第四十二話 『最上層の魔物-2』
ナディがおかしいなと思ったのは、前方にて繰り広げられる近接乱舞の集団の中に見慣れた黒いプレイヤーがいないことに気が付いた頃だった。
こういったシチュエーションでは真っ先に飛び出し、シンゲンとともに誰よりも高い貢献ダメージを叩きだそうとするはずの少年――アインハルトの姿が見えない。最初こそ疲労でも溜まったのだろうと気にも留めていなかったが、それにしては休息時間が長い。それよりか、彼はこうして戦闘中に休息をとったことがあっただろうか。しかも無防備を晒すこんなベストなタイミングで、わざわざ。
精密機器のように無駄のない動作で矢を穿ちながら、ナディはアインハルトを探していた。
よそ見をしながら撃とうが、ナディの放つ矢は正確に黒鋼龍の胸元を貫いていく。それを見た他のプレイヤーたちは、ナディが狙う箇所を目掛けて弓や銃を構える。
今までの戦闘では《ナディが狙う箇所=その魔物の弱点部位》という方程式が成り立っていたため、ナディの後方に陣取った遠距離プレイヤー集団は、ナディが狙う場所に次々弾丸を抉り込ませているのだ。
しかし実際問題、ナディが撃っている場所は弱点部位でもなんでもない部分だ。
サンシローは黒鋼龍に関するデータをナディに組み込んでおらず、弱点部位はおろか行動パターン――ましてや容姿、名前から全てをナディは今この場で知ったのである。
前にナディが推測した通り、サンシローが『いつかナディにもILOを楽しんでもらいたい』という願いからそういう配慮をしていたのであれば、歪ながらその願いは叶ったと言えるか。
「しっかし本当、リリアンちゃんのスキルアビリティって便利よね。あんな強そうな巨龍の遠距離攻撃を、全部封殺しちゃうなんて」
「実際ILOだと、近距離物理攻撃と遠距離攻撃に威力の差があまり無いからな。そういったスキルで調整しておかないと、色々面倒なんだろう」
「前々からちょっとだけ思ってたけど、ナディさんってよく運営目線でこのゲームの話するよね」
《熱溶弾》なる体表を溶かす弾薬を込めながら、エリアはさらっと重大なことを呟いた。
「そう、か?」
「普通――うーん、あたしが勝手に思ってる普通だけどさ。遠距離攻撃と近距離攻撃のダメージが同等だったら、遠距離攻撃が完全に有利になっちゃうからとか、股下で乱舞する短剣とか双剣プレイヤーだらけになっちゃうからとか、自分を中心に据えた考えをしちゃうなって」
「…………、」
無意識な科白に、ナディは口ごもる。ナディにとってのMMOとは、自らが楽しむものではなく、他者を楽しませるための場所を提供するためのものだと思っていた。いちプレイヤーとしてILOを楽しみ始めてから若干考えは変わったかもしれないが、やはり長いNPC生活で埋め込まれた常識は、そう簡単に拭い去られるものでもない。
「ナディさんはもしかすると、クリエイティブな人なのかもね」
そんなナディの葛藤を知ってか知らずか、エリアは妙な詮索をすることなく話題を終わらせた。
「ほら、出ないブレス攻撃のモーションが終わる前に、出来る限りのダメージ与えとこ」
そう言って、エリアは熱溶弾を黒鋼龍の腹に撃ち込んだ。ジュウという音が響き、銀色の甲殻が疼く。塩酸をかけたように体表が溶け、赤黒く柔らかい肉が外界に晒される。
その攻撃を皮切りに、無数の弾丸と矢が黒鋼龍の腹に撃ち込まれた。先ほどまで甲殻に弾かれていた物理ダメージが面白い程に蓄積される。近接プレイヤーが叩きだす斬撃ダメージを相まって、明らかに怯みを起こす頻度が増している。
「ラスボスって言う割には、大したことない敵だな!」
後方にて体力を温存していたシグマの声が響き、強固なプロテクターを身に纏った樋熊が豪快に飛び出した。
現実年齢のせいか疲弊が溜まっており、先ほどまでは後方にて数名のプレイヤーたちと休息をとっていた彼だったが、怯み頻度が高まり安心感を持ったのか、討伐に参加することにしたらしい。
「シグマさん、もう大丈夫なんですか?」
「俺だっていつまでも休んでなんかいられないさ。アインハルトもさっきから休憩してやがるし、ここは俺が一撃打ち込んでやるぜ」
プロテクターに包まれた手の甲を打ち付け合い、シグマは駆け出した。獣の雄叫び。ウガァァと低い唸り声で叫びながら、漆黒の樋熊が黒鋼龍の足元へと突進する。
丸太のように太い足の筋肉を伸縮させ、中空へと跳躍する。鉄槍の爪を振りかざし、堅牢な甲殻へと打ち付ける。ガキンという金属同士をぶつけた音が木霊し、シグマの体躯は後方へと吹き飛ぶ。だがシグマも一度攻撃が弾かれただけで諦めたりなどしない。立ち位置を変え、近接プレイヤーひしめく黒鋼龍の股座へとその身を滑り込ませた。
複数の剣閃が瞬くが、その全てがシグマの身体をすり抜ける。現在進行形で連撃アーツを打ち込む剣士たちの邪魔にならぬようステップを踏み、鉄槍の爪を装着した拳を突き出す。
物理的な攻撃行為としてはその銀色の甲殻に弾かれるが、ここは仮想現実、どれだけ攻撃が弾かれようと微量なダメージは確かに通っているのだ。
「――ガァ!」
牙を剥き、ナイフのように鋭い双眸をギラリと細める。戦意を高める声をあげながら、一心不乱に拳を突き出す。
堅牢な甲殻には傷一つつかないが、自らの行為は決して無駄にはならない。その事実こそが、今のシグマのやる気を上昇させる。
全身から汗が噴き出す錯覚を得ながら、シグマは連撃の手を止めずに声を張り上げる。
「エリア、ナディさん! ここからじゃよく見えねえんだが、黒鋼龍変な行動起こしてないよな!?」
「大丈夫、シグマさんがいる――黒鋼龍の足元に影響を与えるような攻撃は起こしてない!」
大気を揺るがすような絶叫。莫大なダメージの蓄積からなる怯み。黒鋼龍の動きが停止した刹那、シグマのいる足元へと無数の剣士や戦士がなだれ込んできた。
レア装備に身を包んだ、トッププレイヤー前衛集団。見たところ、全員シグマよりも高いDPSを叩きだすことができそうである。
「一旦退くか」
足元という狭いスペースを譲ろうと、シグマは黒鋼龍の股座から撤退。普段は危なっかしく動き回るしっぽもだらりと垂れており、そのすぐ傍を疾走する。
ただ逃げるだけなのはつまらないため、通りすがりに無防備に垂れるしっぽを鉄槍の爪で二、三発引っ叩いておいた。
「戻って来たぞ」
ぐるっと遠回りに旋回。安全なルートを確保しながら、シグマはナディやエリアのもとへと戻ってきた。
やり遂げたような表情をしているが、その顔には疲弊の色が滲み出ている。
「ちょっとシグマさん! 顔、汗だくだけど大丈夫なの!?」
「心配するな、獣人は発汗エフェクトが大袈裟なだけさ」
「……それならいいけど」
「そんな設定はされてなかったと思うが」
「ナディさん」
空気読め、とでも言うようにシグマは短くナディの名を呼ぶ。居心地の悪そうな顔をしたシグマを見て、ナディも自身の失態を理解。理解してから次なる失敗の予防を行うのは、ナディの特技の一つだ。
余計なことは言わない、という人間としては当たり前のことを今一度反芻し、咀嚼する。
「シグマさん、本当に大丈夫なの?」
「へーきだよ。つーか、こんな仮想空間でぐったりと休憩してるより、少しでも早く黒鋼龍倒して現実世界のふかふかなベッドで眠りたいよ」
腰の辺りをさすりながら、シグマは虚勢の籠った乾いた笑いをこぼす。
ナディにはその感覚は分からなかったが、エリアの表情が曇ったのを見て、心無い余計な発言をすることは堪えた。
そういえばサンシローも、疲弊して帰宅した日には何も言わずベッドに横たわっていた。潜り込んでからルリィと何かしらのことはしていたようだが、どうやら人間というのは布団に潜ることを好むのだということは大体理解できた。
「エリアも、ベッドに潜りたいのか」
「ナディさん、その言い方は少し卑わ――――いでぇ!」
シグマの頬に小麦色の裏拳が直撃した。
「口下手なナディさんが精一杯気遣いの言葉をくれたのに、シグマさんったら……」
「おまっ……。さっきまで『大丈夫?』とか俺のこと気遣ってたのに、突然殴るとか!」
実際には痛くないはずだが、シグマは毛深く大きな手で頬を撫で、
「まあいいや、お前らが無事なことも確認できたし、俺はまた足元で拳振るってくるよ」
「イッテラッシャイマセゴシュジンサマ。キヲツケテクダサイマシ」
「何故メイド!? しかも片言だし!」
シグマのツッコミに、「えへ」などと笑ってコツンと側頭部を叩いて舌を出す。
ちなみにナディである。
さっきとは別の意味で疲れたような顔をしたシグマはナディの顔を一瞥すると、片手を挙げて背中を向けた。
雑踏の中へと消えた樋熊格闘者の背中を見送り、エリアは脱力したように重い溜息。
「どうしたのだ」
「んー、いや、これ倒し終えれば帰れるって思ったら、変な脱力感が」
「そう、か」
帰れる、とはナディにとってあまり身近ではない言葉だ。この閉鎖された空間が解き放たれたとしても、ナディの生活の大半はこの場所で紡がれる。時折別の簡素な(ナディと比較して)人工知能と交代して、サンシローやルリィの私生活を傍観したりするが、ごくわずかなものだ。
ナディにとってグラールの大地こそが我が家であり、故郷のようなもの。ナディが今まで冒険を続けていたのは、この仮想世界を元の平和なものへと回帰するため。しかし他のプレイヤーたちは、自分たちの居るべき場所へ帰るために戦い続けてきたのか。
どっと、言葉にし難い感情が湧きあがった。
今まであまり考えていなかったが、もしかするとエリアたちはナディが思っている以上に心労を感じているのではないか。
「……エリア」
「なーに? ナディさん」
「今まで、頑張っていたのだな」
「待って! 何その出発前の特攻隊を見るような顔。あたし別に、今更あの場所に突っ込んで行ったりしないよ?」
労わるようなナディの表情に、エリアは思わずうろたえる。
ナディとしては上述の通りの思考から現れた、慈悲深き感情だったのだが、そんなことエリアは分かるはずがない。シグマを戦地に送り出した刹那そんな顔をされたとすれば、まるで自分まであの場所へ行って来いと遠まわしに言われているような、そんな錯覚を生じさせる。しかも大方純粋な心をもってそのような表情を見せているのだから――たちが悪い。
ナディの優しげな目から目を逸らし、エリアは両手を突き出してぶんぶんと首を横に振った。
「ほらナディさん、あたしたちも早く戦力にならなきゃ! 休憩は終わり、ね?」
菩薩のような顔で見つめるナディから視線を剥がし、エリアは二丁魔銃を取り出してクルクル回す。
そしてそのまま普段通りに、照準を合わせて引き金を引くだけで良かったのだが――、
「……あれ、ナディさん。黒鋼龍の様子がちょっとおかしいんだけど」
エリアの瞳に映る光景。先ほどと変わらず、トッププレイヤーの集団が黒鋼龍の足元で一心不乱に斬撃攻撃を叩きこんでいる状況だ。しかし、何かが違う。
――口腔に橙色の灯が灯っているのだ。
何故だろう、とエリアは片目を瞑ったまま首を傾ける。怒り状態の段階を識別させる何かだろうか。ブレス攻撃――は、リリアンたちが持つスキルアビリティで完全に封殺されているはずだ。
だとすると、あれは何なのだろう。
「ねえナディさん、黒鋼龍の口の中、なんか少し光ってるように見えるんだけど――」
「――危ない! 黒鋼龍にはまだ隠された能力があったんだ! 皆、早く安全な場所へ逃げて!」
エリアの疑問がナディに届くより先に、絶叫のような少年声が空間内に響き渡った。
聞き覚えのあるショタ声に、エリアは即座に顔を向ける。フィールドの隅の方で声を上げる黒髪の少年は、まごうことなくアインハルトその人だ。
さっきまで黒鋼龍と戦っていたのに! と思い、戸惑いナディの顔を見ると、彼は先ほどの修道士のような表情を解き、いつもの無表情でアインハルトを見据えていた。
その顔に驚きや困惑の色は見えない。
普段からそうだったと言えばそうなのだが、今回はその表情が、何もかもを見通しているようで心強い。
「アインハルトくん! あれ、あの口が光ってるのはなん――」
エリアの問いかけが終わるより先に、その答えが出た。
黒鋼龍の咆哮とともに、口腔周囲に橙色の光が集まる。一つ一つは小さなその光の球体は徐々に肥大化し、やがて黒鋼龍の顔よりも大きくなる。
「嘘、ありえない……。スキルアビリティが正常に発動していれば、そんなはずはない!」
「だから危ないんです! 俺もさっきまで自分の考えに疑いがあって声に出せなかったんだけど、今のを見て確信した。黒鋼龍にはまだ何かある。スキルアビリティを無効化するか、もしくはスキルアビリティ事態を封殺する能力か」
アインハルトの言葉に区切りが出たと同時に、ゴウン! という音が木霊した。
橙色の球体が幾つも口腔から吐き出され、地上にいた近接プレイヤー集団に降りかかる。
逃げることは適わないと察したのか、耐久値に自信があるのであろうタンカー系統の騎士たちがこぞって前に飛び出し、盾を振りかざした。
しかしその決死の行いも、強大な龍の前では所詮灰塵――ゴミのようなものだ。
悍ましいほどの熱量を帯びた球体が激突すると同時に、飛び出したタンカー騎士たちは粉々に吹き飛び、光の粒子となって弾け飛んだ。
あまりに強大で、あまりに冒涜的な行いだ。
本来は美しいはずの、人々が起こした決死の覚悟を火炎玉一発で無に帰してしまう。
歯噛みをしながらも、エリアの中では別の思いも湧き上がっていた。所謂例えばの話ではあるが――もしこの場に、リリアンのようなスキルアビリティを持ったプレイヤーがいなければ、あれを開幕当初から浴びることになっていたのか、という畏怖の感情である。全身が粟立ち、背筋がぞっとする。
所詮ゲームだ、などと片付けられるような代物ではない。人間の奥深くに眠る原始的な恐怖を呼び覚ますような、恐れの塊。どうせ届かないだろう――などという物理攻撃とは違う。ちょっと黒鋼龍が気まぐれに顔を上げれば、今すぐにでも自分が受けていてもおかしくない攻撃行動なのだ。
どこか遠くの国で起こった紛争より、地元で起きた通り魔事件の方が恐ろしい。
エリアは今一度“死”という恐怖を身近に感じることとなった。
「ど、どうして……?」
「時間経過や累積ダメージで、魔物の行動パターンや苦手属性が変わることは多々あることだ。大方スキル封殺系統の能力が発動したか、リリアンたちのアビリティが反応しない攻撃方法へと切り替えたのだろう」
思わず漏れた疑問に、ナディが無表情のまま淡々と答えを告げる。
確かにその推測は、エリアにも分かる気がする。遥か昔流行ったポータブル機器のゲームでも、累積ダメージや部位破壊によって弱点部位が変わったり、時間経過で変わった行動を起こすモンスターが出てきていた。
初見殺し――とまではいかないが、初めて対峙した時は何とも言えない感覚を得る。全く新しい敵を相手にしたような興奮と、今までのプレイヤースキルが通る相手だろうかという心地の良い不安。
生命がかかっているだけで、あれと同じようなものだ。
シグマが聞けば「生命を軽んじるな」と言って怒るかもしれないが、同じ。当時まだゲームというものと出会って間もない頃は、ゲーム内で死亡して始まりの地点に戻されるという現象が何よりも怖かった。
生き抜こう、という強い意思の力は変わっていない。
「――そうだ、シグマさん。シグマさんは無事だよね!?」
エリアは半透明のウィンドウを開き、ギルドメンバーの無事を確認する。
アインハルト、オーディン、シグマ、ナディ、リリアン――――、
「――――!?」
そのリリアンの体力ゲージを見て、エリアは思わず言葉を失った。
体力が全開になっていれば、薄緑色で塗りつぶされている細長いゲージ。それが、リリアンの場所だけ真っ黒に塗り替えられているのだ。
否、完全なる漆黒とは違う。もしリリアンの体力ゲージが累積ダメージにより蝕まれているのであれば、名前の部分が消滅あるいは薄いグレーになっているはずだ。しかしリリアンの名前は黒々とした濃い字面で残っている。これが意味することといえば、つまり。
「ギリギリの状態で、生命を繋ぎ止めていられてる――?」
暫し見つめていると、リリアンの体力ゲージが徐々に回復し始めた。アイテムか魔法か直接的な要因は分からないが、ともかく生存が確認できた。
強張っていた表情を安堵に緩めさせ、額の汗を拭う。寿命が二年ほど縮んだかと思った。
ここまで無事に辿り着いたのに、最後の最後で仲間を失ってしまうなど許せない。
閉じかけたウィンドウを、一応もう一度だけ開いてみた。
何の気なしに起こした行動。この目でちゃんと全員の無事を確認しておけば安心できる、という至って単純な理由。
メニュー画面からメンバー全員の状態を確認するページを開き、上から視線を滑らせる。
先ほどと寸分違わぬ光景が広がっていると、信じて疑わなかった。
「――え、」
虚空をタッチする手がピタリと止まる。
エリアの眼前には到底信じられない――信じたくもない現実が映し出されていた。
黒々と刻まれた名前の中に、一つだけ薄いグレーに変色した名称がある。ログアウトしたときなどにそういう色になるが――、この状況で誰がログアウトできるのだろうか。
「……嘘。嘘、でしょ?」
生命の根絶を示すその名前を指でなぞりながら、エリアは今一度その名前を口の中で呟いた。
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振り向いた龍の口腔から発弾された火炎玉を見送りながら、紫の魔術師リリアンはミリオンロッドを握り締めながら腰を抜かしていた。
ペッタリと床に座り込むと、太ももからお尻のあたりがヒンヤリとする。
慌てて回復剤をアイテムバッグから取り出し、一気に飲み干す。淑女がするにははしたない飲み方ではあるが、そうもこうも言っちゃいられない。彼女は先ほど、物理的にその身を失いかけたのだ。助かったのは、本当に偶然だったとしか表現できない。
自分に向けて撃ち出された火炎玉。避けられるか微妙な距離ではあったが、リリアンが咄嗟に起こした回避行動は一応功を成した。背中の一部分に若干炎の塊が接触し、ごっそり体力を持っていかれたが、生命を繋ぎ止めるだけの余力は残すことができた。
「大丈夫ですか、リリアンさん!」
狙われたとき傍にいた回復職の女性魔術師が、《ショック・小》の影響で歩行などの行動が制限されたリリアンに手を差し伸べる。まだ少し動きにくいが、《ショック・小》は時間経過により解かれているはず。もし状態異常がまだ効いているのであれば、こうやって肩を貸してもらっても動けるはずがない。
このふらつきは精神的なものだ。無理もない。リリアンたちは安全圏にて出来る限りヘイトを稼がず、スキルアビリティを発動させていることを存在理由としていたのだ。無論攻撃の対象にされるとも思わなかったし、ましてや遠距離攻撃を撃ち出されて生死の狭間を彷徨いかけるなど――、
「そんなこと、思いもしなかった」
震える手でミリオンロッドを握り締め、一旦壁際まで退避。スキル封殺かアビリティが効かぬ攻撃なのか分からないが、ともかく現在リリアンたちに出来ることはない。無駄な死亡者を出さぬためにも、もう少し離れた場所にいた方が良いだろう、という考えだ。
リリアンと同様のアビリティを持った三人の魔術師は、顔だけを振り向かせながら駆け出した。
一応回避行動に移行できるよう、全速力で走るようなことはしない。いつまたリリアンたちが狙われることになるか分からないのだ。
「早く、早く逃げないと――――!」
どれだけ急いでも、足がもつれたりすっ転がったりしないのが仮想現実の良いところだ。
現実世界では割と転ぶことの多いリリアンは走るのが嫌いだったが、ここでは転ばないから走るのも嫌じゃない。
「リリアン!」
聴き心地の良い、格好いい少年声がリリアンの耳朶を打った。
聞き間違えることはずがない――アインハルトの声だ。持ち前のあざとさで思わず手を振ってみせたくなるが、さしものリリアンでもそこまで抜けていない。黒鋼龍の口腔を見据えながら、声だけで返事をする。
「アインハルトくん!」
「リリアン、危ない! 後ろじゃない、右だ!」
剣呑な雰囲気を込めたアインハルトの怒鳴り声。火炎玉が放出されるであろう口腔から目を離すのは気が引けたが、アインハルトの声音に尋常ではないものを感じ、リリアンはチラと右側に視線を送った。
「――え」
それは、リリアンには銀色に煌めく大蛇のように見えた。
堅牢な甲殻に包まれた、黒鋼龍の長い尻尾。体躯の方向転換に伴い、地面を滑るように銀の大蛇がリリアンへと迫ってくる。
目の前が真っ暗になった。口腔からの遠距離攻撃にばかり気をとられており、長い尻尾の存在を失念していた。
――飛び越えられるだろうか。アインハルトやシグマ、シンゲンほどの跳躍力や敏捷ステータスがあれば、それもまた可能だっただろう。縄跳びをするような気軽さで、尻尾による物理攻撃を躱すことなど造作もないことだっただろう。
しかしリリアンは魔法職。そういったステータスには自信がない。もし跳躍が届かなかったら――そう思うと、逡巡が入って踏み切りに力が入らない。
「リリアン!」
アインハルトの声がすぐ後ろに聞こえた。
「きゃっ!」
背後から漆黒の影に掴まれ、刹那視界が上昇した。脇の下をくすぐられているような感覚に思わず身体を捩ろうとしたが、自身を掴む力が異常に強く、身動きをとることが許されない。
数瞬の空中浮遊の後、ストンと地面に降下する。
まだ心臓がバクバクする。誰だろう――などと野暮なことは思わない。掴む力が弱くなった隙を突いて、リリアンは体躯をクルンと回転させた。しっかりと背後から身体を抱きしめられていたのだから、無論身体ごと振り返れば眼前にはリリアンを救った王子様の顔がある。
「……アインハルトくん」
「無事だったか、リリアン」
黒髪の少年アバターが、優しげな瞳でリリアンのことを見つめていた。
その鳶色の瞳に吸い込まれるように、リリアンは体重を預ける。アインハルトの薄い胸板に顔を埋め、今一度安心する。
やっぱりアインハルトくんは、自分のことを一番に助けてくれた。
「ありがと、アインハルトくん。大好き」
腕を回して顔を擦り寄せる。彼はどんな表情をしているのだろう、そして彼女や彼女はこの状況をどのような感情で見ているのだろう。
ハンカチを噛みしめて「キー」とか言っているのが想像できる。
ちと少女マンガ的すぎる妄想だが。
「リリアン、」
「アインハルトくん……」
もう何度も――、ILOが不正改竄されるよりもずっと前から、二人の想いは変わらない。
このまま二人だけの世界で、ずっと一緒にいたい。
そんな幸せな空気に水を差したのは、一人の獣が発した声だった。
「――――二人とも、危ねえ!」
声に気が付き、思い合う二人の少年少女は同時に顔を向けた。
視線を上げると、いつの間にか黒鋼龍はこちらを向いている。犬が西向きゃ尾は東と最初に言ったのは誰だったか。ともかく、地面に弧を描いた尻尾はそのまま向こう側まで滑り、顔――というより口腔が、こちらを捉えてるのだ。やがて口腔には橙色に輝く球体が生成され、瞬く間に膨れ上がり、二人を目掛けて発出された。
目の前が真っ暗になる。全身から嫌な汗がぶわっと吹き出し、思わず座り込みそうになってしまう。
しかしそのリリアンを支えるように、アインハルトの腕がしっかりとリリアンの体躯を抱きしめる。
破格の敏捷ステータスを利用した跳躍を行おうとしているのだろうということは、魔法職であるリリアンにも何となく理解できた。が――、
「ヤバい、さっきまでの戦いで疲労が溜まってるみたいだ」
アインハルトの足は、まるで杭でも打たれたかのようにピッタリと地面に食らいついたまま動かない。先ほどリリアンを抱えて行った跳躍が、最後のスタミナだったのだろう。
無論ひと時でも撤退することができれば、疲労回復剤を飲んで万全状態まで回復することはできる。
「アインハルトくん」
アインハルトの疲労状態では、この場から逃げられないことをリリアンは悟った。
だからといって、彼を置いて逃げることが出来るだろうか。リリアンはアインハルトと離れたくない。
胸元に顔を埋め、最期を悟る。
喩え仮想現実世界のアバターだろうと、死に間際に大切な人と一緒にいられるというのは、ある意味幸せかもしれない。
十七にも満たない幼い少女なりに、今生の未練を残さぬような言葉を思い描きながら、リリアンは静かに瞑目した。
「――――――――」
内部から肉を破裂させたような音とともに、火炎玉が直撃したアバターは粉々に霧散した。
血も出ない、骨も無い、無味無臭無機質な死。
元からそのような者は存在しなかったのではないかと思ってしまうほどに、あっさりとした消滅。
火炎玉の軌道上に自ら飛び込み、若い二人を救った勇敢な獣の死に様とは、実にそのようなものであった。
――熊田狩夫。シグマの生命はここで絶たれた。




