桃太牢
別に、ヒーローになりたいわけじゃなかった。
ただ、あの日の出来事が、俺の人生を劇的に歪ませた。
俺は、森の中にある小さな社の階段に座っていた。
ちょっとしたスペースがあるここには、社のほかに祠や石の像が置かれている。それらの背は大人たちの腰より少し高いくらいで、まだ幼い俺たちにも馴染みやすい高さだった。
「誰も来ないな……」
この場所は村の子供たちがよく遊びの集合場所にしているところだ。今日も、俺を含めて十人ほどがここに集まる予定だった。
約束の時間よりけっこう早く来てしまったせいで、俺は一人で暇を持て余していた。いつもなら他に二、三人くらいが既に来ていることもよくあるが、今日は運が悪いらしい。
ちょうどそう思ったとき、社の裏の木々から葉の揺れる音が聞こえた。
「……ぁ、一夜くん」
見ると、木の陰から菜子が顔をのぞかせている。
「よう、菜子」
俺が手を振ると、菜子はこちらに駆け寄ってきた。一瞬、菜子の顔に焦りの色がよぎった気がしたが、どうやら気のせいだったようだ。いつものように無垢な笑顔を浮かべて俺の隣に座る。
「珍しく早かったんだね」
「そうだな、他のやつが来てないから暇してた」
他愛もない話をしながら、俺は知らず菜子の方を眺めていた。ショートカットの髪を風に揺らしながら、ぱっちりした黒目を細めて楽しそうに笑っている。その笑顔を見ていると、胸のよくわからないところが小さく高鳴るのだった。
このまま、誰も来なければいいのに。
「ね、一夜くんは知ってる?」
そんなことを考えていると、菜子が祠の方を指差しながら聞いてきた。
「あの祠はね、桃太郎を祀ったものなんだって。だからいつもキビダンゴが供えられているの」
俺は菜子の顔をじっと見ていたことに今さら気づき、少し焦りながら祠に視線をやった。
その類の話なら、俺もおじいさんやおばあさんから聞いたことがある。
桃太郎は悪行の限りを尽くした鬼を討ち、島の人たちの平和を守った。だが、鬼との闘いは熾烈を極め、桃太郎はそこで自身の命も落としてしまう。
その後、桃太郎がその命を以て鬼を討った鬼ヶ島の地では、一年中キビの花が咲いたという。
「まあ、伝説だからどこまで正しいのかはわからないけど」
俺がそう締めると、菜子は感心したような顔を向けてきた。
「やっぱり、一夜くんは何でも知ってるんだなぁ。学級長なだけはあるね!」
菜子のキラキラした瞳がむず痒くて、俺はそっぽを向いた。ちょうど西の空では夕暮れの陽が燃えていたので、たぶん頬に朱が挿していても気づかれないだろう。
「私ね、キビダンゴあんまり好きじゃないんだぁ」
菜子は祠の前に供えられている団子を見ながら言った。
「鬼はキビダンゴが嫌いってこと聞いたことあるけど……」
そう言われて思い出してみる。村には、そういった都市伝説のようなものがいくつかあったはずだ。
「まあ、噂なんてだいたいはウソだ。俺だってそんな好きじゃないし」
大方、桃太郎が死んだのちに咲いたと言われるキビの花と、キビダンゴが結び付けられてできた話に過ぎないだろう。よくある作り話だ。
俺は祠の前まで行くと、そこで静かに膝を折った。祀られている団子は作られてから時間が経ったのか、干からびて表面がひび割れてきている。
甘いような苦いような、つかみどころのないキビダンゴの味が俺は嫌いだ。だいたいの子供はそれを好むので、なんとなく疎外感を覚えた時期もあるにはあった。
「別に個人の好みなんだから、気にすることねぇよ」
ぶっきらぼうに言うと、背後から「……うんっ」という声が聞こえてきた。
俺はそれに満足して、何とはなしに祠を眺めていると、
「……ん?」
独特の異臭が、俺の鼻先をかすめた。
気のせいかと思い、嗅覚に神経を集中させると、やはり言いようもない生臭さが周囲のどこかから発されている。胃を刺激するような、嫌な臭いだ。
「なぁ、菜子。なんかこの辺、変な臭いしないか?」
俺は振り返りつつ言った。
「……ぇ。いや、別にそんなことないと思うけど」
菜子は少し大げさに首を横に振って答える。そう言われてみれば、俺の勘違いかもしれないという気もしてくる。ただ、彼女の顔が一瞬こわばったのは見間違いだろうか。
俺は目を閉じて、再び鼻先に意識を移した。この一帯にも風が吹いているため、その向きによっては臭いの尾を捕えるのが難しい。
俺は風が収まるのを待って、異臭の有無を確かめようとした。
だがその前に、先刻のものとはまた違う臭気が鼻をついた。背後だ。
「…………」
俺が後ろを向くと、ほとんど目と鼻の先に菜子が立っていた。それにも少し驚いたが、俺が本当に戦慄したのはそこじゃない。
――鬼、だ。
菜子のさらに後ろ、俺たちがさっきまで座っていた社の陰から、紅く不気味に光る二つの瞳がこちらをのぞいている。伝承で聞いていたわけではないし、もちろん実際に見たことなんてないが、それが鬼のものであることはなぜか一瞬でわかった。
そして、本能の叫びが告げる。
――逃げろ。
俺は言葉を発するよりも先に、菜子の手をとって駆け出そうとした。だが、俺の表情に気づいた菜子が、それよりも早く後ろを振り向いてしまう。
「……ぇッ……」
鬼の眼光が菜子を射すくめる。一拍遅れて、菜子は腰を抜かした。握った手からその震えが直に伝わってくる。
菜子は走れない。
そう認識した瞬間、俺は菜子を庇うように彼女と鬼の間に立った。守ろうとか闘おうとかいう意思はなかったように思う。ただ無意識の行動だった。
だが、鬼がその姿を見せたとき、俺は怯んでしまった。
下の歯列から突き出したむき出しの牙、頭部に生える硬く尖った角、岩のように巨大で剛強そうな体躯。
恐怖が湧き上がる。
それを少しでも打ち消すために、俺は必死に思考を巡らせる。
闘う? あんな巨躯とどうやって。逃げる? 菜子は走れない。助けを呼ぶ? それまでの時間稼ぎはどうする。
答えを出すよりも先に、鬼が一歩こちらに近づいた。俺はとっさに身構えるも、その必要は全くもってなかった。
横薙ぎの衝撃が、俺の体を襲う。
払い飛ばされたのだと認識するよりも先に、横向きの俺の視界は、鬼が菜子の首をつかんでいる光景を捉える。
「や、めろ……ッ。やめろおおおぉぉぉぉォォォォッッ!!」
そこから先のことは、よく覚えていない。
ただ、俺の名を呼ぶ菜子の声だけが、いつまでも頭の中で鳴り響いていた。
***
この場所に来ると、いつもあの日のことを思い出す。
十年前、菜子を含めた三人の子供がこの森で死んだ。彼らはみな、野生の動物にやられたということになっている。
あれからすぐに村に戻って助けを求めた俺は、鬼のことをすぐさま大人たちに話した。だが、大人たちは恐怖に煽られた子供の妄言と捉えたらしく、俺の言葉に真面目に取り合わなかった。どうせ、大きな雄猿あたりと見間違えたのだろうと。
それ以来、ここの祠は立ち入ることを禁じられており、今では以前のようにキビダンゴを祀っていることもない。
俺は十年間ずっと閉ざされていた祠の扉を開く。そこには桃太郎の像と共に、文字の彫られた石碑が置かれていた。
『通力ト知恵ノ両輪ヲ備エシ者、其ノ体ヲ以テ瘴気ヲ鎮メヨ』
昔は意味のわからなかったその羅列も、今ならちゃんと理解できる。
島で最も剛健で聡明な者が、その命と共に鬼を葬るべし。つまり、桃太郎の継承者を謳った石碑だ。
俺はあの日から、鬼を倒すためにあらゆる力を身につけてきた。体術、剣術、毒薬の知識、人体の仕組み、弓矢の使い方……。
もちろん、島で学べることに限界はあったが、それでも自分にできる範囲のことは覚えるだけ覚えてきた。今では、この島で俺よりも強い人間はいないだろうと確信を持って言える程度には。
「ずっと、この機会を待ってたんだ」
俺は小さく呟き、右手の甲に浮かび上がっている“桃太牢”の印に目をやった。
数十年に一度、島に鬼が現れ、女子供を問わず村の人々を殺戮することがある。そして、ちょうど時を同じくして、初冠を果たした男子に“桃太牢”の証が発現するという。村にある古い書物の一節に、そんな伝承が記されている。
俺は持参したキビダンゴを祠に供えると、静かに膝を折ってから祈りを捧げた。俺が、必ず鬼を討つ。だから、桃太郎はそこで安心して眠っていてくれ。
目を開けると、後ろに菜子の気配があるような気がした。あの日のように、社の階段に座っていてくれていたら。
俺はゆっくり立ち上がって、そっと祠の扉を閉めた。もう、ここが開かれることは当分ないだろう。そして、俺が再びこの場所に来ることも、もうない。
社の方を振り返って、そこに誰もいないことを確認すると、胸に一抹の悲しみがよぎった。だが、それも今日までだ。俺は、“桃太牢”になったのだから。
社を後にして、俺は歩き出す。
別に、ヒーローになりたいわけじゃなかった。
ただ、近くにいる大切な女の子を守れなかったから。
俺は“桃太牢”になると決めたんだ。
夜明け前の村は、まるでそこに誰もいないかのような静けさに包まれている。
俺は村の人々を起こさないよう、物音を立てずに港の方へ向かった。俺たちの暮らす島からは、船を使わないと鬼ヶ島に辿り着けない。
最低限の荷物だけを持って、俺は鬼に望むつもりだった。もちろん不安はあるが、鬼を討てるのは俺しかいない。その自負と自覚が、俺を復讐の地へ向かわせる。
だがふと思い直して、俺は自分の家に寄っていくことにした。まだ寝ているだろうが、最後におじいさんとおばあさんの顔を見ておきたい。
俺はこっそりと裏口から家に入ろうと考えていたが、自宅の近くまで行ってから、その目論見が無駄だったことに気づく。
「一夜かい……?」
こちらの姿に気づいたのか、おばあさんが俺の名を呼ぶ。その横にはおじいさんもいた。二人とも、玄関の前に立っている。
「おじいさん、おばあさん……」
俺が二人のもとまで行くと、おばあさんがぎゅっと俺を抱きしめてきた。俺よりも頭二つ分低く、今にも折れてしまいそうな華奢な体つきだ。俺はその背中に、そっと手を回す。
「一夜、お前も行ってしまうんだね……」
おじいさんはそう言うと、おばあさんの肩に手を置いた。そして俺にうなずきかける。
俺はおばあさんを優しく抱きしめ返すと、静かにその体を離した。
「一夜、ちょっと待ってなさい」
おばあさんは赤くなった目をこすると、家の方に入っていった。それから少しして、笹の葉で作った小包を手に戻ってくる。
「これは……」
「キビダンゴ。一夜は嫌いかもしれないけど、何かのお守りに」
俺はおばあさんから小包を受け取ると、潰れないようにザックの中に入れた。種々の武器や殺しの道具が入ったそこに、少しだけ温かさが添えられた気がする。
「……じゃあ、行ってくる」
俺はそれだけ言うと、おじいさんとおばあさんに背を向けた。これ以上ここにいると、鬼ヶ島に行くのが今より怖くなってしまいそうだったからだ。
後ろから微かに聞こえてくるすすり泣きが、たぶん、俺の唯一の心残りだった。
***
知り合いの漁師から譲り受けていた小舟を使って、俺は鬼ヶ島に着いた。
島は大地になっていた。背の低い草木や伝承に出てきたキビは生えているものの、地面には煙が漏れ出す噴気孔が散見される。
空は鈍色に覆われていた。島を出る前は夜明け前だったからわからなかったものの、天候は思わしくないらしい。海風にさらされて、キビの葉が落ち着きなく揺れている。この調子では、いつ降り出してもおかしくない。
――ぁぁ、今はそんなことはどうでもいい。
俺は島の風景から視線を外して、大地の中央で膝組みをしている赤目の化け物を睨みつけた。あいつがここにいなければ待ち伏せを仕掛けようとも思っていたが、その必要はなくなった。
「こ、ろしてやる……殺してやるッッ‼」
振り捨てたザックから両刃の刀を抜いて、俺は鬼のもとへ疾駆する。鬼は立ち上がる動作どころか、動く気配を見せない。
――それなら、ここで朽ち果てろ。
俺は肩越しに振りかぶった両刃刀を力の限り振り下ろす。走った勢いも上乗せされた分、その遠心力に肩を持っていかれそうになる。
直後、衝撃が走った。
思わず刀を離してしまいそうになるほどの痺れが手に走る。会心の打撃の反作用だ。
切り裂くのではなく、叩き割る。
鬼の表皮の硬さがわからない以上、刃がその本来の役目を果たすかは保証ができない。だからまずは、鬼の動きを鈍らせるために打撃を加えていく。
それが俺の考えていた作戦だった。
だが、一発で頭が割れてくれたならそれでいい。
俺は刀をまともに受けた相手を見下ろす。
「……はぁ、桃太牢はそうじゃねぇだろ」
無傷、だった。
日差しがまぶしいから頭上に手をかざす。その程度の動きで、鬼は刀を受け止めていた。
「なッ……」
俺は驚きのあまり、一瞬だけ硬直してしまった。
その隙が埋まる前に、鬼は右手を振って刀を払ってしまう。両刃刀が俺の手を離れ、遠い地面に転がっていく。
とっさに後ろに飛び退り、俺は鬼との距離を稼いだ。
砕けないのなら、突く。
俺は背中に仕込んでいた短めの投槍を一本だけ取り出す。何かに刺さるとその先端から毒が飛び出す仕組みになっている、殺しにうってつけの構造にしたものだ。仕込んだ毒は、体内に注入されると全身の筋肉が弛緩する劇薬にしてある。
ちょうど自分と両刃刀の直線状に鬼が来る位置へにじり寄りながら、俺は鬼の様子をうかがう。
鬼は大儀そうに立ち上がると、厳めしい顔をこちらに向けてくる。不気味に光る赤い目こそ恐怖を煽るが、あちらから攻撃してくる気配はなさそうだ。
俺は目的のところまで来ると、一本の槍を鬼に投げつけた。それとほぼ同時に、両刃刀を拾って鬼に突進を仕掛ける。
鬼は放擲された槍を叩き落す。その隙を狙って、俺は右手の刀を鬼の首元に振るう。
「ぉらぁ、ァッ……!」
しかし、その刀もいともたやすく払われてしまう。
そこを狙っていた。
「こ、こだッッ!」
俺は鬼が防御に回した腕に向けて、左手に隠し持っていた投槍を突き刺す。肌さえ貫けば、いくら鬼でもこの毒はひとたまりもないだろう。
だが、鬼は裏拳の要領で腕を引くと、勢いそのままに俺の胴に横薙の一撃を食らわそうとする。
「ッ」
相手の方が、わずかに早かった。
俺の視界から風景が飛び、一瞬後には、それは横向きのものとなっていた。
――ああ……。
この景色には見覚えがある。十年前のあの日と同じだった。
俺は、またしても鬼に負けた。
***
黒く染まった空からは、雨が降り始めていた。
仰向けになった俺の顔に、冷たい水滴が打ち付ける。
俺は無様に地の上で転がって、横向きの視界から鬼の方を睨んでいた。肋骨といつくかの臓器がやられているのか、呼吸の間に吐血の波がやってくる。ここまで来て寝ているわけにもいかないと自分を奮い立たせても、体が言うことを聞いてくれない。立ち上がるどころか、腕を動かすこともかなわなかった。
「……くそ、くそぉ……ッ!」
俺は、鬼に一矢を報いることもできずに負けた。差し違える覚悟こそあったものの、手も足も出ないまま叩きのめされる覚悟なんてしていなかった。
全身から力が抜ける。
俺の十年間は、いったい何だったんだ。
「少し、昔話をしようじゃないか」
鬼は、俺がこの地に着いたときと同じ場所であぐらをかいて、こちらに話しかけてくる。思えば、あいつはあの場所から一度も動いていない。足さばきさえ必要なかったということか。
「……ぁぁ。勝手にしろよ」
俺は起き上がる気すら失い、仰向けになって鬼の言葉を聞く。無力感と悔しさのあまり、どこか投げやりな心持ちになっていた。
「この島に古くから伝わる、ある英雄の話だ」
そう言って、鬼は語り始めた。
誰もが知っているはずだった、桃太郎の伝説を。
「昔々、鬼ヶ諸島には強く賢い一人の男がいた。
「男は村人たちに頼りにされ、男もその信頼に応えていた。
「小さな村では、時々ではあったものの、問題が起こることがあった。そんなときは、いつも男に相談が持ち掛けられた。
「男は知恵を使ってその問題を解決し、村人たちに解決策を授けた。
「男の力もあって、村では大きな問題もなく、平穏な日々が続いていた。
「だが、そんな島の平和はあっけなく崩れ去った。
「一人の村人が、海辺の近くで見つかった。
「その人物は、明らかに人の手で殺された状態で見つかった。
「村に混乱が広がる中、二人、三人と次々に被害者が見つかっていった。
「村人たちは不安に怯えた。島の中に殺人鬼が潜んでいるのではないか。
「疑心暗鬼が、彼らの心を蝕んだ。
「懸念は焦燥を生み、焦燥は害意を生む。
「いつしか、村には個々人のケンカや複数人の抗争が絶えなくなっていた。
「騙されぬように嘘を、身を守るために武器を。
「このままでは、もっとひどいことが起こってしまう。自分が殺されないために相手を殺すという、矛盾に満ちた事態が。
「それを危惧した男は、自らの手で以て殺人鬼を殺すことを決意した。
「男は村人たちから話を聞き、その明晰な頭脳を使って犯人を突き止めた。そして、その人物を殺した。
「男がそのことを村人たちに伝えると、村は少しずつ落ち着きを取り戻していった。男を詰る者も少なくはなかったが、大半の人間は殺人鬼が村から消えたことに安堵を覚えていた。
「だが、男は事態を楽観視してはいなかった。
「再び殺人鬼が現れれば、また村では同じことが起こる。
「男は考えた。もう二度と村人たちが危険な目に遭わないようにするにはどうすればいいのか。
「それからほどなくして、答えは出た。
「十数年たって、また村には殺人鬼が現れた。
「男はそこで、鬼ヶ島の地に殺人鬼をおびき寄せ、自分の命を以てその人物を殺した。
「ように見せかけた。
「村では勇敢な男をたたえ、桃太郎の伝説の土台となる話ができた。男が鬼を殺した鬼ヶ島では、キビの花が咲き誇った。
鬼はそこで一度口を閉ざすと、何やら立ち上がって歩き始めたようだ。
視線を向けてみると、あいつは俺が持ってきたザックの方に近づいて行っていた。
「当然、話はそこで終わらない。
「殺人鬼を殺す鬼となった男は、殺人鬼の素因を持つ人間が、キビで作られた食べ物を嫌うことを見つけていた。
「それを一度でも食べると、殺戮を行う片鱗を見せたとき、独特の体臭を放つということも。
「その臭いを嗅ぎ取ることのできる人間は、村に一定の割合で存在する。
「男は思考を巡らせた。
「これは、殺人鬼を抑制するための構造に組み込むことができる。
雨脚が強まり、雷が鳴り始めていた。
話は続いた。
「必要なのは、自分の跡を継ぐ者だった。
「殺人鬼の臭いを嗅ぎつける人間は、偶然か必然か、身体能力が優れていることがほとんどだった。体の発達に、ある相関があったのかもしれない。
「あとは、どうやって次代の“桃太牢”たちにこの島の構造を伝えるか。
「仕組みを教えること自体は難しくない。だが問題は、それを納得させられるか、そしてその構造を存続させられるかだった。
「悪に嫌悪し、それを討ち滅ぼそうとする者に伝えるには、どうすればいい。
「男は、武器や薬学、桃太郎の伝説について記された書物に、断片的に情報を散りばめた。
「さぁ、ここまで言えば十分だ。そろそろ終わらせよう。
鬼はザックから何かを取り出すと、近くに生えていたキビの花をむしり取る。それを持ったままこちらを向くと、鬼は前触れもなく地面を蹴った。
「な……ガハッァ……ッ!」
俺が動くよりも早く、鬼は俺のみぞおちに突きを落としてきた。圧倒的なその威力に、肺の空気が全て吐き出される。
その直後、視界が揺れた。
「さて」
鬼にあごを殴られたせいで、口の自由が利かない。鬼は俺に馬乗りになって、下の歯列をつかんで口をこじ開けてくる。
「ぅ、む、ガッ……」
無理やりキビの花とザックから出した何か――キビダンゴを詰め込まれたせいで、瞳に涙があふれる。喉の奥から吐き気がせり上がってくるが、鬼は構わずに押し込んでくる。
息ができなくなり、俺は必死にそれらを飲み込んだ。
その瞬間。
「アッ…………」
ドクンと、大きく心臓が脈打った。
「っと、こりゃやばいな」
鬼は俺の体から飛び退ると、そのままバックステップを踏んで距離をとった。
だが、体内で起こっている異変のあまり、俺はそれを追うことができなかった。
「ァァァ…………」
全身の血が沸騰する。心臓のうなりが、体の隅々まで伝わっていく感覚が手に取るようにわかった。
そしてそれとは対照的に、思考は冷えてクリアになっていく。
鬼から聞いた話と情報の断片がつながり、その全体像を浮かび上がらせる。
――そうか、桃太牢は。
鬼は俺の姿を見ると、わずかに口の端を歪めて笑う。
「ははっ、立派な赤目だよ」
それだけ言うと、鬼は重心を低くした。全身の力が下半身の方に溜まっていく。
俺が構えをとった刹那。
「ォ、ラッ!」
肉薄。
先刻までとは比べ物にならない速さで、弾と化した鬼が接近してくる。とても反応できな――
「!」
――いや、今なら視える。
鮮明に、鬼の動きを捉えられる。
こちらに突き出した左腕、その脇下ががら空きだ。
「ッ!」
退けば殺られる。
即座に覚悟を決めると、鬼の動きを瞬間的に見定める。決して失敗は許されない。
俺は大地を蹴った。
接触は一瞬だった。
俺は半ば信じられないような気持ちで、血に濡れた右手を見る。まだその手には衝撃が残っていて、カタカタと震えていた。
なんで、どうして。
「わざと俺に、当てさせたんだ」
俺は後ろを振り返り、左胸を手で押さえてうずくまっている鬼の方を見やった。
鬼はこちらを振り返らず、ひどい勢いで吐血する。それから痙攣する体を無理やりに起こしながら、カハッと乾いた笑いをもらす。
「もうわかってんだろ、桃太牢の構造」
鬼はよろめきつつも立ち上がった。こちらを振り向くと、おぼつかない足取りで俺の方に近づいてくる。その口から垂れている血は赤色だ。
人間と同じ、赤い血の色だった。
――鬼は、島の殺人鬼を殺す。
あと一突きもすれば、鬼を簡単に殺すことはできるだろう。先刻までの体内の暴走も、今は凪いでいる。ただ、いつもより格段に研ぎ澄まされている感覚はそのままだった。
「お前はこれから、この島の鬼の役目を担うんだよ」
絞り出すように、鬼はかすれた声で言う。それはおとぎ話で知っていた鬼には似つかわしくない、優しく教え諭すような声色だった。
――正義の自負と自覚を持つ者が、鬼を継ぐ。
俺は、身じろぎ一つできないまま佇んでいた。頭の中で様々な記憶が巡り始める。
十年前に殺された、三人の子供。あの日、振り返った俺の後ろで、ひどく鋭利な石を持っていた菜子。独特の臭いと、鉄臭い血の臭いがよみがえる。
考えないようにしていた。あまりにも簡単につながるキーワードが、俺の正義を揺るがせることになりかねないから。
降りしきる冷たい雨が、俺の体に打ち付ける。
――鬼を倒した桃太牢が、この島を守る存在となる鬼ヶ島の構造。
「だから強くなれ」
いつの間にか俺の目の前まで来ていた鬼は、血で濡れた手を少しだけ持ち上げる。
鬼はその体を俺に預けるようにして、両の腕を俺の体に回した。島を出るときにそうされたように、弱々しくて優しい力が俺を包む。
数十年に一度、島には鬼が現れ、その直後に桃太牢を継ぐ者が現れる。今まで特に考えることのなかった伝承に、実は隠された意味があるのだとしたら。
人間の命の周期が、それに当たるのではないか。
「母さんを守れなくて、お前の近くにいれなくて、ごめんなぁ、一夜……」
耳元で、嗚咽に濡れた震え声がした。肩に覚える水の感覚は、雨のそれとは違い、胸を打つ温かさに満ちている。
「ぁっ、ぁ……」
俺は次々と明かされる事実に理解が追い付かず、何も言葉が浮かんでこなかった。
背中に回された手からフッと力が抜けたかと思うと、先ほどまでより強く、胸に鬼の体重を感じた。その体をとっさに抱くこともできず、俺はその場で立ち尽くすことしかできない。
黒雲を照らす稲光の轟が、ひどく遠くのものに思える。
俺は鬼を討ち、桃太牢の役割を果たした。
そこで終わるはずだった物語は、しかし俺を離してはくれない。
でも、今はそんなことはどうでもよかった。
「ぁぁ……ああああぁぁァァァァァァっっっ……!」
失ったものを悲しむ心が、この雨に冷やされてしまう前に。
ただ、胸に湧き上がる衝動を、吐き出したかった。
***
穏やかな波が、凪いだ大洋を静かに揺らす。抜けるような青空の下では、海鳥たちがのびやかに翼を広げていた。海を駆ける風が、俺のもとに潮の香りを運んでくる。
鬼ヶ島に生えるキビを摘んで、気まぐれのままに団子をこしらえてみる。おばあさんが作ってくれたものとは違い、あまり見栄えが良くなく、大きさも不揃いになってしまった。その出来を見て、思わず苦笑がもれてしまう。
俺はそれらを島の奥にある祠に供えて、静かに手を合わせた。こことは違う場所で、以前にも同じように合掌したことを思い出す。
余ったキビダンゴを一つ取って、試しに口に運んでみた。
「……やっぱり、嫌いな味だな」
一人で小さく笑って、その団子を一息に飲み込んだ。これを食べると、あの日の記憶を思い出す。些細な共通点さえ嬉しかった、ほのかな初恋の記憶を。
立ち上がって、俺は村人たちが暮らしている島の方を見やった。決して戻ることの許されない、自分が守るべき場所が、そこにはあった。
別に、ヒーローになりたかったわけじゃない。
だけど俺は、何を背負うことになろうとも、これまでの鬼たちが大切にしてきた場所を守ることに決めた。
初めまして、杉宮詩乃と申します。
これは、ショートショート実行委員会様主催の『BOOk SHORTS』に応募するために書いてみた作品です。10000字という文字数制限があったので、こうして短編という形になりました。あと400文字削らないといけないのは気のせいです、ほんと。
一言コメントをはじめとした感想お待ちしています。最後に、ここまでお読みいただきありがとうございました!