第七話 『蟻と蠍』
ILOの大地にて、見晴らしが良い場所は無数に存在するが、同時にそこが安全な領域に直結するというわけではない。
深淵迷宮街グラールでも、何も無い空間に視認不可能な魔物が出現し、瞬く間にプレイヤーたちの生命を奪っていった。
それはここ、オードゥグ遺跡でも同じことだ。
日光を反射する真っ白な砂が敷き詰められ、半壊した石造りの古代遺跡が、無機質な砂漠地帯を彩っている。
遺跡の陰にその身を隠匿しようが、データの目を持つ魔物たちに、そんな小手先の騙しは通用しない。
オブジェクトをステルス認識できる――とまで表現すると言い過ぎだが、一度でもその魔物が認識する範囲にアバターが侵入すれば、途端にその魔物は臨戦態勢に入り、どちらかの生命が根絶させられるまで追いつめてくる。
そこから先、身を隠すという行動は何よりの愚行でしかない。
壁を挟み、地形ハメを行うのであればそれも一種の策であるが、近距離武器を使用するものがオブジェクトの陰に隠れることは、無意味――もしくは自身の身を滅ぼす前奏曲にしかなりえない。
その理由はまず一つ、魔物の視界と一人称プレイヤーがもつ視界の範囲の差異が原因となる。
遺跡などの地形に身を隠すと、プレイヤーの視界からは魔物の姿を把握することができない。
従来のRPGアクションなどではプレイヤーの視点は俯瞰視点――三人称だが、VRMMOにおいてプレイヤーが把握できる視界範囲は、現実のそれと全く違いが無い。
ぐるっとアバターを一回転させて様子を見たり、カメラ視点の高度を弄って視認できる範囲を広げることもできない。
そうなると、あとはアバターの位置が正確に分かる魔物たちの思うつぼだ。
息を殺して寸分たりとも動かずとも、一旦プレイヤーの位置を把握した魔物は、的確にその場所に攻撃を放ってくる。
そうなれば、大抵のプレイヤーは痛撃をもらい、一撃死は無いにしても、かなりの苦戦を強いられることになるだろう。
中にはその攻撃タイミングや座標軸を計算し、軽やかな反撃動作を組み込むプレイヤーもいるようだが、さておき。
ナディたちは現在、オードゥグ遺跡一日目の夜を迎えようとしていた。
夕日が沈み、辺りを濃紺の空が包み込むと同時に、先ほどまでプレイヤーたちを襲っていた暑気が薄まり、清涼な風が吹き始める。
風塵が舞うほどの風では無いが、感覚的に素肌を撫でる心地よい風だ。
夜の砂漠は寒気がその場を飲み込み、真冬のようになるともいわれているが、さしものILOだろうとそこまでの鬼畜仕様は携えられていない。
日が沈むと視界が悪くなる代わりに、専用アイテムである冷水剤を必要としなくなる。
今までプレイヤーたちを苛んでいた汗や暑気の不快感も瞬く間に消失し、心地よい外気が辺り一面を包み込んだ。
「夜になったが、どうする。いつものように転がって身体を休めるか、それとも今回は先へ進むか?」
最前線にて小型の魔物を殲滅しながら進む獣人格闘者シグマは、リリアンを庇いながら振り返り、パーティメンバーに意見を仰ぐ。
「俺とシーザーはここまで赴いたことが無いので、判断しかねるな」
とは、盾を持った大巨漢の談。
「あたしは来たことあるけど、夜でも魔物は出るし、冷水剤もいらないうえ『反応鈍足』も切れてるから、進んだ方がいいと思う」
これは青色髪の錬金術師エリア。
「私もここから先は未知の領域だ。判断はあなた方に任せる」
ナディもそう言い、立ち止まる。
シグマは思案気な表情を見せ、目だけでアインハルトを見やり、
「アインハルト、オーディン。お前らの意見を聞かせてくれ」
「他の人の疲労度がどの程度か分からないから何とも言えないけど、俺としては、夜の内にさっさと進んだ方が良いと思うな」
「私は、アインハルトに付いてく」
キュッとアインハルトの腕を抱きしめるオーディンを一瞥し、シグマはガシガシと後頭部を掻き毟るアクション。
最終的にリリアンと何やら話し合った後で、シグマはリリアンの肩に手を乗せた。
「一刻も早くこのフィールドから出る、ということで決定した。アインハルトとオーディンはともかくとして、エリア! お前はここの魔物を一人で倒せるのか?」
「あたしはここに何度も来てるから、打倒はともかく自衛するのには何の問題も無いわ。ナディさんを守りながら進むくらい、どうってことない」
「分かった。なら俺とリリアンが今まで通り前衛、エリアはナディを警護しながら補助を頼む、おいアインハルト、オーディン! お前らは後衛だ。シーザーとそこの盾持った奴を守ってやれ」
シグマの号令で、一応のフォーメーションが確定する。
しかし、とナディは今の会話を聞き、何とも言えぬ違和感を覚えた。
それは別に、空気が変わったなどと言った感情的なそれでは無く。
「エリアは、シグマやアインハルトたちと同じパーティのプレイヤーでは無かったのか?」
「んー? あー、あたしは違うよ。多分あの盾持った大巨漢とシーザーも違うんじゃないかなー。ここ乗っ取られた時、偶然シグマが傍にいたからさ、ソロで彷徨ってても危険っぽかったから、入れてもらったんだー」
ナディに自身のことを気にしてもらったのが嬉しいのか、エリアは照れ笑いを見せながらナディに寄り添う。
ナディはその行動をとくに邪険に扱うことなく、3Dモデルで言うところの無表情――所謂真顔のまま、前を行くシグマを見据えた。
ナディがNPCとしてグラールの大地に佇んでいた時、数多のプレイヤーたちを眺めてきた。
中にはナディをプレイヤーキャラだと勘違いして陽気に声をかけるプレイヤーもいたし、見た途端ギョッとした顔を見せ、なるべく目を合わせないように通り過ぎたソロプレイヤーもいた。
次に出会ったとき、前者は他のパーティメンバーを連れて歩いていることが多かったし、後者に至っては、それ以来出会うことが無かった者もいる。
再会したとしてもやはり目は泳いでおり、来るときはいつも一人だった。
『人間関係』というプログラムを当時持ち合わせていなかったナディは、その原因をとくに考察し、学習しようと考えることは無かったのだが。
ルリィやその他のプレイヤーと会話を続けることによって、幾つかの感情パターンを学習し始めた今のナディには、その時出会った後者の思いは、何となく把握できる。
「エリアは、人が、好きか?」
「あー、あたし? あたしは結構人好きだよ、リアルの友達も多いし。バイトとかでも接客業とか主にやってたし最近は――っと、これ以上話すと歳バレすっから内緒な」
片目をつむり、口元に人差し指を宛がい、妖艶にはにかむアクション。
ナディはそれを見てフフ……と頬を緩ませ――
「えい」
瞬くような閃光が刹那的に空間を支配し、したり顔でナディを見つめるエリアの姿が目に入った。
次いで、彼女の手に収められた、スクショ用の簡易アプリ。
「ナディさん無表情だからー、もっと笑顔見せよー? ほら、笑顔笑顔」
エリアは両頬に人差し指を宛がい、あざとく首を傾げて見せる。
ナディはそれを見て、同じようなアクションをとろうと両腕を上げてみせたのだが。
人差し指を立てた刹那、シグマの怒号のような声が辺りに木霊した。
「魔物だ! ――アカアリ、赤色蟻が出た!」
次いで、後衛からも。
「擬態蠍も現れました。二手に分かれて戦いましょう!」
アインハルトの少年声が放たれ、辺りの空気がガラリと変わる。
ナディの前ではにかんでいたエリアも表情を堅くし、反射的にナディを庇うような立ち位置へと動く。
ナディはエリアの陰にて弓矢を取り出すと、精密機械のように精緻な動きで矢を一発ずつ射出し、アカアリの巨躯を捉える。
木材が主な簡素な矢。オードゥグ遺跡に出現するような強大な魔物に与えられるダメージは微々たるものでしか無い。
だがナディは、ILOの大地に出現する魔物ほとんどの弱点部位、行動パターンを熟知している。
当然アカアリに関しても例外ではない。遠距離武器、はたまた近距離武器の弱点位置を正確に狙い撃ち、その的として、燃え上がるような巨躯に刺さった簡素な矢を指さし、
「あの矢が刺さっている部位が、赤色蟻の弱点箇所だ」
落ち着いた声音で、エリアの耳元に告げた。
---
「シグマ、リリアン! ナディさんが撃った矢の位置! あそこがアカアリの弱点だって!」
エリアの高い声音が響き、シグマとリリアンが共に臨戦態勢へと入る。
獣人格闘者であるシグマは両拳に鉄槍の爪を装着し、リリアンはシグマの背後にて、防具と同様百万水晶の紫蝶の素材から作られたミリオン・ロッドを掲げ、詠唱を開始させた。
刹那、シグマの体躯が空を翔けた。
凄まじい筋力ステータスで飛び出したシグマを覆うように、リリアンの持つロッドから紫紺の輝きが放たれる。
リリアンが放った魔法攻撃は、味方一人の全ステータスを反射的に底上げする、付与魔法の一つだ。
効果時間はほんの数フレームしか持続しないが、その一撃は、通常の攻撃ステータスの五倍近いダメージを叩きだす。
さらにナディが放った矢のおかげで、的確なクリティカルを狙うことが可能。
シグマの鉄槍の爪はクリティカル時、さらに威力を二倍近く上昇させるスキルが組み込まれており、それらのスキルが共鳴し合い、さらに強固なものへと変わっていく。
「うがぁぁぁぁぁ――――!!!」
雄叫びのアクションを轟かせながら、シグマの右手拳がアカアリの喉元に喰らいつく。
蟻の細い首などそれだけで引き千切られてしまいそうだが、そこはプログラム。
プレイヤーの一撃程度で、グラフィックが歪むほどのダメージを叩きこむことは不可能だ。
シグマの体躯は攻撃中、重力法則を消失させたかのように、空間を翔ける。そしてそのまま虚空を駆け抜ける獣の体躯が蟻の喉元を抉り取り、蟻の喉を覆う肉塊が弾け飛んだ。
血飛沫のエフェクトが虚空を汚し、アカアリの口腔から心を突き刺すような絶叫がこぼされる。
「がぁぁぁ――――!!」
次いでシグマの左拳が、悶え苦しむアカアリの喉元に再度襲い掛かる。
さしもの赤色蟻でも攻撃関係のステータスを底上げされた痛撃を二連続で受け、その巨躯を支え続けられるはずがない。
せめてもの抗いか辺りに悪臭を放つ蟻酸を撒き散らしながら、穴が開き血だらけになった喉笛から「ヒュー、ヒュー」といった呼吸音を垂れ流し始めた。
「リリアン!」
「はい! 了解です、シグマさん」
シグマの攻撃時無敵時間が終了し、地上へと降下して大地に足を着く。
リリアンのミリオンロッドには濃紺色のエフェクトが舞っており、開眼。
「レグ・バーズ!」
解き放たれた魔力が放出され、濃紺色の電撃が悶え苦しむ赤色蟻の巨躯を縛り付ける。
だがリリアンの攻撃はこれで終わりでは無い。
ミリオンロッドの周囲にドス黒い瘴気が集積し、重圧的な濃紺がロッドの先端へ渦巻いた。
「――――っ!」
発出と同時にリリアンの小柄な身体が後方へ吹っ飛び、ロッドから放たれた禍々しいそれは赤色蟻のぷっくり膨らんだ腹部へと。
刹那凄まじい衝突音が轟き、水風船が割れたかのように、蟻酸や血液やら何やらの体液が辺り一面にぶちまけられた。
吸い込めば喉を焼き尽くすような強い酸だが、所詮アカアリの攻撃エフェクトに他ならない。
シグマの二連痛撃とリリアンの魔法攻撃によって完全にHPを削り取られた赤色蟻は、燃え盛るような色彩を保つ体表をバラ撒きながら、その他の肉体は光の粒子となり、瞬く間に消失した。
残った体表からは、赤色蟻の素材を剥ぎ取ることができる。
通常ならばパーティ全員で喜び勇み、すぐさま剥ぎ取り行動へと移るはずなのだが。今回ナディたちを襲ってきたのは、眼前にて息絶えた赤色蟻だけではない。
アインハルトの叫びが確かならば、サボテンの形状をした蠍の一種、擬態蠍が後衛四人を襲ったということだ。
こちらは前衛二人が戦い、ナディとエリアが二人の後方でその戦いを見守っていたが、アインハルトたちは無事だろうか。
ナディは先日――グラールの大地にてアインハルトから聞いた言葉を思い出す。
黒龍渓谷を何周も巡ったアインハルトを除き、他のプレイヤーはさほど強くないといったようなことを、アインハルトは唾棄するようにナディへ話していた。
だがナディが見たところ、ここオードゥグ遺跡に出現する魔物は、深淵迷宮街グラールに出現する魔物と比較しても、ステータスの差異は大して感じられなかった。
現にシグマとリリアンの連携攻撃がそれだ。
もしアインハルトの言うとおりに、彼以外のプレイヤーは弱く、足手まといになるだけだと言うのなら、とうに前衛は崩され、殲滅されていただろう。
むしろ後衛の方が危うい状況だ。アインハルトとオーディンはともかくとして、大巨漢とシーザーは、この領域に足を踏み入れたことが無いと言っていた。
擬態蠍は、その名の通りオブジェクトの一つに擬態する蠍だ。
ここオードゥグ遺跡にて擬態蠍がその身を紛れ込ませるのは、至る所にニョキニョキと生えているサボテンだけである。
サボテンの形――と聞くと弱そうに見えるが、実際は否だ。
どういった形状をしていようが蠍は蠍。毒針を持っていれば、さらに全身を覆う体表は異常なほど堅牢である。
「アインハルト、無事か!」
鉄槍の爪を仕舞い込んだシグマは、ナディが振り向くより先に、後方へと走り出していた。
夜――星彩散らばる闇夜のためか、薄暗く、アインハルトたちの戦闘状況を視認することはできない。
しかもご丁寧に風塵砂塵が舞い上がっており、仄暗い景色に輪をかけて、辺りの確認が酷く難関なものとなっていた。
とはいえ、
「頭上の名前表示を見れば、無事かどうか分かるんだけどな」
シグマはそう言って、闇夜を彩る風塵の中からナディたちのもとへ戻ってきた。
その言葉を認識し、ナディは舞い上がる砂の中から、四つの名前表示を確認する。
シーザーが後方に。『シーザー』の表示で名前が隠れてしまっているが、隣に誰かいるようなので、きっとそれが盾の大巨漢だろう。
その二つは先ほどから動かないが、前方にてもう二つの名前が縦横無尽に動き回っていた。
アインハルトの名が一撃離脱を繰り出し、オーディンの名が彼にピタリと重なって駆けまわる。
「大丈夫そうだな」
「アインハルトとオーディンが戻ったら、皆さんに治癒魔法をかけますから、必要でしたら、お二人も遠慮なく言ってください」
「あたしらは平気よー。ナディさんも平気っしょー?」
「ああ、私も大丈夫だ」
ミリオンロッドを両手で握りしめるリリアンはコスモスのように愛らしく微笑むと、アイテムバッグから『魔力水晶』を取り出し、ミリオンロッドに装着させる。
紫紺の透き通りを見せるそれはロッドの中に吸い込まれると、色褪せていたミリオンロッドの色彩が若干明るいものへと変化した。
魔力水晶とは、武器やプレイヤー本人に使用するアイテムで、減少した魔力を回復するためのものである。
リリアンのように治癒魔法をよく使用したり、先ほどのように強大な魔法攻撃を連続して使用したときなど、プレイヤー本体、もしくは武器に蓄積した魔力が枯渇する前に、魔力を補給するなどといった用途にて使用される。
ILOでは通常、魔力は時間で回復する。
だがその回復効率は悪く、一人の瀕死プレイヤーを全開まで回復させる治癒魔法を使用したとすれば、自然にその分の魔力が回復するのに、丸二日はかかってしまう。
故に魔法剣士やサブ職業でごく稀に魔法を使用する、といったプレイヤーにとっては全くもって問題無いのだが、リリアンのように魔法職を専門にしている人の場合、自然回復ははっきり言って全く役に立たないのだ。
余談になってしまうが、ILOの主要職業は専ら剣士や格闘者、はたまた戦士騎士などといった近距離戦闘職業が埋め尽くしている。
理由はこうした余計なアイテムのせいでアイテムバッグが窮屈になってしまう、といった理由だ。
故に魔法職専門で、最前線プレイヤーと肩を並べることのできる人とは、実に珍しい。
「そういえばー、リリアンって魔法職にしてはかなりレア度高い武器とか防具持ってるけどー、このゲーム長いのー?」
「あ、えっと。これですか?」
エリアの素朴な疑問を受け、リリアンはあたふたとその紫色の髪を揺らし、男性の心を鷲掴みにするような最上級の照れ笑いを見せる。
オンバグの三角帽子を脱いで顔の下半分を隠し、玲瓏な双眸を遠慮がちに覗かせながら、
「前に私が百年水晶の紫蝶に襲われていたとき、まだ名前も知らなかったアインハルトくんが、突然ヒーローみたいに現れて、助けてくれたんです。それで、その時倒した百年水晶の紫蝶の素材で防具と武器を作ってくれて……」
見ている方までニヤけてしまいそうなほどに顔を赤らめ、リリアンは頬を手で包みこみ、とろけるような顔で照れ笑い。
少年アバターと美少女アバターの馴れ初めという非常に微笑ましいお話を聞き、エリアは嬉しそうにニヤニヤ、シグマは「けっ」とでも言うように腕を組んで顔を逸らし、ナディは真顔だった。
やがてアインハルトやオーディンの動きが緩やかになり、空間を塗りつぶすような砂塵も濃度を薄めていく。
星芒に照らされ映し出された、四つの陰。凄まじい数の裂傷を総身に刻み込まれ、絶命した擬態蠍の前にて、その亡骸を達観するような目で見下ろす黒衣の剣士。肩で息をする剣士に寄り添い、長く繊細な金髪を煙らせる碧眼のエルフ剣士。
そしてその後方にて、
全身鈍色の甲冑に身を包んだ騎士と、巨大な盾を抱えた大巨漢が、全身に毒針を浴びるという凄惨な姿にて、砂漠の大地を静かに転がっていた。