいろいろ連れて行かれたなあ」
菊亜は俺に肘でつついてくる。さっきから黙ってばかりいる俺になんか言えということらしい。
「あー、いや、でも、なんか羨ましいですよ、二人は。俺は二人と違って生まれてこの方ずっとこの国で暮らしてきましたから。そういう海外経験とかしてみたいなあ」
「ほんとですか。それじゃあ、こんどどこか行きましょうよ」
小川純は軽い調子で海外旅行をもち出した。なんだか育ちの違いをつとに感じた。
「えっと、それでご専門はなんでしたっけ」
「バイオインフォマティクスです」
「と、言いますと?」
菊亜は俺の質問に対して唖然とした表情を見せた。
え、なんか、俺、変なこと言った?
「お前、自分が何の学部に通ってるか知ってる?」
菊亜が訊く。
純がおかしそうに笑う。そして、そうですねえ、とすこし思案した顔をして、
「人間っていうのはある種の情報なんですよ。それは、例えばあなたが今現在の状況を説明するとしたら、あなたはいまある特定の大学に通い、特定の場所に住んで、特定の名前を持って、自分はこれこれの人間ですって名乗り、きょうの昼にはこれこれのものを食べましたって感じで話すでしょ。つまり、あなたの通う大学が、あなたの住む場所が、あなたをあらわす記号が、あなたの食べたものが、あなたっていう存在をあらわす情報になるでしょ」
「きょうの昼に俺はカレーを食べましたよ」
「そうです。でも、もし仮にあなたがお昼におでんを食べたなら、それはあなたと言えるでしょうか」
「言えないの?」
思い余って言葉が崩れる。
「いま、ここにいるあなたは、きょうの昼にカレーを食べたあなたなんです。きょうの昼に冷やし中華を食べたあなたと情報的には等価にならないでしょ」
「うーん」
「もちろん、きょうの昼に冷やし中華を食べたあなたも、お蕎麦を食べたあなたも可能性としてはありえます。しかし、あなたが事実として選んで今いるのはカレーライスを食べたあなたです」
「うーん。わかるようなわからないような……」
なんだか、適当にからかわれている気がする。
「生命情報も似たようなものです。人間の細胞のなかにある核に絡みつくDNA情報っていうのはようするに、各塩基の配列によるタンパク質のパターンなんです。つまり、あなたを構成する人体でさえも、ある特定の決められた四つの文字ATGCがどういった連なりをしているかという情報によって個として特定することができます」
「アデニン、チミン、グアニン、シトシン」
知っている単語を並べてみた。
なんだか、お昼の菊亜と同じような話をしている気がする。塩基配列のパターン、神経電位のパターン、人間の行動パターン。パターンってなんなんだろ。
いや、ほんとなんなんだろね。
「やっほー」
助かった。馬鹿がまた一人増えて二人になった。一人目はもちろん俺だが。
俺たちが声で振り返ると小川純よりもさらに幼い顔が現れた。
春希は俺たちを一瞥するとすぐに小川純に気づいて、
「あ、純さん!」
「あれ、二人とも、もう知り合いなの」
菊亜が驚いたように言う。
「うん。夏休みに学校に行ったときに会ったの。ねー」
小川純は春希の何も考えてなさそうな、実際に何も考えてない相槌に、ねー、と返す。
「夏休み前にどんな学校かちょっと見学に行ってたんですけど、そのときに話しかけられて、そのまま食堂でお話ししたんです。それでじつはお二人のこともお聞きして学校が始まってお会いできるのを楽しみにしていたんです」
なんで、わざわざ話すことになったのかは尋ねないことした。どうせ、春希がいつもみたいに誰かれかまわず話しかけていたんだろう。
ほんと、最近は物騒なんだからそういうのやめなさいって。
ほんと煮て食われちまうよ、幼稚園児さん。
しかし、それで合点がいった。
「ああ、それで……」
俺のことを知っていたんですね。
しかし、続けていう言葉に詰まった。公園でのことを話そうと思ったのだが、さすがに、それでなんでいきなり俺にキスしたんですか、とは訊けない。
「え、それで、なんなの」
しかし、菊亜は言葉を拾い、促してきた。
「え、いやあ、前に公園で俺も会ってね」
「ああ、公園であった可愛い女の子って小川さんのことだったのか」
菊亜は、ははーんって感じで腕を組んだ。ありがたいことに、それ以上は掘り下げようとはしないでくれた。
「可愛い女の子なんですね」
小川純は忍ぶように笑った。俺はその笑顔にこんどは不敵なものを感じた。
魔性の女。
つまり、ちょっと魅力的に感じてしまった。ううむ。
「でも、よく俺がわかりましたね」
俺は取り繕うように言う。
「写真見せたんだよ」
なるほど、犯人は幼稚園児か。
春希はスマートフォンを取り出して、ほらこれ、と見せてきた。春休みに三人でいった旅行の写真だった。地獄で有名な温泉街だ。
春希は画面をスライドさせて、小川純に他の写真を見せている。
「ほんと三人は仲が良いんですね。あれ、これは?」
「これは、透が小学生のときのやつ。私たち小学生からずっと中学、高校いっしょなの」
「へえ、それじゃあこの人は」
「うん、透のお母さん」
春希はすこし申し訳なさそうに俺を見る。
気にするな、と俺は手を振る。
「綺麗な人ですね」
「もういませんけどね」
え、と小川純は予想外の返答だったのか、息をもらす。
ほんとにどう話したものか、いつもほんの少しだけ迷う。
「死んだんですよ。事故で」
とりあえず当たり障りなく答えておく。
「そうだったんですか。ごめんなさい」
「いえいえ、もう九年も前のことですから」
なんとなく、気を遣わせてしまった。
まいったな。
ほんの少しだけ場の空気が重くなったのを感じた。
そう感じたのはもしかしたら、俺だけなのかもしれないけど。
「でも」
と、春希は口を開いた。
愛おしそうに、写真を撫でて言葉を続ける。
「このころの透はほんとうにかわいいよね」
母が死んで、もちろん悲しかった。
でも、たぶんやっぱりそのころは無理をしていたと思う。
何に対して強がって、何に対して涙をみせないようにしていたのか、もう忘れてしまったけど、そのころやっぱりずっと我慢していたと思う。
父親はいなかった。だから、母親と祖父母の家で暮らしていた。祖父母とはべつに仲が悪いわけではないけど、やっぱり母親が一番頼りになって、祖父母にはすこしだけ遠慮していた。母親が死んで、ずっとテレビのニュースを見ていた。母親が死んだ理由をその箱の中に探していたからなのかもしれない。俺はあまり外に出なくなっていた。祖父母は気を紛らわしてくれようと遊園地や水族館とかいろいろ連れて行ってくれたけど、正直、そのころは家にいたかった。
春希はそのころにちょうどよく来てくれた。もともと小学校が一緒で、ときどき遊んだり、下校を共にしていたりしたが、母親の葬儀からしばらくしてなんとなく友達と遊ぶことが少なくなった俺に、春希はよく変なタイトルの映画のDVDを持ってきてくれた。春希は励ますでもなく、無理矢理外に連れだすでもなく、ただニュースの代わりにそれを一緒に観ようと言ってくれた。DVDを観ている間、何を話しただろう。たぶん、何も話さなかったと思う。憶えているのはただ、ときどき映画に出てくる変なシーンに春希が笑って、ねー、と相槌を求めてきたということくらいだ。そうしてしばらくがたち、変なDVDをたくさん観ているうちに俺たちは中学生になって、高校生になって、そして今になっている。
春希がいたから、救われた。
とかは別に思わない。ただ、母親が死んでからも春希はそれまでと変わらずに傍にいてくれて、そしてきょうまでずっとそうして時間が流れてきた。
恋心とかそんなものはない。たぶん。
ただ、俺たちは互いがよくわからない関係でいることによって、自分たちの位置を確かめ続けることができた。
春希がいたから、俺は救われた。
そう言えるかどうかは分からないけれど、変わらずにいることはできたのかもしれない。
「ねえ、ほら、かわいいって。ねー、かわいいー。なーんで、いまはこんなになっちゃったんだろ。ああ、なんだか時の流れは悲しいねえ。ほらほら、見てよ、安秀、こんなにかわいいのに」
「前に見せてもらったよ」
菊亜は苦笑いしながら応える。
「ねえ、ほら、透も自分で確認してみなよ、ぜんぜん違うから、ねえ、あんたもしかして宇宙人じゃない? どこかですり替えられたのかも」
まったく、人の感傷もなにも知らず、この幼稚園児は。
「はいはい、終了、終了。毎日、毎日、幼稚園児の世話をしてるとボクも気苦労が絶えないんデス」
「あたしのせいなの」
「他に、誰がいるって言うんデスカ」
心にもないこと言った。
「むう」
春希は春希で、能天気な素振りをし続ける。
「あ、それじゃあ、中学のころの幼稚園児を皆さんにお見せしようか」
「それだけは止めてください。どうか。どうか、お大臣様……」
春希はかしこまって土下座をした。俺はふざけてスマートフォンを印籠のようにかざして、ひかえい、と見得を切った。
俺も俺で、脳的な素振りをし続ける。
これからも?
それはわからないけど。
「可愛らしいお二人ですね」
小川純は菊亜に話しかけた。
「ええ、まあ」
「菊亜くん、こんなに楽しい友達がいて羨ましいです」
「そうですね」
菊亜はいつものように苦笑いを見せた。だが、俺はその時菊亜がその表情のなかに苦笑いよりも複雑な何かをしのばせたのを見逃さなかった。怪訝に感じたが、尋ねるより先に菊亜が俺を遮った。
「あ、そろそろ場所変えませんか。食事も粗方したでしょうし」
「いいよ、どこにする」
菊亜の提案に春希が賛意を示す。
「うーん。そういえば、きょうもともと、透と《TACTIQUE》に行く予定だったんだよね」
「《TACTIQUE》ってなんですか」
小川純が訊く。
「クラブです。ドリンクが安くてたまに行くんです」
「へえ、クラブ。行ったことないなあ」
菊亜が俺に向けて視線を遣る。小川純を誘ってもよいのか迷っているのだろう。確かに女の人をクラブに誘うというのはその気がなくとも何となく勇気がいるものである。
「じゃあ、純さんも行こうよ」
しかし、春希がなんらの躊躇いもなく小川純に飛びついて誘った。
「いいんですか」
小川純は躊躇いがちに俺たちの表情を窺った。
菊亜はむしろ誘いを切りだす手間が省けてほっとしたといった表情を見せて、
「もちろん」と返した。
「じゃあ、決まりね。大丈夫、純さん。クラブって言っても《TACTIQUE》は静かな曲もあるんだよ」
「そうなんですか」
「まあ、日によりますけどね。きょうはどうなんだろう、透」
わからん、と首を振ると、また幼稚園児が、あ、とかんだかい声を出した。
「私、DVDの録画予約忘れてた。安秀、予約してない?」
「あ、ごめん、俺も忘れてた」
「というか、うちのレコーダー壊れてるから、もともと安秀に頼んでたんじゃん」
「そうだったっけ、ごめん、ごめん」
もー、と春希が膨れる。
また、映画か、タイトルは訊かないでおこう。
「どうしようかな」
「それじゃあ、春希さんは行きませんか」
「ううん。いったん家に戻って観る。それから行く」
「それじゃあ、俺たちは先に行ってるよ」
菊亜が言う。
「うん。着いたら、また連絡するから」
「そんなに観たいの、それ? あとでレンタルとかでいいじゃん」
俺が春希に言う。
「あの超絶ドマイナーな『ご老人五郎ご苦労様です』を地上波でやるのよ。それはテレビで観てリアタイで盛り上がらなきゃ。トラーイ。あ、これ映画の決めゼリフね」
確かに、タイトルからドマイナー感が溢れている。そんな映画を地上波でやるのは奇跡だ。リアルタイムで鑑賞したくなるのもわからなくもない。トラーイ。いや、やはりわからない。
「ほんとに後で来れるのかよ」
「大丈夫。大事なのは最初の三十分のトラーイだから。それ見たら途中で行く」
ますますわからん映画だ。トラーイ。
「それじゃあ。できるだけ、早く来いよ。トラーイ」
菊亜くん、染ってるよ。トラーイ、が。
「どんな映画なんだろ、『ご老人五郎ご苦労さま』か。トラーイ」
良かった。小川さんは俺と同じ感性らしい。でも、やっぱり染ってる。
「じゃあ、またあとでな。トラーイ」
俺たちは座敷を出ていく春希に手を振った。
✽ ✽ ✽
春希が出ていって五分もたたないうちに、菊亜は店の会計を済まし、俺たちは《TACTIQUE》に向かった。
道中何故だか気になる決めゼリフ、トラーイ、を三人で言わないように苦労した。
《TACTIQUE》に着くと、生憎今日は人が多かった。音楽とダンスも今日は激しい調子だった。俺たちはとりあえず見学と、ダンスフロアから離れた二階に上がってテーブルに座った。菊亜はドリンクを買いに一階のフロアまでまた降りて行った。
フロアの奥で演奏しているバンドは、大学の軽音サークルの連中だった。彼らはひたすら学校が始まったという事実を確認し、それをネタに客を煽っていた。やはり、フロアで踊っているのは同じように授業が始まった大学生が多いのだろうと俺は推測した。バンドの曲は日々の生活を戦争と形容し、出会った男女がその暮らしのなかで愛を喪っていくという歌だった。
ちょっと陳腐だな、と少し毒づきたくなった。
小川さんはフロアで熱狂する人々を興味深げに見下ろしていた。
案外、ああいうことが好きなのだろうか、それとも物珍しいのだろうか。
「踊りますか」
俺は訊いた。
「大丈夫。それと、そんなに丁寧に話さないで。私のことも純って呼んで」
そう言われたものの、戸惑った。小川さんは確かに顔は幼いが年上だった。
「せめて二人のときは。ね」
二人のときは。
俺は小川さん……いや、純のことを掴みかねていた。純の表情は読み切れなかった。一見すると、菊亜のように本音を見せず、ただ相手を傷つけないように、自分を守るように微笑んでいるようだが、時に春希のように幼く相手に対し壁を作らず接しているかのような表情を作る。どちらが彼女の本当の表情なのか、どちらが彼女が本当だと相手に思ってほしい表情なのか俺は決めかねていた。
「ねえ、さっきの話どう思ったかな」
「さっきの話って何?」
「遺伝子の話。私たちはみんなパターンだっていう話」
どうと言われても……。正直に言うと難しくてよくわからない。もし、仮に俺たち自身が確かに遺伝子、というかそのDNAを構成するタンパク質の並びなり神経の電流の並びだとしても、それじゃあなぜ、その並び方がまさにいまその俺に「俺」という感覚を与えているのかわからない。仮に俺が(テキトーに)Aだったとしても、じゃあなんでAが俺なのだという理由はわからない。菊亜安秀がTだったとしても、井戸川春希がGだったとしても、そしてこの小川純がCだったとしても、それはそのはずだ。
「遺伝子がどう並んでいようが自分は自分だよ」
彼女は俺の返事を訊くとまた表情を変えた。
「そうね。確かにその通りだわ。自分に与えられたAだとかCだとか、名前とか、そんな記号単体には意味はない。それは誰かがその記号を読み取ることによって、RNAが転写して一つのタンパク質に翻訳されることによって意味を持つ。呼びかけられない名前に意味はないわ」
でも……。と、純は続ける。
「自分は自分だ、そんなセリフを言えるなんてあなたはそうとう恵まれているのよ」
そうかもしれない。俺は今ここにいて名前をくれた人がいて、その名前を呼んでくれる人たちがいる。Aは他のTやGやCがいて初めてAであるのかもしれない。八島透は菊亜安秀がいて、井戸川春希がいて、八島透であるのかもしれない。
小川純にはそういう人たちがいなかったのだろうか。
「友達とかいないんですか。家族とか」
考えてみたら、とても失礼な質問だが、俺は思わずこの室内の喧騒のなか訊いてしまった。純は怒らずに答えてくれた。
「ほら、私、さっきも言ったけど、移動が多い人生だったから、友達とかなかなか出来なかったの」
「家族は?」
「家族は……。そうね、そんな移動し続けるような仕事の人たちだからあまり家に居なくて、引っ越した先で海外出張なんてよくわからない感じだったし、帰って来たらまた引っ越しでのんびりしている暇もなかったわね」
「そうなんだ」
「だから、あなたたち三人を見てると本当に羨ましいわ。あなたたちずっと仲良いんでしょう?」
「菊亜と俺は大学に入ってからですよ。まあ、春希とは長いけど」
いつの間にか、また少し丁寧な口調が戻っていた。
「あなたと春希ちゃんは付き合ってるの?」
「まさか。春希は菊亜とだよ」
菊亜が春希と付き合いだしたのは、ちょうど今年の春の終わりくらいからだ。まだ学校が始まっていない春休みの日にマスターの店に一人で行ってきた菊亜が酔っぱらってうちのアパートまで来て、ご丁寧にも報告してくれたのだ。透、俺は春希に言うぞ、って。俺はもちろん祝福した。なんというか、菊亜のいつもの遠慮がちで申し訳なさそうな表情は春希のあの屈託のないようにみえる朗らかな表情を求めているように俺には思えたからだ。しかし、その旨を珍しく酔っぱらいの菊亜に伝えると、ばかやろー、と殴られた。菊亜なりに思うところがあるのかなんだかよくはわからないが、それじゃあダメなんだよー、なんとかしてくれよー、と俺が敷いた布団の上でうわ言を菊亜は言っていた。
まったく青春の一ページである。
身を乗り出して下のフロアを覗き込むと、三つドリンクを載せたトレイをテーブルに置き、座っている菊亜が見えた。さっさと上がってくればいいのにと思ったが、菊亜は俯いてスマートフォンを弄っていた。春希からの連絡だろうか。
「ねえ、今週の土曜日なにか予定ある?」
純が尋ねてきた。
「いや、特にないね」
「それじゃあ、デートしましょ」
「え?」
呆気に取られて、気の抜けた声を出す。
「ダメ?」
純がすこし上目遣いに不安気な表情で覗き込む。
いいけど、いや、もちろんこんなに可愛い女の子とデートできるのはぜんぜんかまわない。けど、どうして? この間の公園での不意のキスを思い出す。
どうして、この人はこんなにも、なんというか、その、積極的なんだろうか。
直截に尋ねるのが俺には躊躇われて、
「俺で良いの。その、菊亜じゃなくて」
純は、なんだそんなこと気にしてたのね、と安堵の微笑みを見せる。
「あなたとっても素敵よ」
謙遜でもなんでもなく、俺は菊亜と違って何のとりえもなく、まして大企業の御曹司でもない平凡な大学生だ。それなのになんで俺なんか。
「理由なんか必要ないわ」
純はそう言って、俺の手を取った。その手は冷たくはなかった、といっても殊更温かいわけでもなかった。バンドの演奏はやがて激しいロックの調子からスローな曲へと変わっていた。下のフロアの菊亜をもう一度見る。しかし、ドリンクだけテーブルに置いたまま菊亜はいなくなっていた。
「踊りましょう」
純は俺を連れてダンスフロアまで降りた。
話しているうちに時間が過ぎたのか、さっきまでの喧騒から少し人が減っていた。
俺は純の手を取って、ただ右に左に軽く揺れた。純はずっと俯いて、足元を確認していた。なにか考えごとをしているのか、なにも話しかけてこなかった。下を向く純の睫毛がときどき瞬きで揺れた。
純は探しているのかもしれない。
ぼんやりと、そんなことを思った。
なにを?
自分という存在に意味を与えて、成り立たせてくれる何かを。
なら、俺はそれを与えてやりたいと思った。
純がときおり見せる表情は、菊亜にも、春希にも似ていた。
けれど、もう一人懐かしい表情を俺に思い出させた。
「逃がさないわよ」
スローな曲のなかで純の声がぽつりと聴こえた。
俺は聞き覚えのあるこのスローな曲のタイトルを探した。
6.
翌日授業が終わって午後、菊亜の忠告にしたがって病院に来ていた。ここも菊亜日光グループの系列病院で菊亜が話をつけておいてくれたのか、とくに予約もしていなかったが待たされることもなく検査を受けられた。驚いたことに、代金も必要ないと受付で言われた。流石にそれは申し訳ないと思い固辞しようとしたが、どうも不可能なようだった。
脳検査でCTをやらされ、必要があるのかそもそも疑問な胃カメラまで飲まされた。心電図を取られ、適当に問診もされ、ついには残すところ血液検査だけとなった。俺は待合室で待機するように言われた。
ぼんやりと病院にやって来ている人たちを眺めた。平日の午後だが人はそんなに少ないというわけでもなく、主に高齢者ではあるが人で賑わっていた。俺と同じように若い人間は二三人といったところだろうか。一人はマスクをしていて見るからに風邪といった感じだが、もう一人はさわやかにネクタイを締めて、何か楽しそうに口角を上げて、手元でくるくると指を弄んでいた。男は横で立っている老人に気づくともたれていた待合用ソファの座を老人に譲った。
ほほお、殊勝なやつですなあ。と、俺が感心していると、その男に見覚えがあることに気がづいた。そういえば、あの兄ちゃんはスターのところのお客さんだ。珍しいこともあるもんだ、と俺はその男の観察を続けた。男のもとに診察室から看護師が近づいてくる。看護師は男の姿を認めると嬉しそうに手を振った。どうやら、男は今日初めて外来したというわけではなさそうだ。見る限り元気そうで、一体どこが悪いんだろう。悔しいことに顔は悪くなさそうだ。爽やかな青年と話せてうれしそうなその中年の看護師のようすからそう思った。
耳をすませば、二人の会話が聞こえてくる。男が言う。
「いやあ、ご無沙汰しています。入院のときはお世話になりました」
「いいえ、ぜんぜん、こちらもご協力いただいて感謝してますの。どうもやっぱりイメージが悪くてねえ、最近はマシになってきたけどやっぱり人がまだまだ少なくて。こちらこそどうもありがとうございました」
「いえいえ、ちゃんと貰うものももらえましたからね」
「結構、儲かるでしょ」
「いやあ、はは、そうですねえ」
「それで予後は大丈夫ですの?」
「ええ、ぜんぜん、今日はその最後の検査ですよ」
「そう。それじゃあ、しばらく会えなくなるわね。寂しいわ」
「まあ、その方がいいんですけどね。またやりますよ、半年でしたっけ、間隔は」
「四カ月よ」
「そうですか。それじゃあ、その頃には有給とってまた稼ぎに来ますよ」
「待ってるわ」
ふむ。俺は二人の会話のなから与えられた情報を精査しキーワードを抽出する。幾つもの論理と可能性の束を広げ、一つずつ推論を織り上げていく。そうか。わかったぞ。真実はつまり……。というのは、冗談で、俺は自分の横に貼られているポスターを見て二人の会話がなんなのか大体察しがついていた。
治験だ。
あのお兄さんは治験入院していて、看護師さんとはその間に仲良くなったんだろう。俺はもう一度横のポスターを一瞥する。ポスターには、治験の、つまり医薬品開発の被検体ボランティアの募集とその謳い文句が書かれていた。
治験とは、新薬開発のその製薬過程において動物実験を経ての製品化の段階へのための人間への投薬による試験だ。要は医薬品が製品として売られる前に、どのような薬効、副作用、あるいはまたべつの作用があるかを確認するために被験者に試飲させる人体実験だ。もちろん、人体実験というからにマッドな感じのお医者に、マッドな感じのベッドで、マッドな感じに薬漬けにされるようなもの……ではなく、そこはきちんと厚生労働省あたりがきちんと管理監督し、製薬会社も病院も不正を行わないようにしていることになっている。身売りをする(なーんて)側のボランティアにもあらかじめこれこれの検査目的のための臨床であり、しかじかの薬効及び副作用が予見されるという情報が与えられ、本人の意に望まぬのならいつでも臨床試験を中止、辞退できる権利があるということが伝えられる(インフォームドコンセントというやつだ)。治験はその性質上アルバイトなどの業務ではなく、ボランティアという扱いになるのだが、バイト料の代わりにきちんと謝礼はでる。その謝礼の額というのも、別に臓器を売るだとかそんなブラックな話ではないので、ふつうにアルバイトと変わらずに一時間拘束で八百円とかが相場らしい。
え、じゃあ普通のバイトと変わらないじゃん。
そうお思いのあなた。それはちょっと、違う。というのも、治験とは、医薬品の人体への影響を調べるための検査入院なのだ。この入院というのがミソだ。治験中の入院期間つまり拘束期間は医薬品によってさまざまだが、だいたい二三日~、長いもので二週間~、もしくは一ヶ月~、くらいらしい。で、この期間はずっと病院で入院患者と同じように過ごすのだが、それは検査の間はもちろん、退屈でゲームやらお勉強をして過ごす昼間も、のんびり健康に早寝をして翌朝まで(早朝に検査があるので昼まで寝てるとかはできないらしいが)寝てる時間も、期間中の時間すべてに時給が発生するのである。もし仮に、二日間の治験だったとしよう。つまり、四十八時間×八百円ということで、謝礼は三万八千四百円である。しかもその間ほとんどずっとベッドでゴロゴロしてるだけ。ううむ、案外案外、なかなかにおいしいではないか。まあ、実際は、事前検査で自分の体が臨床試験で使えなかったり(なかなか厳しい健康基準らしい)、やたら検査させられて面倒だったり、食事は一切指定で辛かったりといろいろあるにあるらしいのだが、とにかく人体実験と聞いて頭に浮かぶなにやらいかがわしいマッドなものとは、違うのである。一概には言えないが、製薬のための医薬品も、鼻炎のためのものや市販のビタミン剤などのわりとおだやかーな風のものが大概らしい。
なんで、俺がこんなに詳しいかというと、実は大学の同級生に治験に参加している奴がいて、そいつからいろいろと教えてもらったのだ。そいつは殊勝なやつで、病気で苦しむ人のために少しでも自分が役に立てばいいと無償でボランティアをしているらしい。
というのは冗談なのかわからないが、菊亜は一応そう言っていた。まあ、菊亜としても家の稼業を手伝っているというような感覚なのだろうか。ちなみに、俺もじつは参加のための事前検査を一度だけ受けたが、不摂生が祟って本検査はさせてもらえなかった。ううむ、儲け損なった(とはいうものの事前検査だけでも協力費五千円はいただいた)。やはり、煙草がよくないのだろうか。
などと一人で頭の中で長々と、説明しよう、をやっていると診察室から俺の名前が呼ばれた。さっきの男と看護師もいなくなってる。俺は立ち上がって、診察室に入った。
診察が終わると、検査結果はまたしばらくしてから後日病院で書面を渡すから、と言われた。どうやら、また来ないといけないらしい。面倒だなとちょっとうんざりして、またさっきと同じ待合用のソファに座った。待合室のメンバーは、さっきからいる爺さん婆さんと相変わらずだったが、また一人見た目には若そうなスーツを着た女性が増えていた。女の人はスーツの下にすらっとした長い脚をキュロットスカートからのぞかせていて、足先にはきれいな形のパンプスを履いていた。長くて真っ直ぐな黒い髪を時々払いながら手元のノートパソコンを操作していた。いかにもキャリアウーマンと言った感じだが、とくに不健康そうには見えない。隣の爺さんもそう思ったのか、それともきれいな脚に鼻の下を伸ばしたのか、キャリアウーマンのお姉さんに話しかける。
「あんた、どこか悪いんかね」
お姉さんは爺さんに気づき、顔をあげる。お姉さんはいやな顔を特にせず答える。
「あ、いえ、仕事で来たんです。ちょっと、ここの先生に用事があって待ってるんです」
「ほうか、ほうか」
「お爺さんは?」
「わしは息子の付き添いでのう」
「息子さん、どうされたの?」
「頭をの。戦争でやられてもうたみたいじゃ。ちょうどいま上の心療内科で見てもらっておる」
戦争という単語を聞いて、俺は身体を動かせなくなった。まるで、不意に、それこそピストルの発砲音か手榴弾の爆発でも聴いたかのように固まってしまった。うなじにジトリと汗を感じた。
しかし、爺さんの話を聞く女性は身じろぎもせずじっと爺さんを見つめてる。
「もう帰ってきて、結構経つのになかなかようなりゃせん。どうなってもうたんかねえ」
「息子さんも、南方で?」
「そうじゃ。ただ聞いた話じゃとそんなにひどい目におうた人たちはいないみたいじゃねえ。わしの息子は仕方ないとはいえやりきれんね」
「ちゃんと、役所に手続きして補償は毎月貰ってる? もし貰ってないなら、私、手伝いますよ」
「ありがとう。でも、ちゃんと貰ってるよ。復員兵の人たちで互助会みたいなのがあってね」
「南方諸島紛争退役軍人会」
その女性は爺さんに確かめるように言った。
「そう。そこでなんとか息子とわしの面倒をみてもろうてる」
「そうなんだ。大変だね」
女性の声は淡々としていた。けれど、決しててきとうに答えたとかではなく、その女性の強い信念を俺に感じさせた。
奥の診察室から、医師がやってきた。東藤さん、と女性に声をかけた。
東藤と呼ばれたその女性は医師に向かって頭を下げた。
「それじゃあ、私、行くわ。お爺さん、私こう見えて公務員なの、もし困ったことがあったら力になれるかもしれない。何かあったら連絡してね」
そう言って、爺さんに名刺を渡した。
爺さんは女性にありがとうと微笑んで頭を下げた。
女性は爺さんのそんな姿を見ると微笑みを返し、医師と話しながら、俺の横を通り過ぎていった。
―――河野先生、いつもお世話になっております。それで結果は……。
―――やはり、クロだね。これでこのグループも四人目だよ。
すれ違う瞬間、俺は彼女と目があった気がした。
だが、俺は冷や汗を止めるのに夢中で彼女がどんな表情を見せたか判断できなかった。
✽
金曜日。俺は菊亜と食堂で会った。
「どう、学校始まって?」
「どうって、別に特に何もないよ」
俺はまた生協のカレーライスを掬いながら答える。
「そういえば、菊亜、お前この前《TACTIQUE》行ったときどうしていなくなっちゃったんだよ」
菊亜と俺とそして小川純を連れて三人で行ったあの日、菊亜は結局《TACTIQUE》からいなくなり、俺と小川純二人で始発が出るまでいることになった。
「ごめん。ごめん。春希がなかなか来なくてさ、もしかしたら迷子になってるのかと思って、様子見に行ったんだよ」
確かにその日は結局春希は来なかった。
「でも、あいつ別に初めてじゃないだろ。何度か三人で行ったじゃないか」
「確かに変だよな。結局家に行ってもいなかったし」
「え、じゃあ、何してたんだ?」
「わからん。後で、訊いてもぜんぜん答えてくれないし」
そういえば、ここ二三日春希を見ていない。いつもなら、どこにいても向こうから見つけてうるさく近づいてくるのに。
「なんか、元気ないんだよな」
「結局、楽しみにしてた映画観れなかったんじゃないか」
俺は少し茶化したが、菊亜はそれにのらず、
「うーん。どうしたんだろう。なにかあったのかな」
菊亜は、額に手を当て、手元に握ったスマートフォンに目をやった。恐らく、彼氏らしく、なにかメールでも送ってるんだろう。だが、様子から察するに、あまり芳しい返事でないらしい。
「悪いんだけど、透も今度、顔を見に行ってやってくれないか」
もちろんそれはお安い御用だった。あの幼稚園児に元気が無いとは、いったい何があったのやら。でも、案外ほんとうにしょうもない理由だったりして。なんかそんな気がする。
「でも、一応、お前が彼氏なんだから、お前が頑張ってやれよ」
いや、もちろん、菊亜は頑張っているに違いない。だが、俺は何となくそう軽く檄を飛ばさずには入れなかった。というのも、菊亜の表情が俺と出会う前の、弱気で周囲に対して壁を作っていた頃の表情にまた戻りそうだったからだ。
「そうだね。ありがとう」
「ほら。俺はこのまえの小川さんと仲良くしなきゃいけないからさ」
すこし、偉そうだったかもしれない。俺は茶化して誤魔化そうとした。
「小川さんとうまくいきそうなのか」
菊亜は随分と真剣な調子で尋ねてきた。
「はっは、今度の休みにデートなのだ。まいったか」
「いやあ、大したもんだ。透は良いやつなんだから、機会さえあればモテると思ってたんだ」
俺の茶化しに、菊亜は真面目に乗ってきた。俺はなんだか、菊亜の素直な優しさに逆に調子を狂わされそうになった。
「おいおい、からかいなさんなよ。俺はお前とは違うんだ」
珍しく、俺の方が菊亜に対して苦笑いをした。
「そんなことないよ。透は男らしくて結構格好いいし、気の良い奴だ。みんなからも好かれてるよ」
俺はまたまた苦笑いをした。もしかして、担がれてるのか。
菊亜はぼんやりと俺を見つめて、それからまた口を開いた。
「透、俺さ、お前と会えて良かったと思うよ」
「はあ、急に何言ってんだよ」
俺と菊亜がこうして話すようになったのは、一年生の終わり頃だ。その頃の菊亜は、もちろんその頃からハイスペックで優しくて人畜無害だったのだが、どこか人と距離を取るようなところがあった。なんといっても世界に影響力を及ぼす菊亜日光グループの跡取りなのである。ましてや、その菊亜日光グループは、第二次世界大戦後以来我が国に起こった最大のトピックであるあの戦争に関与を疑われていると噂されているのだ。菊亜には疑惑と懐疑が向けられたのだろう。もちろん、それは菊亜当人というよりも大会社の息子という存在に対してのものだったのだろうが、菊亜にしても思うところがあったのだろう。もしかしたら、戦争で儲けた会社の息子、なんていうわけのわからない言葉を投げつけられたこともあるのかもしれない。裏返すように菊亜に近づくやつも多かったのかもしれない。誰と話しても、人は皆、菊亜の話ではなく、彼の会社や彼の裕福な生活について聞きたがり、興味を抱いているのだ。どれほど、人に好かれようと菊亜にとってそれもまた、疑惑と懐疑とさしてかわらなかったのかもしれない。
しかし、そんなもの菊亜にどうすることができたというのだろう。菊亜の人畜無害さというのはそんな周囲に対する彼なりの対処だったのかもしれない。
菊亜と俺はそんな状況のなかで出会った。きっかけは覚えてないが、たぶん実習のグループで一緒になったとかそんな些細なことだったと思う。俺はハイスペックで、優しくて、そして人畜無害な菊亜を見て、なんだか座りの悪いものを覚えた。ある種の申し訳なさみたいなものを感じたような気がする。いや、なんというか放っておけなかったのだ。その理由はよくわからないが、俺は菊亜と出会うとすぐにマスターのところに連れていった。迷ったときはマスターのところだ。マスターは具体的な解決策を教えてくれるわけではないが、少なくともその人の立場とか権威だとかで人を判断しない人だ。たとえそれが自分の従軍した戦争と関わりのある企業の御曹司だとしてもだ。
俺は菊亜とマスターが話すときには席を外すようにした。もちろん、俺が聞いてやればよかったのかもしれない。だが、菊亜にはそれができないようだった。誰が言いだしたのか知らないが「重荷があるなら二人で持てばいい」なんてヒューマニスティックな言葉は、ときには自分の重荷を他人に背負わせることそれ自体が重荷になる人だっているのだ。そして菊亜はそういう人間だ。菊亜が俺に話してくれないこと、俺はそのことに腹を立てたりはしない。いつか話してくれるのを俺は待つ。だから俺は少なくともそれまでは菊亜の傍にいようと思っていた。
「俺、確かにさ、親父の会社があんなんだから、何となく周りのやつらがちゃんと接してくれないように思ってたんだけどさ、でも、やっぱ違うんだ。俺、戦争が始まって親父の会社がそれと関わるようになる前から、なんかこんなふうっていうか、こんな感じであんまり上手に人と話せなくて、たぶん、俺をちゃんと見ずに俺のまわりばっかり見るやつらが悪いんじゃなくて、たぶん、俺のほうもまわりをそんなふうにしか見れてなかったんだと思う」
俺は口を挟まなかった。
「で、まあ、透や春希と話してると何だか、それに気づけたというか、俺のほうも変わらなきゃダメなんだなって思えるようになったんだ。それはまあ、わりと自信をもって良いことなんじゃないかって言えるから、まあ」
「まあ?」
「ありがとう」
少し恥ずかしかったのか、菊亜は俺から目を逸らしていたが、最後に、それを隠すように俺を見つめて無理矢理ニヤリと笑った。
「相変わらず、深刻なやつだな。お前は」
と、俺は言った。
7.
戦闘ヘリがジャングルを行く。
銃座に取りつけられた観測器から覗くと、赤外線センサーが、地上の戦闘地域を綺麗に色分けているのがわかる。冷たい青は海。その青い海外線を境にして緑の森が広がる。その中に赤い体温を持った標的がまるで抽象絵画のように点てんと動きまわる。プログラムはその対象めがけて作動する。放たれる自動斉射。リズム良い銃声が地上を制圧していく。ときおり、空に昇っていく白煙が揺れる縦の線をつくり、それが俺たちの時代のピクチャレスクになる。操縦席には、誰もおらずただ無人の機内で操縦桿だけが縦に横に倒れる。放たれる本物のミサイルと攪乱の拡張ミサイル、その爆発の炎は圧倒的な火薬とCGで作りだされる本物と偽物の乱舞。いや、もはやどれが本物でどれが偽物という区分はとっくに意味をなしていない。そうだ、そんなことはあの戦争が始まる前からとっくにそうだった。美しい戦場の混乱はもはや統制され、制御された美しい映像美になるように予め設計されている。
歴史は二度といわず何度も繰り返される。
ただし今回は映画のように繰り返された。
エンドロールが終わるまで俺たちは律儀にソファに座り続けた。
出ましょう。
純がそう言って立ち上がると、俺たちはスクリーンから抜け出した。
✽ ✽ ✽
俺は純に誘われて、映画に来ていた。
公園で待ち合わせて、会うとすぐに純はどこに行きたいか尋ねてきた。俺はせっかくのデートだというのに特に答えも用意をしていなくて、口ごもったが、純、それなら映画にしようと提案してきた。純は裏通りにあるミニシアターを観に行こうと最初言っていたが、歩いてるうちに気が変わったらしく、表通りのショッピングモールの中にあるシネマコンプレックスでハリウッド映画を観ようと言った。
「もっとベタなデートが良かった?」
「ベタなデートって?」
スクリーンからフロントに出て、俺のほうを向くなり純は言った。
「遊園地とか」
「映画も結構ベタだと思うよ」
「あら、ごめんなさい」
「いや、ぜんぜんいいよ。面白かったしね」
幸いにも、純の映画の趣味は春希の趣味とは遠くへだたったところにあるらしく、俺と近しいところにあった。戦争映画は正直苦手だったので、言われて少しドキリとしたが、案外観てみればふつうに楽しめた。
「私、友達とあんまり遊んだりしたこと無いから、こういうときにどこに行けば良いのかわからないのよね。日本なら、どこが格好の場所とかもわからないし、インターネットで調べて行ってもなんか如何にも感じがして嫌だし」
「そうか、それじゃあ、むしろ俺がいろいろリードすべきだったのかな」
「あら、リードしてくれるの」
「うん。まあ、それでもたぶん映画になったと思うけどね」
「なあんだ」
純は笑った。
俺たちはシネマコンプレックスが併設されているフロアから一階に降りてフードコートのマクドナルドで昼食を済ませることにした。店内は土曜の昼間ということもあって混んでいた。俺は純と二人分セットを適当に買うと、フードコートの椅子に座った。喫煙席に座ろうと思ったが、純もいるので禁煙席にしておいた。
席に付くなり、純は言う。
「ほんとに楽しかった? 気を遣ってくれてない? 私、さっきも言ったけど、あんまり普段遊んだりしなくて、引っ越し先でもずっと家でパソコン開いて動画サービスで映画みるばっかりだったの。遊びって意外と国ごとに文化が出るものなの。だから、いつも余所者の私にはなかなか馴染めなくって」
純は積極的なように見えた案外インドア派らしい。なら、俺と趣味が合う。
まあ、俺の場合はどっちかというと引きこもり派って感じだけど。
「でもほら、最近の映画って、とくにハリウッド映画とかだと、どこの国でもやってるじゃない。だから、ああいうのだとわりとどこの国でも同じように楽しむことができるの」
「映画は万国共通だね。映画言語というやつだ」
「そう。そんな感じ。ジガ・ヴェルトフね」
純はなかなか詳しいじゃない、という感じでニヤリと笑った。俺が調子にのって、いややはりゴダールと比較して、アランレネやアニエスヴァルダの左岸派はだな、とか言うと、純は、私、ゴダールって苦手で『映画史』以外面白いと思うものがないの、あ、でも『中国女』は好きよ。あなたは? と言ってきた。俺は三秒間、マクドの店員の笑顔を見つめて、物思いにふけると、やっぱり、『勝手にしやがれ』、かな、ラストシーンが印象的だね、と言った。ふーん、私、あの最後にジャンピエールレオが海岸に行くラストシーンの意味がまだわからないの。あれはね、過ちは海に辿りつくっていう意味なのだと思うよ。ほんとに? 確信は無いけどね、でも俺の映画への想いがそう感じさせるんだ。私が言ってる映画はトリュフォーの『大人は判かってくれない』、なんだけど。ええと、飲み物はなにしようかな。ふふ、引っかかったな。
テーブルに着くと隣の緑のセーターを着た小学生が、連れのママ友たちの会話を聴くのに飽きて、俺たちを見つめていた。純は小学生に気づくと、笑って手を振った。小学生は、驚いて俺たちから顔を逸らした。
「悪かったよ。映画なんてTSUTAYAで、ジブリをたまに借りてみるくらいなんだ」
それか、春希の持ってくる変なタイトルの映画くらいだ。おのれ、春希め、こんなときに役に立つ映画をなぜ俺に観せておかなかったのだ。
「変な映画か。『エル・トポ』とか?」
「あ、それTSUTAYAで特集してたから観た」
「TSUTAYA……」
「瞬間移動のシーンは好きだよ」
「そんなシーンあった?」
「ほら、最後にカメラが引いて実は映画の撮影でしたっていうオチのやつ」
「『ホーリー・マウンテン』じゃない」
「うーむ」
「でも、私も『ホーリー・マウンテン』は好きよ。なるほど、瞬間移動のシーンか。確かにあそこは私も好きかも」
「良かった」
「こんどから、みっちり教育してあげるわ」
「え」
「映画のね。本物の映画狂は怖いわよ」
「そういえば、純はいま、どのあたりに住んでるの?」
「あなたのすぐ近く」
「え」
「ウソ。冗談よ。内緒。でも、こんどあなたの家に行って映画勉強しましょ」
「うちなんてボロくて汚いだけだよ」
「大丈夫。どんな家なのかもう知ってるから」
「え」
「うふふ」
「純ってときどき、怖いこと言うよね」
しかし、純はそんな俺の言葉を気にも留めず、立ち上がり、また一本映画に俺を連れ出した。こんどはSF映画だった。古いSF小説をそのまま映画にしたらしい。映画を見終えると、またさっきのフードコートに戻って話した。しかし、悲しいかな、俺には女の人と二人きりで話すにはあまりに経験値が足りなかった。まるで、尋問のような会話に俺たちは終始した。もっとも、それでも、純は楽しそうにしてくれた。
「歳は?」
「やーね、女の子に訊くこと?」
「俺とそんなに変わらない気がする。でも、たぶん年上」
「失礼、失礼」
「いや、顔は幼い」
「やっぱり、失礼」
やめよう。やはり、女の人と年齢というのは相性が悪いという俗説は真実らしい。
「趣味は?」
「映画」
「だね」
それはきょう一日でなんとなくわかった。
「じゃあ、普段は何してるの」
「研究よ」
「バイオインフォマティクス」
「そう。もっと詳しく言うと、私が研究してるのは遺伝子コードをコンピューティングに応用させるDNAコンピューティングよ。だから、菊亜くんの研究室に来たわけ。菊亜くんの研究室の先生ってポスト・コンピューティングが専門でしょ。菊亜くんも確か神経系の構造を利用したニューロコンピューティングの解析とかやってたりするでしょ。すごいわよね、まだ学部生なのに学会でもう注目されてる」
やばい、この会話は地雷だ。ついていけないかも。
「いや、ほんとに菊亜くんは凄いわよ。菊亜くんニューロンコンピューティングとかやってるけど、専門はまた別にあるみたいだし。ええと、専門は確か……」
「毒」
俺はそこでやっと口を挟んだ。菊亜の研究は昔本人から聞いたことがある。
「そう。毒性物質における神経系及び情動ソマティックマーカーに対する情報理論」
「平たく言えば、コンピュータウィルスが人体にどう影響するかって話だって言ってたね」
いや、まったくよくわからん。そもそもコンピュータウィルスって、コンピュータの病気だろ、なんでそんな機械の話が人間に関わるのやら。でも、そういえば、この前、なにか言ってたな。ええと、確か、人間が見ているイメージや音、匂い等の五感は、なんらかの外的な刺激に神経細胞が反応した結果の電気的な作用とかなんとか。
「人間もコンピュータもある意味で電気で動く機械という側面では一致している」
いや、やっぱわからん。俺は神妙な顔をして誤魔化した。
「多分、菊亜くんがやってるのは、コンピュータウィルスが人間の人体に生理学的に直接影響を与えるとか、だからまあ例えばコンピュータウィルスが人間に風邪をひかせるとかそんなんじゃないわよ。つまり、人間に取って毒性作用をもたらす生理活性物質とコンピュータウィルスの両者における情報構造の類似を研究しているのよ。ある意味では、人間に作用をもたらす化学物質だって情報という観点からみれば人間にとってなんらかの制御をもたらすプログラムコードとも言えるしね。塩基配列と同じ」
「天才の発想はよくわかりませんなあ」
俺は諦めて神妙な顔を止めた。
「でも、毒って化学にとってはとても基本的な視座なのよ。人間の物質に対する興味はそれが自身に取って害をもたらすかそうでないか。つまり食べられるか食べられないかってところが出発点だからね。そもそも、毒は神経化学にとってはとても重要な試薬でもある。生命現象の解明するその第一歩として生体構造やその機能を明らかにするためには、人体にある物質がどのように反応するかを観測することが重要なのは間違いないわ。ちゃんと勉強しなきゃダメよ、お兄さん」
また、さっきの映画の話のときのように笑われた。
うむむ、屈辱。
しかし、俺はべつに取り立てて落ちこぼれ学生というわけでは実はない。ただ、この目の前の小川純や菊亜たちのような生粋の科学者の卵ではなく、ボンクラな学生と言うだけだ。そういえば、ボンクラ度合いで言えば、春希も負けていない。たしか、春希は一度レポートで、実験ラットにおける正しい飼育方法という題のものを書いたことがあるらしい。
いや、わりと真面目にやったらしいが。
「私がやっているDNAコンピューティングっていうと、つまり、この前話した遺伝子コードであるATGCの塩基を遺伝的なアルゴリズムとしてコンピューティングに応用するのだけど、そうすることで一般的なコンピューティングつまりノイマン型のコンピュータにおけるシリコン・チップを半導体素子として用いた集積回路よりも多数の並列性が得られるのね。まあ、簡単に言っちゃえば、コンピュータのなかで計算をする役割を持つ存在が増えるのよ。だからより計算手順をたくさん必要とする問題、例えばNP問題とか巡回セールスマン問題とかに対して有効なの」
おお、まだ終わってなかった。誰か、助けてください。ヘルプミー。いや、トラーイ。
「まあ、私も正直数理的な側面はよくわからないの。わりと受け売りなところってのが正直な話。私は特にDNAコンピューティングでも、より生体、医療的側面が強い超微小装置の生体反応を研究してるの」
「ははあ、ナノテクノロジーってやつだ」
「そうよ。でも、ナノテクノロジーって、べつに生体分子とかそう言うバイオ関連だけじゃなくて、量子とかそういう物理側面からの量子力学的なものももちろんあるのよ」
「でも、どうして、そんな研究をしてるの?」
「もちろん、こういったコンピューティングの応用可能性は広いわよ……まず速度が……」
「いや、そうじゃなくて。なんで、DNAコンピュータっていうか。科学者になろうって思ったの」
俺はなんとか話を自分の頭でついて行けるとこに持っていこうと試みた。
「じつは、子どもの頃から顕微鏡を覗くのが好きで」
「ベタだね」
「ウソ。ほんとは違う」
「じゃあ、なんで?」
「うーん、なんでだろ。わりといろんなタイプの人に会うことがこれまで多い人生だったから、なんというか気になったのかな。その人というかその存在というか、そういう個を成り立たせる遺伝子という物質がね。もちろん、遺伝子に優劣なんてないんだけどね。でも、私たちは明確に違うでしょ」
「ほんとうに、遺伝子とかそんなので個性なんて決まるもんなのかね」
「そうね。あなたの言った通り、遺伝子について、私たち個人個人の設計図を調べていけばいくほど、そんな個性なんてものの存在が疑わしくなるわ。確かに、個人個人の塩基配列は違う。でも、それはただのパターンなのよ。基本から少しだけずれて間違っているだけの偏差にすぎないのよ、私たち」
「うーん、やっぱり俺にはよくわからないね。俺は俺だよ。今この場にいて君といる俺以外でもない。DNAにどう設定されようと俺はきょう君に会いたくてここに来たのさ」
「そう言えるのは、幸せね。でも、それすらも遺伝子にコントロールされてたりして、あるいは……」
「さっきの映画みたいだね」
「あなたのDNAには、すでに他人のものが刻み込まれて、ある側面においてはあなたはすでに最初に初期設定がなされて、そこから常にコントロールされていると言えるのかもしれない。もし、DNAによって人間が動かされているなら、それってお父さんとお母さんから受け継いだものってことよね。だから、ある意味で、子どもはお父さんとお母さんによってどのような人生の可能性をおくるか設定されて、その設定のもと作動させられているとも言えるのかもしれない」
「二人の男女によって動かされている」
「そう。だから、人間は外面上は矛盾しているように見えるけど、化学的な即物的観点からみれば全く矛盾してないのよ。そういえば、ルイセンコ主義って知ってる? 昔のある科学者の理論なんだけどね。要はある個体が持っている遺伝的形質はその個体の生後の外的努力によって変化するというものなの。例えば、あなたが生まれつき筋肉がつきにくい遺伝的形質を持っていたとする。でももし仮に頑張って毎日筋トレをすれば、筋肉がつきやすい遺伝的形質に変化するのよ」
「努力すれば報われるってことか」
「そういうこと」
「でも、残念ながら、それはまだ証明されてないわ。もちろん頑張ればあなたにも筋肉はつくでしょうけど、それがあなたのもつ筋肉のつきにくさ、という形質を変えることはできないわ。あなたの子孫は恒久的に筋肉がつきにくい家系ってことになるわ。結局、遺伝子っていう予めの設定プログラムはちょっとやそっとじゃ変わらないのね」
「うーん。俺も遺伝子操作で変えてもらおうかな」
「ふふ、そういうふうに考える人が出てくるから。逆に人は遺伝子などによらない行動によるのであるとか、そんな自由意志を称揚する非決定論がイデオロギーとして必要とされるのかもね」
「確かに、努力が無駄とか言われたら頑張る気なくなるもんな」
「さあ、そろそろ行きましょうか」
俺たちはシネマコンプレックスがあるショッピングモールを出た。
✽ ✽ ✽
俺たちは夕飯を食べようと、適当に駅前でレストランを探したが、どこも混んでたり、いまいちしっくりくる店が無くて、表通りからまた待ち合わせた裏通りを探していた。この街の裏通りは表通りと違って、全く異なる様相を見せる。表通りでは、駅やらショッピングモールのウィンドウに飾られた瀟洒な飾りが街を華やかに彩り、行き交う人も家族連れやカップルで、とても素敵な感じなのだが、裏通りになると、反対に看板のネオがどきつく、○○分~○○円といった感じの文字が躍るのだ。純がこっちは『ブレードランナー』だと言った。言い得て妙だ。
異変を感じたのは、純にやはり表通りで店を探そうと提案しようとして振り向いたときのことだ。
いや、嘘だ。
ほんとは異変なんてちっとも感じてなかった。
俺はなんの前触れもなく後ろから殴られた。
重たい、なにかそれなりに重量があるものが後ろからのしかかってきたようだった。俺の首の筋肉はそれに抗することができず前方に折れ曲がる。そして、あとを追うように、体がそれについて行った。
俺は固いアスファルトの上に前のめりに倒れ込んだ。
アスファルトに強打した頬の痛みを感じながら、俺は目をぱちりと開いた。
なんだ、石にでも蹴躓いたのか。
純が慌てて駆け寄って、俺を起こす。
振り返ると長身の人影が見えた。上から顔を隠すために白いパーカーのフードファスナーを全て上げ切った奇妙な恰好をした姿が威圧感を持って俺たちの前に立ち塞がっていた。パーカーの裾からは黒いスーツ姿とパンツスーツが伸びて、その姿の異様さに一役買っていた。フードには、無造作に二つのぞき孔が空けられており、その奥の眼がぎょろりと俺たちを見据えていた。そいつは左手に短い棒を持っていて、俺は最初折り畳み傘か何かかと思ったが、きょうは雨など一時も降っていなかった。
それはある種の警棒に類するものだった。
つまり、人に暴力を振るうための凶器。
相手を呑気に観察していると、白いフードの人影は一歩一歩近づいてきた。慌てて立ち上がって、抗議の声を上げようとしたが、左頬を殴打され、そのままテナントビルの壁際まで殴り飛ばされてしまった。そいつは警棒で殴って来ずに、右手で殴ってきた。
再び倒れ後頭部を強かに打ち付けた。もう一度、そいつの姿を一瞥した。こんどは近づいて来ずに、睨み付ける俺を睨み返していた。
急いで状況認識を切り替えた。つまり、この状況は何らかの日常の状況ではなく、ある種の異常な状況に巻き込まれたということだ。あまりに唐突だが、異常な状況とはえてしてそういうものだろう。
この異常な状況に対応するべき俺はマスターの言葉を思い返す。
この状況は暴力が発生した状況だ。
マスターは暴力に巻き込まれたときのことについて俺に言った。
――いいか、透、闘いには何段階かの段階という種類がある。その種類の状況に応じて、行動することが重要だ。まず最初の段階は、その闘いがどういった種類のものか見極めろ。諍いから生じた突発的なものや相手がただの馬鹿なら、簡単だ。最初の段階を冷静に認識するだけでイニシアティブを取れる。そういうやつらはただ闇雲にぶつかってくるだけで、その闇雲さには種類がない。一直線の暴力は簡単に手なずけることができる。
俺は暴漢の姿を見つめた。どう考えても、そこらのチンピラではない気がする。もちろん、諍いなんて前触れもない。この状況は突発的なものではない。
やつは、何らかの意図をもって、予め準備をして俺たちを襲っている。
――相手がそれなりの準備をして闘いに身を投じているなら、気をつけろ。それはもう喧嘩じゃなくて戦闘という段階に入っている。
俺は状況を戦闘として認識した。
――そして、戦闘であるならば、次に二つの段階を意識しろ。まずは、最初の一手目だ。相手のどこを攻撃するかを考えるんだ。この段階では必ず、相手の攻撃範囲に入るな。先手を取られる。そして、相手を攻撃するという明確な意思を持て。それが無ければ、お前の攻撃はブレて計算が狂っていく。戦闘というのは肉体を用いた高度な将棋みたいなもんだ。自分が、あるいは相手がこのように行動するからその反応として行動が生まれる。その行動を読み切り肉体を十分に反応させることができれば、安全に闘える。いいか、相手と自分の入出力を考えろ、そしてその度に遷移する状況の中で最適な動作を行え。
徐々に近づいてくるそいつが俺の射程に入ってきたその瞬間に俺は行動を起こした。左で顔にフェイントをかけて、右の拳をそいつの身体の正面に叩きつけた。
一瞬、むにっ、というある種のゆで卵のような弾力が拳に伝わる。奇妙な膨らみと柔らかさがあった。
こいつ女か。
しかし、俺は怯まずに伸ばした腕を折り畳みそのまま肘を相手の顔にぶつけた。
だが、相手は俺の肘をくらっても一切ひるまずただジッと俺を数秒見据えたままだった。
――そして、最後に重要なことを教えてやる。
マスターの声が頭に響いた。
――今言ったことは、全てゲームなら通用する。格ゲーだな。現実の戦闘で、重要なのは……。
――体の堅さだ。
こんどは警棒を持った方の手で殴られた。
三度、女に吹っ飛ばされた。
そして、俺は顔をあげて女を見上げる気力も一緒に吹き飛ばされた。
ぼんやりと、薄目を空けるのが精いっぱいだった。
ダメだ。勝てない。
こんどこそ意識が朦朧としてくるのを感じた。
朦朧としてきているのに、頭だけがジンジン、ジンジンと脈打つようにはっきりと痛みを感じているのを不思議に思った。
こめかみのあたりからほお骨を伝って顎に何かが伝うのを感じた。頬を拭うと色の濃い血が掌にかすれた。
女がまた一歩一歩近づいてきて、やがて屈み込み俺の顔を覗き込むと乱暴に俺の髪を掴んだ。磁石で引っ張られるみたいに、顔を上げさせられる。
霞む目をなんとかこらして、フードに隠れた女の表情を読み取ろうとする。
しかし、女はフードの奥から俺を真っ直ぐ見返すだけだった。
女はまた片手で俺を殴りつけた。
そして、横たわる俺の鳩尾に向かって足の甲を入れてきた。
思わず痛みに呻いた。
目の端から涙が零れた。
鼻水もたれ、顔はぐちゃぐちゃになった。
息もだんだん切れてきた。
何度も、何度も蹴られると気分が悪くなってきて、胃の中でまだ未消化のマクドナルドを吐き出した。
胃液が涙と鼻水と混ざりまた頬が濡れた。
胃液には微かだが血も混じっていた。
久田の言葉を思い出した。
戦争と言う極限状況が子供を産む。
極限状況かも。
はあ、ああ、ああ、痛い。
痛い。
痛い。
ああ。
痛い。
痛い。
はあ。
痛い。
ああ、痛い。
はあ。
ああ、はあ、痛い。
痛い。
ああ。
痛い。
ああ、はあ、痛い。
痛い。
痛い。
ああ。
女は短いナイフをフードから取り出すと俺の頬に当てた。そして、女はナイフを俺の顔から下げ、頸動脈に当てた。
女の表情からは躊躇いも、恐怖も、そして喜びも伺えなかった。ただ、淡々と事務的にゆっくりとナイフを動かしていた。その確実である意味緩慢な動作がまた恐怖を感じさせる。
怖い。
嫌だな、死にたくないな。
なんだって、こんなにも、殴られてたり蹴られたりしなきゃいけねぇんだよ。
痛い。
怖い。
痛い。
怖い。
痛い。
怖い。
ああ、やばい、もう何も考えられない。
貧血かな。
目前がだんだんとスパークしてくる。
ああ、パチパチする。
パチパチ。
菊亜との実験で見た戦場を思い出す。
雨が降って、純とそっくりの少女を泥まみれになって犯していた。
そういや、純はどうしたんだ。
甘い匂いはせずに、今は血の匂いがする。
死にたくねえ。
怖い。
涙と鼻血と胃液まみれ。
地面に血の雫が溜ってる。
母さんのときもこんな感じだったけ。
ちくしょう、なんで、ここで死ななきゃいけないんだ。
こいつなんなんだよ。
あー腹立ってきた。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、なんなんだよ、こいつ、ぶっ殺してやる。
死にたくねえ。
生きたい。
こいつ、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
あ、頭の中で、菊亜の顔が浮かぶ。
ちくしょうあいつのせいだ、あいつも殺してやる。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
生き残らなきゃ。
生き残らなきゃ。
生き残らなきゃ。
生き残らなきゃ。
生き残らなきゃ。
殺す。
生きるために殺さなきゃ。
殺す。
俺は素手でナイフの刃を掴んだ。
とにかく、いまは殺すことだけを考えなくちゃ。
そうしなきゃ、死んじゃうから。
「目覚めたね」
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す 殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す殺す 殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す 殺す
殺す 殺す殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す殺す殺す 殺す殺す
殺す 殺す殺す殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す 殺す殺す殺す殺す
殺す 殺す殺す殺す
殺す殺す殺す 殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す 殺す殺す
殺す 殺す
殺す殺す 殺す殺す 殺す殺す
殺す 殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す 殺す殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す
殺す殺す 殺す殺す殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す
フードの女が倒れ込んでいる俺を覗き込んで言った。
女はナイフを引っ込めて立ち上がり、俺を見下ろした。
女はもうそれ以上、俺を蹴りつけてこなかった。
だが、俺は警戒を解かず、不意をついてナイフを奪い、どうやって女に突き立てようかという算段を立て始めた。
そして、俺は笑った。
✽ ✽ ✽
目を開けると、逆さにした椅子がテーブルに乗っているのが目についた。まだ、開店前なのか、それとも逆に閉店前なのか、よくわからないので、俺は時計で確認する。八時半ごろだった。だとしたら、開店前でも閉店前でもない。椅子とテーブルには見覚えがあった。俺はソファの上で体を起こした。なんだか、関節がとても痛い。膝もとに頭に載せられていた濡れタオルが落ちた。
《FRIEDEN》だった。
8.
後から聞いた純の話で、俺が憶えていたのは、ここまでだった。つまり、俺があのフードの女に意識を失いかけるまで何度も執拗に蹴られ、そのうち急に頭に血が昇って逆上し(いや、どう考えても逆上でも何でもない。正当防衛だ)、女に襲いかかろうとしたら、純に手を引かれてなんとか逃げ果せた、というところである。正直に言うと、やたらめったに蹴られて内臓破裂寸前のところからもう記憶は危うい。もう、逃げてる最中は無我夢中で全く覚えてない。
「ほんと、びっくりしたよ。今日は退役軍人会の集まりがあるから、店を閉めて出ようとしたら、ちょうど、身体じゅうぼこぼこで、もういまにも倒れそうなって、しかも女の子を連れた透が現れたんだからな。しかも、ほんとにそのまま店の前で力尽きるし」
マスターが俺に水を渡しながら言う。
大丈夫? と純が俺を覗き込む、手元には汚れたタオルがあった。どうやら、顔の汚れは拭いてくれたらしい。ありがたい。
「それにしても、怖いねえ。やっぱり、最近流行りの暴行犯かい」
マスターにしては珍しく声が弾んで興奮していた。
「いや、女だった」
「へえ、随分強い女がいるもんだ。もう、男だとか女だとか関係なくみんな暴力だ」
思いたって慌ててズボンのポケットを確認してみる。きっちりと、財布は入っていた。
「なんだよ、物盗りでもねぇんだな。それじゃあ、ぶん殴りたいからぶん殴られたってわけか。ますます怖いな。不気味だな」
俺はまた、ソファに寝転がった。背中を曲げると関節が否応なしに反応して痛んだ。頭もまだはっきりとしない。
俺は頭を手でおさえた。
「ごめんね。私が誰かすぐに呼びに行けば良かったんだけど……。怖くてしばらく動けなかった」
純は手に持っていた汚れた布巾を強く握った。
「いや、あんな状況になったら誰でもそうだって」
あれはまったく唐突で不条理な異常な状況だった。ただでさえ、逃げ出さずに留まらずにいただけでも純はたいしたものだと思う。ましてや、パニックになりながらもなんとか助けてくれたのだ。
それに……。
俺はいまも痛む頭のなかに微かに残っているあのときの感覚を思い出した。
もし、あのままあの場にいたら、俺は勢い余ってあの女を殺してたんじゃないだろうか。
なんとなくそんな気がする。
記憶はあいまいだが、俺は自分のなかで芽生えた明確な感覚そのものは、はっきりと覚えていた。いま思い返しても、自分のなかにあんなに激しい感覚があるとは信じられなかった。その感覚はきわめて奇妙なものとしていまも俺のなかに残っていた。
殺意?
その言葉がいちばん近いように思われたが、なにかがそれを俺にそう名付けさせることを躊躇させていた。そう名づけて片づけてしまうと決定的になにか本質を誤らせてしまうように思える。そんな感覚だった。
では、それはなんなのか。
俺はもう一度頭をおさえた。
頭痛がさっきよりまたひどくなっていた。どうも、熱まで持ち始めてるようだった。
痛む頭を堪えて、俺は懸命にその感覚に相応しい言葉を探す。
恐怖。不安。怒り。興奮。懐かしさ。快感。楽しさ。
そうだ。
恐怖や怒りだけではなく、そこには快感や楽しさといったものまで含まれていた。
快感? 楽しさ? それに懐かしさ? あの状況でなぜ?
俺はさらに自問を進めようとしたが、ここで純が声をかけてきた。
「ほんとに良かったあ。殺されちゃうかと思った」
純がもう一枚タオルを絞ってくれた。俺は受け取ろうとしたが、純は渡してくれず、代わりに思いっきり抱き付いてきた。
ここで遂に純の緊張が解けたのか。純はほろほろと泣きだしてしまった。俺は肩に温かい純の涙を感じた。俺は抱き付いている純を無理矢理離そうとはせず、そのまま後ろから頭を撫でてやった。
「怖かったあ」
マスターはそんな俺たちをみて、微笑んだ。
俺は少し恥ずかしかったが、純が離れるまでは自分から離そうとは思わなかった。
「それじゃあ、俺は行くよ。今日はちょっと大事な会なんでな」
マスターは立ち上がって俺たちに言った。恐らく、当初の予定を済ませに行くのだろう。
「透、今日はうちの店に泊まっていきな、まだ、あんまり動かないほうがいいだろ。純も泊まっていきな。なんなら、透をみておいてやってくれ」
「いいんですか」
「もちろん。暴漢が出るんだ。一人で帰っちゃ危ないだろ」
女だったけどな。俺は声に出さずに頭の中で訂正する。
「ありがとうございます」
「いいってことさ。たぶん、俺は会のあと、そのまま帰って来ないよ。戸締りはしっかりな。朝になったら、また鍵締めて勝手に出て行ってくれていいから……。透、鍵の場所は知ってるな。飯も食いたきゃ勝手に店のもんつまんでくれていいぞ」
そういって、マスターは出て行った。
「もしかして」
純は言った。
「私たちに気を遣ってくれたのかしら。いい人ね」
「いや、たぶんほんとに大事な会なんだよ。マスターは退役軍人会のけっこう偉い人らしいんだ」
「退役軍人会? それじゃあ……」
「そう。マスターは元自衛官なんだ」
「へえ」
「それにしても、よくここがわかったね。ひょっとして、前にも来たことあるとか」
そういえば、さっきマスターは彼女のことを純と親しく呼んでいた。じつは結構な常連なのだろうか。
「え、ああ、あなた、走りながらこのお店のことをうわ言みたいに言ってたから」
なんだ、そういうことか。
「それにしては、マスターと知らない感じではなさそうだったけど」
「あなたが寝てる間にあなたのことをほんの少し教えてもらったのよ」
え、余計なことを言ってないかな。
「ふふ」
純は笑った。
「でも、マスターさん、あなたのことを随分大事に思ってるのね。まるで、自分の息子の話をするみたいだったわよ」
「菊亜と同じだよ。腐れ縁みたいなもんだよ」
純は椅子からたち上がって、わざわざ俺のソファの横に座った。そして、包帯が巻かれた俺の掌を握って、
「あなたは素敵な友達がたくさんいて、幸運ね」
「そうかな」
「そうよ」
俺はちょっと恥ずかしくなって黙った。
何となくバツが悪いのを誤魔化そうとしてテレビをつけた。
きょうは婦女暴行事件の特集はやってないみたいだった。
俺は少々拍子抜けした。もしかしたら、俺たちを襲った奴のことがすぐにでもわかるかもしれないと思ったが、そんなことはないようだ。
まあ確かに、あの女が犯人とは限らないだろうけど。
そういえば、今回の件は警察に行った方がいいんだろうな。
俺は何となくめんどくささを感じて苦い顔をした。
報道は代わりに先週の南方諸島独立紛争戦没記念式典の様子をやっていた。
もしかしたら、マスターの用事とは、これと何か関連してるのだろうか。
マスターの話によると、南方諸島独立紛争退役軍人会はその名の通り南方諸島独立紛争に従軍した帰還兵から構成される退役軍人会だ。主に傷痍軍人となって帰ってきた兵士及び戦死した兵士の遺族に対する経済的な面を主としてその他様々に至るまでの援助組織ということらしい。マスター曰く、そういう人たちにはもちろん国から補償金やらなんやらがあるそうだが、やはり全然それではうまくいってないらしい。そこで実際に戦地に行った仲間同士で互助することを目的に立ち上がったのが南方諸島独立紛争退役軍人会らしい。会には我が国の最重要課題であった戦争に直接かかわった軍人、そして行政の省庁のそれもかなり上の役職の人たちに容易にアクセスできるくらいの官僚もいるらしい。現在に至っては表立ってはあまり出てこないが、退役軍人会はちょっとした政治団体の様相も見せ始めているとのことである。そういえば最近、退役軍人会が青年海外協力隊などの国際協力機構や海外のNGOと連携して国際的な平和活動も行っているというニュースを見たような気がする。そしてマスターはなんとそこの副理事だったりするらしい。なんだか、ちらっときくだけで結構すごそうなのだが、なぜそんなおじさんがバーのマスターをやっているのだろうか。これはちょっとしたミステリーである。まあ、本人によると副理事と言っても自分は事務仕事が大嫌いだから、どこかの若い官僚に代行してもらっていると言っていたが。
「そういえば、うちの母も南方諸島独立紛争に行ってたんだよ」
俺は純と二人でテレビの方を向きながらふと洩らした。
「え」
純がテレビから振り返って困惑した表情を俺に見せた。
「ほら、前に少し話したろ」
少し、ぶっきらぼうな口調になった自分を意識する。
「でも、亡くなったって……」
「あ、でも、べつに戦死したわけじゃないんだ。うちの母は、つまり陸上自衛隊衛生科東部方面衛生隊所属普通陸上部隊陸曹長殿は、――女の人でも殿でいいのかな――立派に戦地での任務を全うして帰還してきたよ」
「じゃあ、どうして」
「ほんと、どうしてなんだろうね」
正直に言うと、俺は今でも母がなんで死んだのか明確にはわからない。
いや。
そうではないのかもしれない。
母の死はとても明確だった。ある意味では分かりやすすぎるくらいだとも言えた。けれど、それがわかってしまうことがなにやら好ましくないことのように俺は思っているのかもしれない。
なぜか。
たぶん、母の死、それに明確ではっきりした言葉が与えられてしまうと、その明確ではっきりしたそれを俺は受け入れなくてはいけないような気にさせられるからだ。
「母は……」
そうだ。
わからないわけはない。
母の死はこれほどまでにないくらい明確だ。
「母は自殺したんだ。帰還してしばらく経った日にね」
女性自衛官というのは確かに今でも案外珍しいのかもしれない。もちろん、冷静に考えればちっとも変じゃないし、とくになんということでもない。ただ、その存在を示されると、あっ、と思うくらいだ。まるで何か忘れ物を思い出したみたいに。
そういえば、いてもおかしくないよな、と。
俺は純に母のことを話し始めた。なぜだろうか。
「うちの母は明るい人だった。紛争が始まるまでは、訓練が多かったけど、そのせいか仕事と生活のリズムが規則正しいみたいで家にもちゃんといるときにはいた。もちろん、二三日帰って来れない日もあったけど、俺も子ども心にちゃんと理解していた。母が家にいるときは家事をいっしょにしたし、遊んでもくれた。キャッチボールこそしなかったけど、よくバトミントンはしたよ。紛争が起こって出征するって決まったときそりゃちょっと嫌だったけど、母は衛生兵だったからね、すくなくとも一般の戦闘員よりかは危険は少なかったと思う。母は俺にちょっとした出張みたいなもんだって言ってた」
衛生兵は一般的にはジュネーブ条約で保護され戦闘においてもその攻撃対象に置かないようにされている。ただ、もちろん、それは一般的には、という話で戦略上重要な地位を占める衛生兵に対する非公式な攻撃はあるのだと言う。そもそも、南方諸島独立紛争においては、国家間による紛争ではなくむしろ内戦という向きが強い。そのため、自衛隊が相手とするところも独立民族戦線であり、民兵であった。そのためジュネーブ条約などはもとより国際法や従来の規定などはあまり力を持たなかったろう。
「俺が小学五年生くらいのころに紛争は終わった。母はきちんと帰ってきたよ。表面上は従軍前と何ら変わらないように見えた。母は帰還と同時に退役したけど、その代わりにすぐに近くの病院で非常勤の看護師として働くことになった。むしろ、仕事は自衛官だったころより忙しくてより充実してそうだった。学校から帰ると、夜勤明けで眠っている母を見た。よく眠っていて、俺は戦地がどんなものか知らないけど、毎晩うなされて目が覚めるとかそんなのは、なかった。ただ、前より少し潔癖になっていたような気がする。それから風呂にもよく入るようになったし、食べる量も増やしたみたいだった」
俺は純に話しながら自問する。
本当に俺は母の異変に、その死の兆候に気づいていなかったのだろうか。
もしかしたら、俺は気づいていたのかもしれない。
そして、気づかないふりをしていたのか。
それとも、母が死んでから、気づいてなかったことにしているのかもしれない。
今となってはもうわからない。
確認することができない。
だから、俺は純に事実だけを伝える。
「前触れなんてちっともなかったよ。ただ、母が帰ってきて一ヶ月もたたないある日に母は俺の部屋で首をつっていた。いちばん最初に見つけたのは俺だった。そのことはよく憶えてるよ。学校から帰ってきたらさ、チャイムを鳴らしても誰も出ないんだ。それで、鍵で開けようとしたんだけど、すでに空いてたんだ。誰かいるのかなって思って家に上がるんだけど、電気は一つもついてない。俺はちょっと不気味になってそーっと自分の部屋に鞄を置きに行くと、足元が床から五十センチも浮いてる母とご対面ってわけだ。右に左に母は規則正しく、まるでフーコーの振り子が回るみたいに回転していた。苦しんだんだろうな、口からは涎たらして、顎には掻き毟ったあとがあった。首つりをやると眼圧っていうのが上がって、眼がこうぎょろって感じで出てくるんだ。だから、死んでるのに、こっちをずっと睨んでいるみたいでそれが一番怖かった。でも、いちばんよく憶えてるのは、母の股の間からずーと血が垂れて、下で血溜まりができていたってこと。母の遺体を解剖した監察医がわざわざうちにきて祖父母と話しをしていたのを覚えている。そのときは訊かされなかったけど、後から聞いたら、母はしばらく前に誰かと性的交渉をした痕跡があったらしい。たぶん、妊娠してたんだろうな。母が子を宿したのは、どうも従軍して南方に行っていたあいだみたいなんだね。それはちょっとびっくりしたかな」
そこまで話すと水を飲んだ。いざ話すとなぜこんなに冗長になるんだろう。
「母は衛生兵だったから、別に戦場で人を殺したりとかそんなのはなかったと思うんだ。もしかしたら、前線に出ることもなかったのかもしれない。でも、母はそこで戦争からなにかを貰ってきてしまったように思う。うまくいえないんだけど。それは……」
それはなんなんだろう。続く言葉を探す。
「それは母が自ら死を選ぶことによって、この世に産まれることはなかったものなんだ。きっとね」
いや、結局この言葉は逃げだ。探しきれていない。
母が宿したその子供はなんだったんだろう。その答えになっていない。
俺にはわからなかった。
母が流産したそれはなんだったんだろう。
少なくともいま、俺が語れるのはここまでだった。
純は俺を見つめていた。
話しているあいだ俺はまっすぐ、どこともなく純に左側を見せ続けていたようだった。俺はただのピクリとも動かず、とにかく、勢いをつけて途中で止まることのないように一気にただ口だけを動かしていたようだった。
「それで、透はお母さんが死んでどう思ったの」
純は訊く。
聞きようによっては、ひどくナンセンスな質問なように思える。
身内が戦争に行って、それから帰ってきて、自殺して、あなたはどう思いますか、なんて。
悲しかった。
当然だ。
家族を亡くすのはきっと誰だって辛い。
だけど、純が俺から聞きたいのはそんなセリフではないのだろう。
それはわかっている。
悲しかった。
そんなあたりまえのことを、だけど、俺個人の口からどんな風に唯一のものとして話しうるのか。
たぶん、純が訊きたいのはそういうことなんだと思う。
俺は母が死んで何を思ったろうか。
どんな風に悲しく思ったろうか。
「それを訊いてどうするの」
しばらく答えるための時間稼ぎがしたくて、訊きかえした。しかし、
「知りたいの」
と、純は間もなく答え、俺に考えさせる時間を与えなかった。
仕方ないので、つまりながら答えを探す。
「俺は……、俺は……。そのとき……」
参った。
ほんとうに言葉が出てこない。
俺は。俺は。と、意味もなく、主語だけを繰り返した。
わからない。
話せない。
なぜだろう。
俺は純の方を向いた。
そして、俺は大きく息をつくと、辛うじて純に言葉を遣った。
「……、わからない。その……、ただ……、」
ただ? 純は続きを促す。
俺は答えるか迷った。
短い沈黙。
なんだか無性に煙草が吸いたくなっていた。
俺は答える。
「君は俺の母に似ている気がする」
答えになってない言葉を発する。
まるでちぐはぐな答え。
俺はどうして、そんなことを口にしたんだろうか。
もちろん、容姿の話じゃない。純と生前の母の年齢は離れている。顔なんて似ても似つかない。だとしたら、性格。いや、それも違う。純と母は似ていない。少なくとも表面上は。内面とか性格とかそんな簡単に言葉にできる部分が似ているというわけではなかった。
ただ、俺がいま口にした言葉は俺にとっては事実だった。
純は一瞬だけ俺から視線を外し、そう、とだけ漏らした。
そしてテーブルの上の水を一口だけ飲んで俺に向き直ると、俺の口を一気に塞いだ。
飲み干したグラスの氷が音を鳴らした。
冷水の冷たさを俺は純の口から感じた。
俺は純の頬を両手で乱暴に掴んで繋がっている唇をさらに自分の内側に押し込んだ。
純もそれに応えるように、舌を喉の奥に差し入れてくる。
冷たさが少し温い微温に変化した。
俺たちは長く互いの唇を求めあうと、息を吐いて、額をあわせた。
「愛してる」
純はすこしも笑わずに、むしろ侮蔑さえ含んでいるような表情で言った。
俺はもう一度、純の唇に絡みついた。
互いに抱きしめた両手が、蛇のようにうなって互いを弄りあった。
外からは雨音が聴こえる。
雨に反射した街燈の光が拡散している。
スカートを持ち上げて、その下のショーツをズラす。
純が後ろに倒れ込み、俺がそこに被さる。
純が両手を伸ばし、俺のベルトを外す。
ベルトの金属音が妙に大きく聴こえた。
純は両手を移動させて、俺の首に這わせる。
俺の首をきつく締めた。
俺はその間にシャツの下から手を入れ、補正下着をずらし、乳房を直接掴んだ。
首を締めていた手がさらにきつくなる。
純はクっと声をあげるのを堪える。
その顔に俺はいつか見た恋人を貪る女の嗤いを重ねる。
戦争。
雨の音はさっきよりももっとずっと強くなって迫ってきた。
俺はショーツを完全に脱がせ、触れる。
堪え切れずに大きく息を吐く純の口をまた塞ぐ。
生暖かい呼気が俺の肺に逆流する。
準備も戯れもなかった。
俺たちは性急に繋がった。
口を解放すると、純はもうなにも遠慮せずに、大きな声を出す。
何度も、何度も。
俺は揺れるたびに、目の前がまた弾けるのを感じる。
さっき、女から殴られてたときのように。
感覚が全身を埋め尽していく。
そして、母が流産した何かを感じとる。
全身の感覚器に耐えきれないほどに注ぎ込まれて、俺はすでに溢れそうだった。
声をあげ続けている純の顔に近づいて、何が聴こえる、と尋ねた。
銃声。
純は途切れながら応えた。
泥まみれの木々が生い茂る浜辺が見えるジャングルに俺たちはいた。
うって。うって。と、純はなんども懇願する。
うって。
うって。
うって。
銃声。爆発。断末魔。そして、血が流れる。
うって。
うって。
うって。
俺たちは戦場にいた。
✽ ✽ ✽
「やっと、逢えたね」
「また、戦場で待ってる」
9.
翌朝になってだいぶよくなった。少なくとも頭の熱はすっかりひいているようだった。俺はもう一度、純に傷口の絆創膏やら消毒をやり直してもらった。意外なことに包帯はもう取ることができた。ひととおり終えると店を出た。鍵はマスターの言った通りいつものところにあった。俺と純は駅まで一緒に向かうと、そこで分かれた。
俺はなんとか電車のなかで眠気を堪えて、乗り過ごさないように気をつけて、電車を降りた。渇いたアスファルトを踏みしめて、アパートに辿り着くと、ベッドに倒れ込んだ。
ただのデートのわりにいくつか重要なことが起こった。
ベッドに顔を埋めながら考える。
暴漢、というか女に襲われて、殺されかける。
純に母のことを話した。
純と……。いや、これについては濁してもよかろう。もごもご。
そういえば、最初は何をしに行く予定だったんだっけ、ぼんやり思いかえす。ああ、そうだ映画を観に行くつもりだったんだ。それで適当にご飯食べて帰るはずだったのに。
行為を終えたあとの純の表情を思いかえす。
やっと、逢えたね。
純は行為を終えたあとぽつりと言った。
俺はときおり見えるイメージについて考えた。
あの、泥にまみれて、銃声がして、砲弾が飛び交う、浜辺の見えるジャングル。
純はあの光景を見たのだろうか
やっと、逢えたね、か。俺はいちばん最初に出会った純を思い出す。
大丈夫、また逢える。
いまはまだ名前がない。
テレパシー。
見えているのかもしれない。
そして純は何かを知っているのかもしれない。
たしかに根拠はない。だが、純はまたこうも言った。
また、戦場で待ってる、と。
また、ってなんだ。俺は再び考え直す。
俺はあの光景を頭の中でさらってみる。あの感覚のときほど、鮮明には浮かばない。だが、それでも覚えていることはある。例えば……。例えば、蹂躙している少女の表情。純とまったく同じ顔をした恍惚と恐怖の坩堝のなかにいる少女。あれは、純なのだろうか。だとしたら、あれは純が経験したことなのだろうか。懸命に、そしてときどき呆れたりからかったりしながら、幼い頃の話、遺伝子や神経の科学、そして映画について話す純と、あの極限状況にいる少女、二人は同じ一つの像で結ばれるべきなのだろうか。
これ以上考えても何ひとつわかりそうになかった。
こんどは自分に起きた変化について考えてみる。
俺の身に起きた変化、ときおり繰り返し現れる光景、そして付随する感覚、暴力女。
とりあえず、暴力女の件に関しては警察に行かなきゃな、と思う。物盗りでは無いみたいだが、ではなにが目的だったのだろう。女は暴力を振るってきた。俺は繰り返し事実を確認する。ナイフを持っていたことを考えると、いつでも俺を殺せたのだろう。俺はその事実にゾッとするが、とりあえずその恐怖をなんとか振り払う。しかし、改めて思いかえせば、あの時の女には殺意はなかったように思えた。ナイフを取りだしたときは恐怖でいっぱいになったが案外むこうにはそれで刺してくる気は無かったのかもしれない。
だって向こうはいつでも殺せたんだから。
あの女はひたすらに何かを確かめるような、何かを待っているようだった。では、何を。もう一度、思いかえす。
頸動脈にあてられたもののいっこうにひかれないナイフ。
そして、そのときに感じた宙づりにされる死の恐怖、そして怒り、というかとにかく生き延びようとする感覚。
そうだ、女はきっと俺のなかのその感覚を待っていたのだ。
そして、その感覚はいつもあの光景と結びついている。
純と共に感じたあの光景と。
女は言っていた。
目覚めたね、と。
わからないことは増えて行くばかりだった。だが、理解できないことは理解できないことどうしで繋がった。そう、あのジャングルの光景に繋がる。
俺はあの光景とそれに結びついている感覚について考えてみる。
あのジャングルは何なのだろう。俺はどうしてあのジャングルに既視感があるのか。
そこで俺は思い至る。
いちばん最初にあのジャングルをみたのは、菊亜と一緒にディスクの実験を……。
しかし、雑念が入る。
そういえば、春希を最近見ていなかった。
元気が無いから見てやってくれ、菊亜の困惑した表情が思い出される。
そうだ、様子を見に行ってやらなきゃ。
俺はうつ伏せになったベッドのなかで目を強く瞑る。
一休みしたら、今日は菊亜を誘って、春希の様子を見にいこう。そして、そのときにもう一度、菊亜にあのホテルの忘れ物だったディスクを調べてみるように頼んでみよう。ここまで考えて俺は力尽きた。
俺はそのままうつ伏せのまま眠った。
✽ ✽ ✽
ノックの音で目が覚めた。時刻を見ると、丁度三時を過ぎた頃だった。この前みたいに春希が来たのだろうか。また、鍵を閉めていないから勝手に入ってくるだろう。俺は立ち上がらずに来るに任せた。しかし、来客者はもう一度ノックをした。俺は妙に感じて、ベッドからしぶしぶ起き上がった。春希じゃないとすれば、菊亜か、と俺は思った。丁度いい、こちらから会う手間が省けた。いや、もしかしたら、マスターか純かもしれない。暴漢まがいの女に襲われたのがきのうの今日だから様子を見に来てくれたのかもしれない。
俺はアパートの扉を開けた。
春希でも、菊亜でもなかった。ましてや、マスターでも純でもなかった。
アパートの大家さんだった。
しかし、俺に用事があるのは明らかにその背後にいるスーツ及び制服を着た大男たちだと思われた。
いちばん小奇麗なスーツに身を包んだ男が、俺に自らの身分を示し、要件を伝えた。
――警視庁より来ました者です。我々はあなたに我々が現在捜査している複数の強姦事件に対する嫌疑をかけています。つきましては、あなたを被疑者として、あなたとあなたの本宅であるこの部屋に対して捜査を行いたいと思います。あなたはまず、私たちとともにあなたの部屋の家宅捜索に同行していただきます。その後私たちとともに××署まで同行願います。その後あなたは所内で調書作成及び取り調べを受けていただきます。以上のことは、××裁判所による令状発布のうえ行われている正当な捜査活動です。よって、あなたには我々の指示にしたがっていただく必要があり、法の下で保護、適用される事由以外に関して拒否する権能はありません。どうぞ、よろしくお願いします。また、我々はあなたに対して、規定の四十八時間をこえる長期の取り調べが必要であろうと判断しています。そのため、検察によって送検手続きを取り拘留請求を行ってもらうつもりです。ですので、当座の着替えをご用意ください。それでは、先ほどの説明の通り家宅捜索より始めさせていただきます。着替えの準備がありますから、まずはクローゼットから始めましょうか。
Ex.
薄暗い通りをぬけ、光る看板を見つけ扉を開けると、純は店のなかに入った。
すれ違いざまに、若い質の良いスーツを着た男が横を抜けていった。純は慌てて、わきに避ける。男は避けた純に軽く会釈して、それから扉の前に立つと店内に振り向いて、
「それじゃあね、マスター、また話きかせてよ」
カウンターのなかに立つマスターは、おう、と返事して快活そうに頷いた。
純はそのマスターの表情に違和感を感じる。
男が店を出て行った。純は適当にカウンターに座る。店内は空いており、ほかに客はラフなパーカーを着た若い男が一人いるくらいだった。純はマスターに話しかけた。
「いまのも、被験者の一人ね」
マスターは手拭ををカウンター越しに純に渡しながら応える。
「そうだよ。あいつは、うちの会で雑務をやってくれている官僚の後輩でね。いまはちょうど東大の四年だそうだ」
「へえ、まだ学生なのにスーツなんて着ちゃって……。仲良いの?」
「よく来るんだよ。そんで来るたびに、戦争の話をせがんできやがる。俺はまあ、戦争経験を語り継ぐおじいちゃんってところだな」
「あなたは、まだ40代でしょう」
純は若いという意味で、口ではそう言ったが、それは実際に純がマスターから感じる印象とかけ離れた言葉だった。
純はこれまで仕事の関係でさまざまな「職業人」たちとあってきたが、マスターはそのなかでも、特異な印象を純に与えた。純はマスターから老いを感じる。それは、彼女が出会ってきた「職業人」たちのなかでもごく少数の者たちだけから感じるものだった。
「処方箋はいただいているんだがな」
マスターは純ではなく、奥に座るパーカーの男にまるで諧謔であるかのように笑いかけた。
男はなにも答えを返さなかった。
「単なる後遺症ってだけでもなそうね」
「いや、後遺症さ。戦争のね」
純は黙った。そして、再び口を開く。
「八島透が拘束されたわ」
「早いな」
マスターは表情を変えずに言った。
「白々しい。最初からこうなることはわかっていたんでしょう。そもそも、透は今回の件には、なんら関わる予定は無かった。グループから入手したリストには彼の名前はなかった」
純は「仕事中」の言葉のなかで、彼のことを透と呼んでいることを苦く感じた。彼は純にとって単なる「仕事相手」だ。それはこれまで彼女が生きて接してきたすべての人間と同じ種類の人間のはずた。
いや、と純は思った。