第五話 『アインハルト』
最先端の科学力を詰め込まれた人工知能NPCであるナディには、睡眠という概念は存在しない。
VRヘッドギアが織りなす電脳回路のために、ヴァーチャル空間に沈んでいる人々の脳内は常時覚醒状態であるはずだ。
そのため従来のMMOでは一部のプレイヤーから問題視されていた、所謂寝落ちという現象は、仮想空間を駆け巡るVRMMOでは起こりえない事象なのである。
だがそれは、ゲーム開始最初のチュートリアルで説明される『使用上の注意』に乗っ取った場合のことである。
十二時間以上ぶっ続けで起動したり、排泄や飲食といった人間の日常生活において無視できない欲求が出た時、脳にアラームが鳴らされ、覚醒状態から強制的に目覚めさせられる。
故に喩え『デスゲーム』なる面倒な状況に陥ったとしても、VRな空間でゲームをクリアするまでログアウトできない、ということは物理的に不可能なことなのだが――。
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東京のとある一角に、天瀬大五郎が取り締まる総合病院が存在する。
天才、鬼才、多才といった呼称を持つ天瀬大五郎は、若き頃――まだ三四郎が生まれる前に、医学を学ぶためだけに病院を設立した。
いくら多芸多才であろうと、もちろん天瀬大五郎は医学の専門家ではない。
経営から医師の教育、はたまた営業基盤まで全てを信頼できる他者に任せ、そのまま放置していたのだ。
本人は若気の至りだと笑っていたが、今回の事件でそれが大いに役に立った。
《Immortal Life Online》を当時プレイしていた人数は、約数万から数十万人。
その中で、偶発的に現実世界へ引き剥がされた果報者も少なくなく、ルリィが顧客情報から割り出したところ、およそ数千人から数万人のプレイヤーが、未だ精神と意識をゲームの中に閉じ込められたままだと言うことが分かった。
現代の日本では、高齢者や一人暮らしの若者による、孤独死の発生が激減している。
この快挙はもちろん医学の発達という面も深く関係しているのだが、それにも増して人々を救出している原因とは、一家に一台が半ば義務付けられた、アンドロイドの存在が大きいとされている。
意思を持ち会話をするアンドロイドは、もちろん主人の異変や病気を、人並みに察知することができる。
故に突然心臓麻痺などを起こした場合でもすぐさまアンドロイドがかけつけ、応急処置を行うと共に近場の病院へと連絡するよう、プログラムが設定されているのだ。
アマセ・コーポレーションがハックされ約十時間が経過した頃、日本各地の自宅用アンドロイドから、全国の病院へ緊急連絡が入った。
その全てが、主人の返答無し及び衰弱状態であり、その症状を訴えたアンドロイドの主人総員が皆、VRヘッドギアを身に着けており、《Immortal Life Online》なるVRゲームをプレイ中だったのである。
それだけの大事になってしまえば、当然アマセの社内にマスコミや報道陣が押し寄せてくる。
そしていつしか、ゲーム内で死亡すると現実の肉体も死滅するという情報も、どこかしらか流出することは必至である。
その事実を危惧した三四郎は実に数か月ぶりに自身の父親に連絡を取り、NPCナディから聞いた情報やルリィが集めた新報を全面的に伝達し、天瀬大五郎が全責任をもつ彼の病院に、それら全ての患者を受け入れることを約束した。
こうして、現在閉じ込められたILOプレイヤー約一万七千人(身元不明者・死亡者除く)は全員、面積にして練馬区を凌駕するほどの大病院、天瀬総合病院に搬送された。
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濃紺色に塗りつぶされた夜空に、瞬くような星彩が散りばめられる。
深淵迷宮街グラールの大地――新緑の高原を歩むナディは、虚空を見つめながら、ボサッと突っ立っていた。
闇夜の下検討を祈りあった他の七人は、松明を広場の中央に掲げ、丸くなって転がっている。
この世界が脳をだましているだけの虚構空間だとしても、一日中歩き続けるのは、精神や心理的な何かを摩耗するらしい。
ナディにはその思いや意識を理解することは出来なかったが、皆がそうするのであれば、他者の思いに必要以上に干渉しないというのがナディが貫く意志であり、サンシローがよく言っていたことだ。
記憶媒体のリピートを行い、ナディは暇を紛らわす。
通常ナディが退屈を感じることは無いのだが、様々なプレイヤーと出会い、一人のプレイヤーとして接していたためか、音の無い時間というのが、退屈で仕方ないのだ。
人工知能が持つ学習能力の一つに、人間関係を向上させようというものがある。
だがナディは、そんなことを知らない。
記憶媒体の中身を整理していると、不意に身体のどこかが疼くような感覚があった。
毎日新しいプレイヤーが迷宮に現れ、ただ立ち尽くすだけのナディに声をかけていく。
中には見知った顔もあり、時折、話しかけるわけでもなく、ジェスチャーだけで挨拶を見せてくれる気さくなプレイヤーもいた。
そう言ったことを思い浮かべると、人間でいう心臓の辺りに熱を感じるのだ。
現在ナディはアバターの姿を保っているため、痛みと錯覚するような熱が生じた箇所が、大体どの辺りか把握できる。
左胸が、熱い。
もう一度、あの場所に立ちたい。初めて迷宮に足を踏み入れるプレイヤーに、代わり映えしないいつもの決まり文句を告げ、戦いへ向かうその背中を見送りたい。
自分がいるべき場所を、あの穏やかだった毎日を、取り戻したい。
「眠れないんですか?」
ナディが初めての『感慨深い感傷』に浸っていると、不意に背後から声をかけられた。
青色の髪をオーロラのように煙らせ、ほどよく日焼けした肉付きの良い健康的な腕を伸ばし、髪をかきあげる。
色っぽく頬を染め、なるべく音を立てぬよう注意深く歩み寄った。
「エリアか」
「あたしも何だか、眠れなくて」
ヴァーチャル空間で眠るとはおかしな話だとも思ったが、ナディはそれを口にしない。
返す言葉の見つからぬナディはエリアに視線を送ると、その場に座り込み、夜空に浮かぶ星芒を見据えた。
するとエリアもナディの隣に腰を下ろし、同じように夜空を見つめ、
「……綺麗ね」
「ああ、アマセ・コーポレーションが雇用するグラフィッカーは、腕利きな奴が多い」
「もう……、そうじゃなくってー!」
真顔で応えるナディに、不意を突かれて笑い出すエリア。
ひとしきり笑ったところで、エリアはナディにしなだれかかる。
柔らかな体躯を押し付け、甘い吐息を放ってみせる。とは言っても、その全てがデータの織りなす錯覚及び、脳をだました電気信号に他ならない。
人一倍そういった事実に敏感なナディは、脱力してしなだれかかるエリアを見やり、半眼を見せた。
「疲れたのか? それともやはり、眠くなったか」
「ナディさんって、リアル年齢いくつくらい?」
「…………」
「答えたく、ないか」
エリアは勝手に納得したように「そっか、そっか」と呟くと、腕を伸ばして立ち上がった。
新緑の高原に褐色肌は、よく映える。
「寝てくるわ。興味ない振りしておいて、寝てる間に襲っちゃやーよ」
「襲うのは魔物の仕事だろう?」
「だからー、その魔物になっちゃいやっていったのー!」
実際このVR空間で、他者を性的に襲うことは不可能なはずだ。
そこまでの機能をサンシローが組んでいるとは思えないし、それ以上に、万が一にもプレイヤーが傷つくようなゲームを、サンシローが作るとは考えられない。
このゲームを作成する時、過去にサンシローが参考にしたという書籍では、何かしらの動作を行うとそれが可能になるとか無いとか、ルリィが面白おかしく話してくれたことがあったが。
「……まさかな」
エリアを背中で見送り、ナディは誰もいない高原を振り返る。
夜だから魔物が出ないとも限らない。万が一を考え、見回りをしておこう。
ナディは立ち上がり、辺りを警戒しながら高原を歩む。
彼が持つ武器は簡素な弓矢一つだが、ないよりはマシだ。
高原を少し抜けると、薄暗い森林が顔を覗かせる。
近未来都市アーズへ向かうには、この森林を越える必要は全く無い。
ちなみに言うとナディたちのいる深淵迷宮街グラールとは、『始まりの街』からアーズまでを直線で結ぶと、丁度中間地点にある。
少し現実的な話になってしまうが、さらにアーズ付近に位置する幾つかのフィールドは、数か月後のアップデートやイベント開催時に解放される箇所が多々あり、始まりの街からここまでと比べると、越えなければならない難関フィールドは少ないと思われる。
さらに朗報、直線距離とは途中の道筋を全面的にすっ飛ばした道のりのことである。
もちろんその分アーズまでの道のりが長くなることは必然なのだが、グラールより前半は、通り抜けなければならない道のりが多く設定されている。
それは勿論データ容量をなるべく増やさずに、飽きずに長く楽しんでもらおうという制作陣の意図が見え隠れするフィールド配置だが、ともかくこれからの道のりは、地獄のように長いわけでも辛いわけでもない。
そして先ほどの戦闘を見たところ、八人――とくにアインハルトとシグマなどは、グラール大地で燻っているのが不可思議なほどの強プレイヤーだった。
ナディ一人ならともかく、これだけの人数――さらに途中から残党に出会えると思えば、そこまで気負うほどのことは無いかもしれない。
――と、ここまでナディが考えたわけではないが。
「無事、この世界に平穏を取り戻したいものだ」
「あれ、ナディさん。ご就寝になられてなかったんですか?」
ナディの呟きを聞いたか否か、両手いっぱいに何かを抱えた黒衣の少年剣士――アインハルトがナディの前に現れた。
闇に包まれた森林の入り口、魔物の気配は無いが、松明も無しに飛び込むのはかなり危険なフィールドだ。
ナディは一瞬、無防備を晒しながら飛び込んだアインハルトを嗜めようと言葉を探そうとしたが、自分も同じ真似をしかけていたことに気が付き、開きかけた口を閉じた。
同じことを申そうとしたのか、アインハルトも口を開きかけ、すぐに閉じた。
そしてまた、先ほどと同じような柔らかい微笑。感情を出し過ぎると有名な3Dモデルアバターをこれだけ正確に表示できるとは、一体彼はどのような感情を抱いているのか。
「いい、笑顔だな。私には、そんな表情は出来ん」
「ありがとう、ナディさん。でもそれを言うと、ナディさんの時折見せる真顔も、どうやって出してるのか少し気になるね」
人工知能NPCであるナディは、気を抜くと勝手にそうなるだけなのだが、常時何かしらの感情を抱く生き物である人間にとって、心内に関して嘘を付けない3Dモデルに、真顔をさせるのは難しい――実質不可能なことなのだ。
常時感情表現を切っていれば一応は可能だが、ナディは真顔の中で時折表情を変えるので、その可能性は完璧に除外。
そうなると、やはり真顔の秘密は気になってしまうものなのだが――。
「まあ俺は別に、人の嫌がることを詮索したりしないけどね」
「その割に、シグマとの空気が少し険悪だったと思うが?」
「出会ったばかりなのに、鋭いね。ナディさん、よくともだ――他人にお節介とか世話好きって言われない?」
ナディは誰かしらの世話をしたこともなければ、誰かにお節介を焼くことも無い。
むしろルリィと出会ったばかりの頃は、延々と学習情報を流し込んでくる彼女のことを、煩わしいと感じたぐらいだ。
「言われんな」
「そっか。ナディさんって、リアルに友達っている?」
「友達……?」
ナディの学習情報に、未だ『友達』という言葉は存在していない。『デスゲーム』と同じく、今後ルリィとの学習時に覚えられるよう記憶媒体に収めておく。
微笑の中に一瞬だけ寂しげな表情を浮かべると、アインハルトはその顔を隠すよう即座に回れ右。
「いや、別に良いんだ。なんか、同族っぽい匂いがしたから、さ」
「私と、アインハルトがか?」
アインハルトは振り返らず、自身の身を包む防具を撫でつけた。
闇に溶け込む漆黒の防具は、暗黒を吸い込み、妖気な色彩を辺りに放つ。
漆黒龍の素材を使用した全身装備に、黒揚羽の素材を使ったバグガードなるカイトシールド。腰に携えた氷のように冷たい剣は、ILO開始最初のイベントにて最短クリア者に贈られた、二つと無い武器――コスモソードだ。
漆黒龍に関しては、アーズ手前の黒龍渓谷を何十回と回らなければ出現しない希少な魔物、しかも討伐にはかなりの時間と知恵が必要。
黒揚羽は数さえ多いものの、黒揚羽の素材のみで武具を作るとすると、尋常では無い量の黒揚羽を倒さなければならない。
どれもこれも、生半可なプレイで手に入るような代物では無い。
「俺はこんな、最強装備だからまだ生きてるけどさ。ナディさんは、初期防具でここまで来たんだろ? 初期防具、しかも武器までそんな簡素なやつなのに、初見の魔物と対峙しても、一撃ももらわず打倒する。――言い方悪いかもだけど、廃人って、やつだよな。俺とはまた違ったプレイスタイルだけど、ナディさん見てて、そう思った」
だから――、と、アインハルトは背中で呟く。
「俺はあなたと共に、戦いたい。俺は強いけど、今残ってる全員を守るには、手が小さすぎる」
「シグマ――あいつとかも、今回の戦闘を見たところかなりの強プレイヤーだと思ったが、」
「ハッ」
ナディの言葉を遮るように、アインハルトは鼻で笑う。
振り返ったその顔に、柔らかな微笑は浮かんでおらず。
「シグマ、シグマさんね。確かに強いと思うよ。でもきっと、ここから先のフィールドを自衛しながら進むのは無理だと思うね。シグマだけじゃない、リリアンもオーディンも、エリアもシーザーも、あとなんか名前知らないけどでっかい盾持ってるやつも! ここから先一人で行きぬけるかって言ったら絶対無理だ。他の奴は良い。シグマさん以外のやつは、自分たちの限界を分かってるし、無謀な真似は絶対にしない。でもシグマさんは、いっつも自分の力を過信して、一人で突っ込んでいく。死なないにしても毎回ボロボロになって戻ってきて、いっつもリリアンに回復してもらってる。デスゲームだと、ああいうのが、絶対最初に痛い目見んだよ!」
唾棄するようにぶちまけると、アインハルトは柔和な微笑みを作り、ナディを見た。
「だからナディさん、俺はあなたが必要なんだ。守りたい物が多すぎて、俺一人じゃ守れない。だから、手を貸して欲しい。……俺は、これ以上仲間たちを失いたくないんだ」
ナディは、その微笑の奥に微かな悲壮が浮かび上がるのを見て――、
「分かった、約束しよう」
初めて、他者への気遣いというものを覚えたのだった。




