断章 『IF・BADEND 消えた温もり』
夕暮れの摩天楼。宵闇に飲み込まれた高層マンションの一角に、小さな影が横切った。円型の蛍光灯に照らされ映し出されたその影は、一人の男性によるものだ。影を作り出したその体躯には、とても上流階級の人間が身に着けているとは思えぬ、薄汚れたシャツを纏っている。
この男を雑踏の中で見かけたとして、その姿は誰の印象にも残らないだろう。
乱雑に梳かされた黒髪に、整ってはいるが手入れのされていない顔。無精髭とまではいかないが、顎には点々と黒いドットが羅列されている。
休日の大人とすれば、それも致し方ない格好だ。身繕う理由もない、結婚を諦めた独身男性。この世界に数多と存在するそれらと変わりない人間であれば、誰もこのような姿になった彼を咎めることはない。
「……ずっと、怪しいと思ってたさ」
脂ぎった足裏をフローリングに擦りつけ、彼は一つの電子機器の前まで歩み寄った。銀色に煌めく精密機器。青白く光った電源ボタンが示す通り、この機器は現在も稼働中だ。
彼は手を伸ばし、銀色の表面をポンポンと撫でた。伸びきった爪が引っかかり、乾いた音が奏でられる。
男の目に、精気は無い。光も灯さず、虚ろに瞳を曇らせている。暫しの間、目線だけで精密機器の表面を見下ろしていたが、不意に彼は右腕を振り上げた。棚に並べられたアンティークな時計をその手で掴み取り、重力に抗うことなく叩きつけようとしたところで、
『ご主人様、何をなさっているのですか!』
鈴を転がしたような淡い声が背後から木霊し、叩きつけようとした男――天瀬三四郎はその手を止め、声を発せられた方にゆっくりと振り返った。
「ルリィか」
『今、ナディに何をなさろうとしたのですか』
「ナディ……。ナディか、全ての元凶である、NPCナディ・パープル・キャッツにか?」
時計を棚に戻し、三四郎はルリィを睨みつける。三四郎の精神はボロボロだった。自身が管理するVRMMOの、プログラムから何までを乗っ取られ、さらに数万近い顧客の意識までをも奪われる。SF世界のような――。創作の世界にしか存在しなかったコンピュータ犯罪。マスコミには糾弾され、ネット上には非難の言葉が羅列される。三四郎が管理するアマセ・コーポレーションはもちろんのこと、彼の父親である天瀬大五郎が経営する数多の企業も被害を受けた。倒産には至らなかったが、全盛期の財政状況を取り戻し、立て直すのはキツい。
内部の情報が露呈しない事実も、アマセ・コーポレーションの信頼を削ることに拍車をかけた。情報の隠匿を疑われ、経営者としての位置も揺らぐ。天瀬三四郎という人間が凄まじい勢いで積み重ねた輝かしい栄光や功績は、積み木のお城を蹴り飛ばしたかのように瞬く間に霧散した。
あの事件が公になった後に彼が陥った状況は、筆舌に尽くしがたい。
『……ナディが、元凶などと』
ナディ・パープル・キャッツがILOの世界に潜っている間――この数週間、三四郎に何があったのかを、目の前にいるルリィは全て知っている。共に戦い、抗い、真摯な心で消費者や報道陣と対峙した。
「あ――ぁ? おっしゃらないでください、とでも言うつもりか? 確かによぉ、ILOに不正アクセスをかまして、“意識”という名の人質を奪ったのは、ナディじゃあねーよな」
汚らしい手つきで無精髭を撫でつけ、酒に塗れ黄ばんだ歯をニタリと歪める。対面すれば思わず目を背けたくなる悲惨な姿だが、アンドロイドであるルリィはその姿を前にしても決して動揺や困惑することはない。
『ナディはわたしに――ILOの世界を救うと申しました』
ガン! という木材と肉がぶつかる音が響き、テーブルの端が振り抜かれた拳に抉られる。尖ったテーブルに激突した三四郎の拳には橙色の血液が滲み、露出した薄皮にトゲが刺さっていた。
「救ったか救わなかったかは関係ねえんだよ! 犯人はもうとっつかまっただろ! 不正アクセスが起きたことに変わりは無いんだよ! ナディが――ナディさえいなければ、こんなことにはならなかった!」
三四郎の言葉通り、この事件の首謀者は現在刑務所で取り調べを受けている真っ最中だ。直接手を下した者は、雇われただけの単なるチンピラだった。
彼らと首謀者を繋ぐことは困難――実質不可能だと伝えられた三四郎は、その頃から何事にも自棄的に考えるようになった。毎日のように顔を出していたアマセ・コーポレーションに向かうことも無くなり、電話線も引っこ抜き、外界との連絡手段を遮断した。
ネットを繋ぐことに恐怖心が芽生え、カーテンを閉め切った真っ暗な部屋で無為な一日を過ごす日々。時々気になってテレビを点けてみては、自分の顔写真を見て『逃避した極悪人』だとか『電脳誘拐犯』と呼ぶコメンテーターに悪態をつく。
ちなみに今回の事件。前述したとおり、ここ数週間の間に首謀者は捕獲された。
その頃にはもう、三四郎の事件を無意味に蹴り転がす不愉快な事実も下火になっていた。お昼のワイドショーでもILOの名前は出ず、幼い少女が複数人行方不明になるという事件を何度も何度も流していた。
矛先が変わったことを荒んだ心で快く思い、現在祭り上げられている事件の犯人を嘲笑いながら、カップ麺を啜っていた時の事だ。突如速報が入り、画面に白いテロップが入る。普段なら見逃してしまうような些細なものだったが、『ILO』や『天瀬三四郎』という名前を視認した彼は、その速報テロップを一字一句読み逃すことの無いようじっくりと眺めた。
犯人が分かった時の自分の表情は、あまりに間抜けなものだったと三四郎は思う。
首謀者の名前は雨崎一彦。パトカーに乗せられる瞬間の映像を後に見たが、三四郎の記憶にその顔や名前は存在しなかった。どうしても気になった彼は数日ぶりにネット回線を繋ぎ、雨崎一彦の名前を検索した。
ワールドワイドなウェブ上を駆け巡り、彼に関する情報がブラウザに呼び出される。羅列された文章を読み流し、同名の人間が経営する会社をデータの海から見つけ出した。ホームページは第三者の手によって削除されていたが、URLから無数の魚拓を検索することに成功したのだ。
そこで見た情報の数々は、既に壊れかけていた三四郎の精神に最後の一撃を打ち込む原因となった。
――雨崎一彦は、三四郎と全く関係の無い人物である。
雨崎一彦は、二流企業の経営者だった。先代――もしくはその前の代から電子系の開発を主に行っており、数年前のVR開発による科学向上に乗り遅れた人間だ。
世の中はVR機器やアンドロイドの発明と普及という科学進歩を遂げ、日本の景気は爆発的に上昇した。しかしそれは、その発展に乗ることのできた一部の開発者と消費者のみに関してのことである。大企業には及ばぬ類似した機器を独自の方法で製作してきた中流企業――見事な発展を遂げた日本科学の裏で、彼らは大打撃を受けていた。
要は、逆恨みである。
親の力で大成したと世間からは評され、何の苦も無く現代科学の向上化に乗ることができた若手経営者。天才、鬼才、多才でお馴染みの大御所天瀬大五郎の子会社のため、微々たる損失は全く痛手にならない。彼を良く思わぬ人間など、掃いて捨てるほどこの世の中に存在するのだ。
事実を知った時、とうとう三四郎の精神は粉々に打ち砕かれた。世間から評され、自分をよく思わぬ人間がいることは彼自身気が付いていたが、まさかこのようになろうとは。
雑誌のインタビュー記事を見ていて偶然目についたから、先代の頃から雲の上の存在であった天瀬大五郎の鼻をあかせたかったから。『雨崎一彦』と記された匿名の掲示板には、様々な憶測が飛び交っていた。
中にはこうも書いてあった。
“不正アクセスした経路だけど、この前雑誌で紹介されてた人工知能から侵入したんじゃねーの?”
『ナディのせいなどと――それは顔も知らぬ第三者が、不特定多数の人々が利用する電子掲示板が書き込んだ戯言です!』
「確かにな! でも実際、ILOに不正アクセスが行われる直前、ナディのデータ送信量が膨大な量になっていただろ!? 同じプレイヤー情報を何度も何度も読み込んだり、顧客情報の一部が欠如してたり、思い返せばきりがない! 雨崎一彦は――ナディ・パープル・キャッツという媒体をハッキングして、そこから不正侵入をかましたんだよ!」
三四郎の右手が振り上げられた。あ――――とルリィは口を開きかけたが、自棄になった三四郎にその声が届くことはない。
ガシャンと音がして、三四郎の右手拳が振り下ろされた。墜落地点は他でもない、銀色に煌めく精密機器の真上だ。ミシと嫌な音がして、点滅していた青い光がプッツリと消える。
精密機器は、衝撃に弱い。
「……これで終わりだよ、害悪め」
三四郎の手によって、ナディ・パープル・キャッツの本体は破壊された。
ルリィの制止が届くことは無かった。
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赤紫色の噴煙を噴き出した刹那、究極に甘い百合の耐久値が完全にゼロとなり、光の粒子となって消滅した。
死に間際にこのような派手な散り方をするなど、嫌悪しか感じさせない。アイテム素材による治癒が不可能である状態異常を撒き散らし、絶命する。デスペナルティの軽いILOだからこそなのだろうが、生命の代わりが存在しないデスゲームでこれをされるとなると。
「エリア……、エリア!」
「ん、ダメだよナディさん、あたしに近づいたら、ナディさんまで、感染症に、」
エリアが感染症を患ったことに気が付いた瞬間、ナディは崩れ落ちるエリアのもとへ全速力で駆け寄っていた。正方形のタイルが敷き詰められた冷たい床に倒れ込んだエリアを抱きかかえ、座り込んだナディは今、胸の中にエリアを包み込んでいる。
エリアの体躯がドクンと揺れる度、体力バーに残された生命の刻が減少する。現在二人の傍には誰もいない。総員一定間隔をあけて、壁際に寄りかかっている。
エリアは自身の体力ゲージを確認し、虚ろな瞳を力なく細めた。
「……もう、ダメみたい。あたしは、ここで終わり」
肉付きの良い腕を伸ばし、ナディの頬を優しく撫でる。ナディの表情はいつも通り変化は無い。でもエリアには分かる。その表情の裏で、彼がきっとエリアの死を心から悲しんでいるだろうことを。
「ね、ナディさん。あたしの最期のお願い、聞いてくれるかな?」
「……最期、などと、言うな」
「きーて?」
「…………」
ナディは首肯し、感情を失った瞳でエリアの顔を射ぬく。少しだけ身体を抱きしめる力が弱くなったな、なんてことを感じながら、エリアは全身を襲う気怠さと必死に戦いながら、
「あたしが死ぬまで、ずっと一緒にいて欲しい」
「――――」
「ナディさんが真っ先にあたしを心配してくれたこと、すごく嬉しかった。でも、多分もう、ナディさんはあたしからの感染からは逃れられない。だから、お願い。あたしが消えちゃうまでは、ずっと一緒にいて欲しいな」
「――――」
「もし嫌だったら――目、瞑っておくから、みんなのところまで戻っていいよ」
ナディからの返答は無い。元々彼は口数の少ない人だった。エリアの顔を見つめる瞳には力が無い。しかし一時も目を逸らさず、エリアを射ぬいてくれている。
そういえば前に、他者が喜ぶ言葉を選んで発するのは苦手だ、などと言っていたなとエリアは思い出す。きっと今も、エリアに何と言えばいいのか分からないのだろう。
現にナディは、エリアから離れようとはしない。もし死ぬのが嫌なのであれば、すぐにでもここから逃げているはずだろうから。
「ね、ナディさん」
「――――」
「心からナディさんのことを、愛してたよ」
ドクンと身体が跳ね、アバターが赤紫色に変色する。時間だ。これ以上、この世に意識を繋いでおくことはできない。
エリアの腕がポトリと落ちて、アバターが光に包まれる。
粒子となって消失するまで、エリアはずっとナディの顔を見つめていた。
ナディも目を逸らすことは無かった。
「――エリア、さん」
光の粒となって虚空に消えた青色錬金術師を思い出し、アインハルトは震えた声音を口から漏らす。隣に佇むリリアンは、両手で口元を包み込みながら嗚咽を漏らしている。オーディンも表情こそ変化が無いものの、黙ったまま顔を逸らし、悲しみのためか肩を震わせていた。
目の前で人が死ぬのは、ここ高層迷宮内で何度も見てきた。中には惨たらしい死に様を晒した者もいるし、そう考えると綺麗な死に方だったと思えなくも無い。
思いを寄せた相手の胸の中で死ぬというのは、そういった感覚なのだろう。そういった感情の方が強く出る。それよりか、大切な相手を胸の中で無くしたナディは、どれだけの苦痛を感じているのだろうか。
重くなった空気の中、アインハルトは歩を進めた。まだ座り込んだままである、ナディのもとへと歩み寄る。慰めの言葉は思いつかないが、いつまでもこうしているわけにもいかないだろう。大切な人を失ったのは、何もナディだけでは無いのだ。高層迷宮内でも人は何人も死んだが、誰もそこに残ろうとはしなかった。ナディだけを特別扱いするわけにもいかない。
自分たちは、前に進まなければならないのだ。
「ナディさん、ずっとそこにいても仕方がありません。先へ――」
言いながらナディの肩へ手を伸ばした。しかし、アインハルトの手が肩に触れるより先に、ナディのアバターは光の粒子となって霧散した。
エリアの感染症が伝染して、とうとう今体力ゲージが失われたのだろうか。
そこに誰かがいたことさえ忘れてしまいそうな、何も無い場所。
眦に浮かんだ雫を拳で拭い、アインハルトは踵を帰す。
精神的にも肉体的にも、ここで立ち止まってはならない。生命を落とした皆のためにも、最上層に辿り着かなければ。
決意を込めた視線を上に向け、アインハルトは前に進む。
失った生命の数だけ、戦わなければならない理由は増えていくものなのだから。
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ナディの機能は、エリアの問いかけを最後に破壊されていた。
視線を動かすことも、会話ログを読み取ることも、エリアが紡ぐ最後の言葉を聞き取ることも出来なかった。
音も光も色も何も無い真っ暗な世界で、ナディは黙ったまま座り込んでいたのだ。
やがてエリアの存在が霧散し、ナディの胸に感じていた質量が消失する。
停止しかけながらもただそれだけは感覚としてナディ本体の記憶媒体に届けられ――それを識別するより先に、ナディが持つ人工知能としての機能は完全に停止された。
三四郎の手によって造られたナディ・パープル・キャッツという存在は、彼自身の手によって抹消されたのだ。
事件終了後、ナディの部品を使用し、ILO製作チームの手によって二体目の人工知能NPCが誕生したが、“彼”の記憶媒体が失った数々の思い出を取り戻すことは、無かった。




