第四十話 『アイドルと番犬』
――一方通行。
その光景を目にしたプレイヤーたちは、揃って同じ感想を抱いた。
精密機器のように迷いのない動きに、的確な一撃を射出する弓兵。無駄な動きのない構えから撃ち出される矢は、空気を貫く鈍い音を立てながら突き進み、着弾する。
這い回る“蠢く腕”を貫き、血飛沫とともに腕は光の粒子となって霧散する。
新たなプレイヤーが二十六階層に足を踏み入れるごとに、地中からまた新たな“蠢く腕”が出現する。無防備に突入した獲物を狩らんと、足りない知性を酷使しながらその腕は生者を引きずりこむ。
しかし、それはもう一人の遠距離プレイヤー――褐色銃士が許さない。
二丁魔銃を指先でクルクル回しながら、火炎の弾薬を内部に詰める。健康的な腕をしなやかに伸ばし、肩幅に足を開いてバキュン! 心奪われるような魅惑的なウィンクとともに、青紫に煌めく魔銃から発砲音が木霊す。赤々と燃えた弾丸が飛び出し、虚空を削り取る。連射機能を使用して五、六発吐き出された弾丸の内、半分は見事に“蠢く腕”へと着弾する。残りは残念ながら外れた。エリアはナディと違って、精密な動きをすることは不得手なのだ。
着弾した弾丸は手首へと埋め込まれ、刹那小さな爆発音とともにその体躯を燃やし尽くす。
物理、火属性ダメージとともに、爆裂属性の固定ダメージをも与える銃士としては基礎的な弾丸だ。火が得意な魔物以外であればとりあえず撃てば使えるという、万能な弾薬。調合素材の多くは先ほどの二十五階層にて採取済みだ。
“蠢く腕”の出現と同時に、矢が放たれ、弾丸が撃たれる。
余計な真似など一切起こさせない。耐久値が低い魔法職や、動きのトロいタンカー系統。様々なプレイヤーたちが二十六階層へ突入する度に、新たな“蠢く腕”が地中から現れる。
そしてそれを無慈悲に殺害するのが、弓兵ナディと銃士エリアの役割だ。
シンゲンの話では、耐久によっては一撃貰っただけで即死するような攻撃力を持っているらしい。その代わり、耐久値は低いようだが。そのため掃討するのは難しくないが、放っておくと厄介なことになるという、非常に面倒くさいMOBになったようだ。
「エリア、疲れたら休んで良いんだからな」
「大丈夫だってばー。それよりナディさんだって疲れたら言ってね。あたしだって、トッププレイヤー集団に揉まれながらここまで来た銃士なんだよ。これくらいへーきだって」
指先でクルクルと銃を回しながら、ナディに向かって熱いウィンク。後方から『揉まれる……』などと呟きながら悶々としている声が聞こえてきたが、意図的に無視する。エロいアバターにしたのは自分の責任だ。
弾丸を撃ち込み手首を吹き飛ばすだけの役割。しかしそれも、こう長く続くと集中力が途切れてくる。
隣で弓矢を撃つナディは全く疲れた様子を見せないが、エリアはもう限界が来始めていた。
視界が霞み、額に汗がじんわりと滲む。伸ばした腕からはポタポタと雫が垂れ、足が震え始める。さっきは強いことをいったエリアだったが、流石に十分近くもヴァーチャルリアリティなSTGまがいのことをしていれば、疲弊も溜まる。
「ナディさん、ごめん。……あたし」
火炎弾を撃ちこみ数百体目の“蠢く腕”を抹殺したところで、エリアはその場に崩れ落ちた。介抱しようと近寄ってきたプレイヤーが数人いたが、全員目が色々な意味でヤバい状態だったため、疲弊しながらもやんわりと断っておく。あんな荒い息で傍にいられても、心が休まらない。
エリアはペッタリと膝を着きながら、ナディの背中を見つめていた。
銀青の鎧を揺らしながら、弓兵ナディは今も正確に弓矢を放っている。その動きに躊躇いや間違いはない。確実に外すことはなく、さらに疲弊した様子も見せない。
「すごいなぁ……」
「ほら、大丈夫か?」
エリアがナディに見惚れていると、不意に目の前に疲労回復剤が出された。受け取ってから差し出したその人の顔を見ると、他でもないシンゲンだった。
色白で日本的美女な容姿は、未だ慣れない。
「ありがと、……シンゲンさん」
「お礼を言うのは僕の方だよ。正直言って、君たちには本当に助けられたからね」
遠い目をするシンゲンを見ながら、エリアはコクコクと喉を鳴らす。口端から零れた液体が、顎から首筋を伝って谷間へと潜り込む。こういった液体系のアイテムを口に含むと、何故かこうなってしまう。零しても機能が下がったり性能が悪くなることはないようなので別にいいが、その度に妙な視線を感じるのは何かしっくりこない。
「しかし、あの人の集中力は凄まじいね。もうかれこれ十分近くはこうしているんじゃないか?」
「狙いも正確だし、ナディさんは本当にすごいと思う。あたしなんか、これっぽっちでバテちゃうし……」
落胆するエリアに、シンゲンは聖母のような声音で言葉を紡ぐ。
「いやぁ、むしろあそこまで人間離れしてると逆に気持ち悪いものだよ。そういう僕も動画のコメントで『シンゲンって、実は電子機器なんじゃねーの』とか、言われたりもするんだけどね」
一瞬ナディの肩がピクンと跳ね、初めて照準がずれたのだが、そのことには誰も気が付かなかった。
シンゲンは「ふむ」と顎に手をやりながら、霧散する“蠢く腕”を見据えて目を細める。
やがて何かに気が付いたように頷くと、桜色の舌を器用に使って唇の端をペロリと舐めた。
「オッケー、ナディさん。残りは後衛のトッププレイヤーだけだから、多分もう大丈夫だよ」
「しかし、万が一を考えて私が……」
「それでナディさんの集中力が濁っても、後々困るからね。心配ないよ、何かありそうだったら、一応僕もクナイを投げて応戦するから」
投擲アイテム《クナイ》を指で挟み、艶めかしく微笑。ナディは何か言いたげな顔をしていたが、とくに何かを口に出すことなく静かに首肯した。
「分かった。ここから先はどうするんだ?」
「――実を言うと、ここから先は僕も初めての領域なんだよね。今まではナディさんとかエリアさんみたいな遠距離プレイヤーもいなかったから、一番進んだときでも、これ以上は進むことができなかったんだ」
シンゲンの口元から微笑が消え、じっとナディの顔を見つめた。細められた双眸は色っぽく、同性でも思わず見惚れてしまいそうなほど魅力的だ。しかしナディは動じることなく、同じように目を細め(世間では半眼と言う)シンゲンの顔を眺めていた。
暫しの時間お互いに見つめ合っていたが、先にシンゲンが目を逸らした。
「参ったな。とくに良い返答が見当たらない時とか、こうしてごまかしてたんだけど。――ナディさんには効かないか」
「良い返答が見当たらない、というと?」
「ううん、何て言うかな。……ここから先はどうなるか分からないから、僕が先導してもしなくても、攻略効率はあまり変わらないと思うんだ。今までは僕自身の経験とか知識を利用して、万全の態勢を保ってたんだけど、どうもね」
シンゲンは腕を伸ばし、猫のように目を細めた。
「後衛のプレイヤーたちが全員無事に通り抜けるまで僕はここにいたいし、待っててもらうってこともできるんだけど――」
シンゲンの科白が意味することは、ナディやエリアにも理解できる。シンゲンはまだ、この場から動くことは出来ない。だからといって、いつまでもここに停滞していても良いことは無い。
故に誰かが最前線へ入って欲しいのだが、危険も伴うそんな役割を、好んで承ってくれるような人もいない。
さてどうするか、ということだ。
「僕としては《いせかい☆くるせいだーす》のタンカー騎士たちに頼みたいところなんだけど、やっぱり一人は、立ちはだかる脅威を取り除くための“指揮官”みたいなのが欲しいんだよね。――ああ、別に何かしろってわけじゃないんだ。何かあったらメッセージでも何でも送れるし、本当に“指揮”してくれとは言わない」
シンゲンの視線がナディとエリアを交互に貫く。乙女心含み人間の感情に鈍感なナディでも、流石にここまでのアプローチを受ければ大体察する。
「私に行け、と言っているのか」
「ナディさんなら大丈夫かな、って思ってるだけだよ。うちのギルメンのタンカー騎士たちは全員他プレイヤーへの攻撃を肩代わりするスキルとアーツを持っているから、その点は大丈夫だと思うんだ」
シンゲンが振り返った先には、頼もしく頷くタンカー騎士が数人見える。その内の一人は「アインハルトくん、はぁはぁ」とか言って身体をわしわしとしているが、とりあえず無視。
「私が行く意味は?」
「確かナディさん、電脳死体を落下前に捉えてたよね。あんなことをできるような人は、滅多にいない。僕は『斥候』のスキルと《クナイ》で前方の危険を把握してたけど、やっぱりそういう“前方の確認をする人”は必要だと思うんだ。ここから先、どんな魔物が出てくるか、分からないからね」
「地雷を踏むかかり、ってことか」
「言い方がキツいけど――間違ってはないね」
シンゲンの言い分はよく分かる。何かと理由をつけているが、実際は自分の生命が惜しくなったのだろう。階段の上から聞こえてきた会話から得た情報だが、シンゲンはこの階層でちょっとしたトラウマが生じているらしい。
ここから先、同じような目に遭わないとも限らない。最前線から撤退したいという心情は、ナディにも何となく想像できた。
「分かった。私が行こう」
そこまで分かっていて、あえてナディはその提案に賛成した。
もしナディが生身の身体を持っており、現実世界に守るべきものを抱えた一人の人間であったのなら、きっと断っていただろう。しかしナディは、この世界における生死の理から若干外れている。オブジェクト破壊などの特殊攻撃から逃れることができるかどうかは未知数だが、今までの経験上、通常の攻撃はナディにとって脅威にはならないことは確認済みだ。
体力ゲージを他者から確認されるこの状況で攻撃を受けるのは少々手厳しいが、当たらなければどうということはない。要は攻撃を受けなければ良いのだ。
落下する電脳死体を捉える程度であれば、ナディにとっては児戯に等しい。
人間であるシンゲンに可能な事項なのであれば、精密機器であるナディに不可能なはずはない。
「ありがとう、助かるよ」
「ちょっとナディさん!?」
瞑目して首を揺らすシンゲンを、エリアはパッチリとした瞳で睨みつける。
エリアにも大体の事柄は理解できたのだろう。自分の身可愛さに、ナディを危険地帯に送り込むという現実。ナディが不死のアバターを操ることができるということを知らないのであれば、猛反対することに何らおかしいことは無いだろう。
「問題無い、すぐ戻る。……そうだな、エリアはここに残っていてくれ。シグマとオーディンと一緒に来ればいい。最終的な目的地は全員一緒なんだ。ここで離れても、またいつか、会えるんだから――」
ナディの科白が終わるより先に、エリアの手によって黙らせられた。
小麦色の腕がしなり、ナディの頬をぶっ叩いた。パッシーン、という聞くだけで痛そうな音が響き、周りにいたプレイヤーの視線が集結する。それを間近で目撃したシンゲンなど驚きのあまり目を大きく見開き、パクパクと金魚のように口腔を開けたり閉めたりしていた。
「……ふざけないでよ」
「…………」
「いくら! ナディさんが人の心を読み解くのが苦手だったとしても! 今の台詞は、ここまで一緒に頑張ってきたあたしを裏切ることになることぐらいわかるでしょ!」
キッとした表情で、エリアはナディの顔を睨みつける。
ナディは何が起こったのか分からず、叩かれた方の頬を擦っていた。無論ダメージが発生するはずも無いので、ナディの体力ゲージに変化が無いことに誰も疑問は感じなかった。
「エリア、」
「あたしも一緒に行く。面倒くさい女の我儘だってのは自分でも分かってる」
「エリア」
「でもそれなら、ナディさんのそれも我儘じゃん。自分は危険な場所に行くけど、あたしは安全なところで待ってろって。そんな、そんな一昔前の映画とかじゃ、無いんだから……」
返す言葉も出ない。
助けを求めようとシンゲンの顔を見やったが、彼女はやれやれといった様子で首を横に振っていた。
傍にいたリリアンを見れば、顔には「今のはナディさんが悪い」と書かれている。隣のアインハルトに至っては、目も合わせてくれなかった。
「……分かったよ、エリア」
「本当に、何であたしが引っ叩いたのか、分かった?」
「すまない、そこまではちょっと……」
不機嫌そうに見据えるエリアと、いつもの無表情で視線を彷徨わせるナディ。普段は何を言われても飄々としているナディだが、今回は若干及び腰だ。
ナディ本体は精密機器である。物理的な意味で誰かに引っ叩かれた経験などあるはずがない。
ナディは釈然としないものを感じながらも、エリアを連れて最前線へと赴いた。
誤作動を起こしたり処理速度が遅れてフリーズしたことにより、使用者から叩かれている友人のことを、昔は密かに憐れに思ったものだったが。
「……意外と、悪く無いものだな」
「――!? ナディさん、今何て言ったの!?」
瞠目したエリアに労わるような目を向けられ、ナディは無言のまま目を逸らす。
視界からエリアが消えたナディにはもう関係ないことだが、それを目の当たりにしたエリアにとっては別だ。
今までそんな素振りを見せることは無かったのに、突如明かされた歪んだ性癖。聞き違いであれば救いはあるのだが、同じ科白を聴いたであろう周囲の反応を見たところ、完全なるエリアの聞き間違いでは無さそうである。
「ちょっ……、ごめん! 本当咄嗟というか突発的なもので、MMOなら平手打ちも痛くないだろうし――というか、女心分かってよーって感じでやっただけだから! つい出来心でってやつだから!」
突発的なつい出来心であれば何でも許されるなんてことは無いことくらい、エリアにも分かってはいるが。
「ナディさんお願い、戻ってきて――――!!!」
真顔のままトリップするナディに縋りつき、エリアは叫んだ。
目の前にいる鈍感男子が、自分に叩かれて喜んでいるという現実がどうしても認められなくて。
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申し訳そうな顔で若干俯き、横目でナディの姿を追うエリアの三歩前方。その辺りでナディは弓を構え、現れたMOBを片っ端から貫いていた。
視界に映り込むと同時に、漆黒龍を模した真っ黒な矢が虚空を駆ける。
ナディの眼前でMOBがバタバタと倒れるが、流石上層MOB、《ギアドラの弓・改》の放つ一撃で瞬殺されるようなことはなく、倒れた直後間もなく立ち上がり、こちらへと歩み寄ってくる。
「ナディさん、ちょっと前通ります」
「ん、」
コスモソードを掲げたアインハルトが駆け出し、ナディの目の前に身体を滑り込ませる。高められた敏捷ステータスによって賄われる俊足を利用し、コスモソードの切っ先が前方を瞬く間に八つ裂きにした。
矢を胸に受け動きが鈍足になっていたMOBはその斬撃を躱すこともできず、剣舞の前に光の粒子となって消滅していく。
生き残りを掃討し終えると、アインハルトは身を縮めてナディの後方へ。視界からアインハルトが消えたナディは、休みなく現れる脅威に制裁を加えんと矢を構える。
大体このような手順で、二十六階層以降のMOBは殲滅させられた。
大方シンゲンの想像した通りの結果になったと言える。正確さと精密さをもつナディによって、唐突な奇襲や不意打ちを抹消する。そしてその不足した攻撃力を補う近接トッププレイヤー。今まではシンゲン含めた数人の《いせかい☆くるせいだーす》メンバーで行っていたそれを、わずか二人で難なくこなしていた。
「もう、次には三十階層に辿り着きますよ。ボス部屋への侵入は許可されていませんから、階段のところで待っていましょうか」
「シンゲンもここまで来たことはないと言っていたからな。下手に飛び込んで、わざわざこちらに不利な状況を作ることはないだろう」
数十分――数時間だろうか。長期間に渡るバーチャル生活のために時間感覚が麻痺しているが、大体その程度。そんな短い時間の内に、二人の間にはかつて存在した遠慮や距離感が、ほぼ完全に取り払われていた。
壁に背をもたれかけさせ、顔を合わせて爽やかな笑顔を交わす。黒髪ショタな美少年アバターに、無精髭を生やした薄顔の男性。その光景を遠目に見る女性プレイヤーたちは、迷わずショタアバターの方を指さし、甘い声を上げて囁き合う。『どうしてショタアバターには水分補給時の無駄エフェクトが無いんだろう』などと、指を絡めながら意味の無い文句を呟いている。
完全にアイドル化していた。
残念なことに、薄顔髭面アバターの方は容姿的な意味での人気はあまり無かった。
しかし一部のトッププレイヤー集団は弓を放つまでの一連の動作を研究し、どうやって行っているのかの考察や研究をしていた。見た目やプレイスタイルの派手さはないが、静謐な凄味がどうやら彼の中には存在するらしい。
そして、その静謐な魅力を持った弓兵を外側から見つめている唯一のプレイヤーが、褐色錬金術師のエリアである。
最前線に来たことで背中に向けられる視線を多く感じることが、ここ数時間のささやかな悩みといえば悩み。わざとらしく姿勢をただして、胸元を上から覗きこまれたりもする。露出した腕や肩にさりげなく触れようとする輩に関しては、エリアが何かをするまでもなくナディが殺意の籠った弓矢を向けて迎撃する。
冗談ならともかく、目がマジなのが恐ろしい。ちょこまかと動き回るMOBを正確に穿つだけの精密さをもつプレイヤーが自分を狙ってくるのだ。一度でもエリアにいかがわしい意味で触れようとしたプレイヤーは、それ以来彼女の傍らへと足を運ぶことは無かった。
そんなこともあってか、ナディは陰で他プレイヤーから『番犬』と呼ばれていた。
アイドルと番犬とは、また酷い差異だなとも思いつつ、エリアはその『番犬』を独占できることに、一種の優越を感じていた。
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ようやくここまで来たか。
二十九階層の階段を上り終えたシンゲンは、そんなことを思いながら右手拳を握りしめた。
現在シンゲンは身体にピッタリフィットした忍者装束に、色白な日本的美顔をちょこんと乗せていた。最初こそシンゲンのことを煙たがっていた人々も、あまりの美貌に(所詮アバターだが)に魅了された。今ではシンゲンの周りには、常時数人の取り巻きが存在する。
思えば長かったな、とシンゲンは思う。ILOがデスゲームと化して、高層迷宮を踏破せんと進軍したのは確かにここ最近の話だ。それでも一か月以上の期間一度たりともログアウトを行っていないのだから、結構な時間を費やしているとは思う。だがそれも、彼女にとっては短い期間だ。シンゲンにとって、このフィールドは何度も挑み、幾度となく打ちのめされたいわば越えられなかった壁だ。
ILO初イベントにて辛くも二位という壇上に上り詰めた彼女は、どうにかして世界一位に勝ちたかった。しかし残念なことに、ILOのソロイベントはその一度しかなく、それ以来彼との対決を行うことはできなかった。
ならば、他のことで彼を越えてやろう。
現在解放されているフィールドでは、最奥部に位置する近未来都市アーズ。そこにそびえ立つ構造迷宮の最上層に眠る未知なる魔物。未だかつて誰も対峙したことがないという、まさに幻の魔物である。
そいつを誰よりも先に討伐すれば、ILOの頂点に立つことができるのではないか。
所詮MMOのラスボスなど、攻撃力が反則級に高く、攻撃範囲や当たり判定が凄まじいだけの、いわば初見殺し系統の魔物だろう。周りをタンカーで固めて、固定ダメージ武器により正確な怯み値を計算する。デスペナルティの軽いILOだからこその戦術。何度も死に、何かを掴みとり、それを次なる戦闘で生かす。
何度も繰り返せば、打倒することは容易だ。行動パターンの露呈した魔物など、何も怖くない。
シンゲンは最前線に立つ仲間に、そこで待つようにと命じる。せっかくここまで来たのに、自分以外の誰かに先に入られては元も子もない。
三十階層が現在の最上層――すなわち、シンゲンが目指した栄光の眠る場所だ。
そこに自分以外の者を、先に入れることなどできない。
「ギルマスのみんな、聞こえているかい?」
MOBの出現が止まり、二十九階層からは音が消えた。ただ一つ空間を走るのは、シンゲンが放った麗しい声音のみ。
コツコツという足音を奏でながら、シンゲンは二十九階層の廊下をゆったりと歩む。
「いよいよ次の階層――三十階層だ。僕もここまで来たことは無いのだけど、推測するに、そこが最後の部屋――高層迷宮の最上層だと思う」
息を呑む――音が聞こえるような、緊迫した空気。当然だろう。
思うことは、人それぞれ違うかもしれない。
やっと帰れるだとか、ようやく終わるとか、助かった、とか。シンゲンにとっては三十階層こそがスタート地点だが、彼らにとって最上層とは、悪夢を終わらせるためのゴール地点だ。
「最上層に眠る魔物の情報は全く無い。どのような容姿なのか、弱点属性は何か、耐性は何か、飛ぶか、転移するか、全て未知数だ」
大方龍系統かな、とは考えているが口には出せない。
何事も用心することが大事だ。龍系統だと思って入ったら、レム溶岩地帯にいたような魔物でした――なんてことになれば、色々と弊害が出る。信頼も失うだろうし、何より準備が無駄になってしまう。考えを攪乱したり翻弄するようなことは言わないでおこう。
「――だから、ここから先は僕に意見を求めないでくれ。ギルド・パーティ毎に、マスターの意見に沿って行動する。それで統一してほしい。僕は僕で、自分のギルドがあるから、これだけ大勢のプレイヤー全員に指示を出せるだけの余裕も無いんだ。――――せっかくここまで来れたのに、最後の最後で犬死になんぞ、したくないだろう?」
シンゲンが放った最後の言葉に、空気が変わった。
戦意の高まる前兆――、これはよい傾向だ。《いせかい☆くるせいだーす》だけで倒すのは、また次の機会で良い。だが、無いとは思うが――ここでもし人員が欠けるようなことになれば、その計画は難解なものへと跳ねあがる。自分のギルドを最優先に――いや、自分のギルドだけを守る。他は知らない。ダメージさえ稼げれば、それでいいのだ。
ここさえクリアできてしまえば、もう後に残るのはデスペナルティの軽いいつものILOの世界。一位を越えるのは、それからでもいい。
「さて、ここからは僕も、全力で頑張らないとな」
艶やかに濡れた唇をひと舐めしながら、シンゲンは遠い目をして呟いた。




