第三十三話 『お前を守る』
扉の向こうは、文字通り地獄だった。
扉を開けると同時に、室内から無数のMOBが土砂のように流れ出る。二足歩行する蟹のような魔物や、鎖鎌を持ったカラクリ人形のような魔物まで、様々だ。
カラクリ人形とは言っても、オートマタのようなものばかりではない。鎧武者のような姿をした機械人形や、ローブに身を包んだ電子的な人形など――。十階層の魔物と比較すると、リアルとは程遠いデザインの魔物が多い。
戦闘の近接プレイヤーたちが、絶え間なく出現するMOBを蹴散らした。斬撃が舞い、剣閃が虚空を破り捨てる。表情を持たない機械人形たちはその連撃に体躯をひしゃげさせ、空中を舞いながら光の粒子となって消失する。消滅と同時にドロップするアイテムは、さほどレアリティの高いものではない。
溢れ出すMOBによって、闖入者を歓迎する。しかしその歓迎も、数多のトッププレイヤー集団からすれば単なる肉壁に他ならない。入り口を塞いでいたMOBは残らず絶命され、ようやく内部から光を確認することができた。
「エレベーターみたいだな」
誰かが発したその言葉を耳にして、ナディは確かになと思う。基本的に自宅からは移動しないナディだが、何度かサンシローに連れられてアマセ・コーポレーションのビルを通ったことがある。その時に使用した、隣接したビルを行き来するための横長なエレベーターに類似している。もしかすると、モデルはそこなのかもしれない。
閉鎖的な空間。最奥部に張られた扉は堅く閉ざされ、電子的な光が赤く揺らめいている。天井には幾何かの蛍光灯。細長い左右の壁には手すりまでが設置されている。
「一応MOBは掃討したが――、きっと足を踏み入れると、また増殖するんだろうな」
大剣を手にした銀髪の獣人剣士が顎に手を宛がい、怜悧な視線を室内へと向ける。
現在外からの情景は、誰もいない――無人の部屋だ。ここが現実世界であれば、何も無い場所からこれ以上魔物が出ることなどない、と断言できるだろう。しかしここは仮想空間だ。何も存在しない場所に、魔物を生み出すことぐらい造作も無いことだ。
「あれが、ボタンか」
最奥部に張られた扉。その傍の床に、真紅のボタンが設置されている。漫画やアニメなどだと、押した瞬間ボカンといきそうな見た目だ。
誰かが踏んでれば良い。ということは、一人は戦わず、誰かに守られながらその場に佇んでいればよいということになる。
しかしそれは、口で言うほど簡単なことではない。動けないということは、咄嗟に身を守ることができないということだ。誰かが守らない限り――、
「ボタンを踏むのは、あたしがやる」
「君が――か? 失礼だが、職業は」
「錬金術師よ。こういっちゃなんだけど、あまり戦闘には向いてない職業だから。戦いに参加できなくても、迷惑かからないかなーって」
持ち前の明るさを利用して、「えっへへ……」と照れ笑い。健康的な褐色肌も相まって、その表情に負の感情は見当たらない。
だがナディは気が付いてしまった。その明るい表情の裏に隠された、エリアの本心。
『守って、くれるよね。ナディさん』
言葉として発せられたわけでもない、メッセージとして送られたわけでもない。しかしナディには、エリアがそう言葉を紡いだような錯覚を得た。
虚偽の微笑の中に刹那的に映り込んだ、寂しげな視線を心の中に刻む。
「――ああ」
力強く首肯し、エリアの目から不安が取り除かれる。
エリアは部屋の入り口に赴いて深く深呼吸。背後にナディが歩み寄り、健康的に露出した肩をキュッと握った。
「大丈夫。何があっても、私はエリアを守る」
「りょーかいだよ、ナディさん。……絶対だよ。信じてるから」
エリアの科白が終わるか否か、エリアは室内へと駆け出した。次いでナディがその背中を追いかけ、閉じられた扉へ激突するかの勢いで疾走。刹那視界がグニャリと歪み、瞬く間に無数の魔物が部屋の中に出現する。
何も無い空間にビジョンが出現するのは、墓場で幽鬼を見たような感覚に近いだろうか。出るだろう出るだろうと心の隅では分かっているが、いざ出現すると背筋がぞわっとする。
細長い床を疾走し、エリアは部屋の隅に設置された真紅のボタンを踏みつける。
ガコという鈍い音が鳴り、エリアはその上で気を付けの姿勢で直立。
ナディはそれを確認して、すぐさま身を翻して弓矢をひく。手は離さない。牽制行動だ。ナディは天井に視線を向け、蛍光灯の脇に目線を彷徨わせる。この際地上の魔物は無視だ。近接戦闘職のプレイヤーたちが複数人いるため、その辺りは問題ない。
ILOでは魔物が攻撃対象を決める時、生体反応やヘイトで計算することが多い。そのため例外はあるが、大抵狙われるのは人数が多いパーティか攻撃を加えたプレイヤーだ。
だからナディは最低限の攻撃しか行わない。現在ナディが行う最優先事項とは、一匹でも多くMOBを倒すなどという殺気立ったものではない。無防備にボタンを踏み続ける、錬金術師エリアを守ることだ。
「ぐ、ぐぐぐ……、ぐ」
「そこっ――!」
ナディは矢の照準を合わせ、支えていた手を片方放す。仮想現実らしく重力による落下を無視して突き進む矢は、そのまま蛍光灯の傍に突き刺さり――。
「――ぎゃぁぁう!」
懐かしいMOB、電脳死体が無防備を晒して落下してきた。
地面と衝突し、光の粒子と化す場面を見ることなく、ナディはもう一度矢を構える。精密に照準を合わせ、手を離す。
ざしゅん。ざしゅん。ざしゅん。
気の抜けた音などではない、その一撃が高威力であることを知らしめる鋭い音。一撃ち一撃ちが確実に電脳死体の未来を奪い、力の抜けた体躯を地上へと叩きつける死への鎮魂歌。もともと死体なのだから、こういう表現もおかしな話だと思うが。
「エリア、大丈夫か?」
「大丈夫。ナディさんは――うん、体力ゲージも全開のままだね」
矢を放ち、天井を穿ちながら、ナディは今のエリアの科白に一種の違和感を抱く。そういえば、ILOではギルドメンバーやパーティメンバーの体力バーを確認することができるのだったか。もし見ることができないと、回復職プレイヤーが異常なほどのハンディを喰らう。被回復者も同じくだ。
だとすると、エリアはナディの状態異常を完全に把握しているということとなる。幸いVRMMOという特性上、常時視界にウィンドウが開かれているわけではないため、微動だにしない体力ゲージを見ても、知らぬ間に自然回復したか、それ関連のアビリティが発動しているか、と勝手に思い込むだろう。
しかし今のエリアは、ボタンを踏むことと自身やナディが死なぬように回復剤を手渡すか、回復弾を撃ちこむことを最優先事項としている。ならばエリアはきっと、常時メンバーの状態ウィンドウを開いているに違いない。
ともすれば、もしナディが不意を討たれてMOBの攻撃を受けてしまったら。状態異常を発生されるはずの何かを受けてしまったら。間違いなく、エリアはナディのステータスに疑念を抱くだろう。
ナディは本来NPCであるため、MOBなどから危害を加えられることはまずない。ヘイトなどが設定されているかまでは分からないが、真っ先にナディを狙う魔物が少ないところを見るに、もしかすると設定されていないのかもしれない。
ともかく、ナディはこの状況下でMOBからダメージを受けてはならない。別にナディは、自身が人工知能NPCのナディ・パープル・キャッツであることを隠そうとは思っていなかった。
しかし――、
チラと横目に、エリアを視界に入れる。今まで接してきて感じたことだが、きっと彼女はナディのことを人間だと思っている。否、普通に考えて、人間以外がプレイしているなど考えないだろう。
NPCとして存在していた当時から、ナディは数多のプレイヤーたちと顔を合わせてきた。だが一度として、その相手が人間以外であることを考慮したことはない。
エリアはナディに、様々な意味で依存している。ナディとしても同じくだ。しかしもし、その依存関係が崩れたら。均衡が崩壊したら――どうなるのだろうか。
エリアはナディを、顔の見えない一人の男性プレイヤーとして考え、心の拠り所としているのだ。ナディが人間以外の存在であることを悟らせる行為は、仮想現実という酷く不安定な世界で積み上げた、その信頼を真っ向から否定するようなものだ。
人間は、心に嘘や偽りを抱えて生活している。真実だけを纏ってこの世を生きる人間など存在しない。しかしその虚偽も、使い方を間違えてはいけない。偽りにも正義と悪がある。
今からナディが纏うのは、正義の偽りだ。
相手との信頼関係を崩さぬための、補修作業のようなもの。現実世界でそれを行うことは信頼に亀裂を入れる原因となるが、ここは仮想現実。
もともと、真実を語るような場所ではないのだ。
――そのためにも。
ナディの視界に薄汚れた電脳死体が映り込み、流れるような動作でそれを撃ち落とす。
エリアに悟らせない。ナディの本体が血の通っていない精密機器であるという事実を、悟らせてはならないのだ。もしエリアがナディの正体に違和感を得て、問い詰められた場合、ナディは嘘を貫き通す自信が無い。問い詰められる――というより、疑いをかけられたらその時点で終了だ。
――ならば、疑惑をかけられなければよいまでのこと。
エリアから向けられる依存心は、ナディにとっても心地よい。
ナディも、エリアの信頼を失うような真似はしたくないのだ。
現実の容姿や仕事関連の内容を偽るなんてこと、ワールドワイドなウェブ上では、決して珍しい話では無い。
「――ディさん、ナディさん!」
「ん、ああ」
降り注ぐ電脳死体を撃ち殺す機械となっていたナディは、防具の裾を引っ張られる感覚に意識を呼び戻された。
「どーしたの、ボーっとして」
「心配かけてすまない。ちょっと考え事をしていた」
機械的に矢を放ちながら、エリアに問いに答えを出す。こういうのを巷では『ながら返事』などと言うらしいが、さておき。
「ん、何かあたしが踏んでるボタン、さっきから沈んだままになってるみたいなんだけど」
「ボタンが?」
「さっきまで体重かけて体育座りしてたんだけど、何か押し上げられるような、変な感覚があったの。でも今は、跳ね返されるような感覚も無いし、むしろ、もうあたしがここから退いても大丈夫っぽいっていうか」
エリアの科白に何かしらの同調を答えようとしたところで、不意に視界の端に半透明のウィンドウが出現した。送り主の名前はリリアン、メッセージ――というかアイテム『手紙』である。
ギルド内のプレイヤー全員に送っているらしい。背後でガサガサという音が奏でられ、エリアが紙片を手に取って口を開いた。
「ボス部屋に入った人たちからのメッセみたい。ナディさんとこにもきてるよね?」
首肯して、ナディはウィンドウをタッチして手紙をアイテム化する。――読もうとしたが、またしても電脳死体が姿を見せたため、ナディはそれを胸元に仕舞って矢を構えた。
「悪い。今私は手が離せないから、読んでくれないか?」
「ん、いいよ」
嬉々とした表情でエリアは口元を緩め、紙面に視線を走らせる。――と、瞳を動かすに連れて頬がひくつきはじめ、最終的には。
「あのさ、ナディさん。これ、書かれてる内容一字一句正確に伝えなきゃダメかな?」
「ああ――。できればそう願いたいが」
エリアの表情が悲壮と一種の絶望に歪んだ。
瞠目し、呆れを絵にかいたような表情。エリアは眉間に手をやって脱力しきった溜息をつくと、覚悟を決めた様子で口を開いた。
「『くっくっ……。僕たちが入った部屋は、やはりボス魔物が出現した部屋だったようだ。結果かい? もちろん勝利をつかみ取ったよ。部屋のボタンも押してみた。どうやら君たちも問題なくクリアできたようじゃないか、結構結構。ふむ、あまり時間をかけるのもよくないね、手短に話そう。部屋の奥に設置された扉の光が、赤から青色に変色しているだろう? 簡略に表現するなら、歩行者信号機みたいな色彩かな。それで、清涼感ある青色になっているなら、おめでとう諸君、誰かが扉に触れることで、君たちの進撃を阻んでいたその扉は、自動ドアのようにスーッと開くだろう。ささ、遠慮なく試してくれたまえ。それが今回頑張った君たちへの、形ある栄光なのだからね。――シンゲン』……だってさ」
読み終わると同時に、エリアは部屋の最奥部に設置されていた扉へと触れる。シンゲンのメッセージ通り横開きのドアは楽々開き、次のステージへとプレイヤーたちを招き入れる。
扉が開くと同時に、MOBの出現はピタリと止んだ。一種の協力プレイのようなものか。最低限三人以上いなければ挑むことすらままならず、生半可な人数では突き抜けることができない。軽量なデスペナルティを駆使し、やり直しを前提としたいやらしいフィールドだなと思う。
だが逆に、あの手この手で飽きさせないようにする配慮も見て取れる。ただこれもそれも、MMO慣れしていないプレイヤーから見れば、単なる作業ゲーに見えて仕方が無いものでもあるが。
「ああ、恥ずかしかった」
エリアの腕が絡みつき、艶めかしい溜息がナディの腕をくすぐった。
シンゲンの言い回しや言葉遣いは、ナディから見てもかなり特殊な部類に入ると感じている。少なくともエリアやアインハルト、リリアンやシグマ、それにオーディンも、彼女のようなああいった科白を紡ぐことはない。
しかしそれが、恥ずかしいものなのか。それに関しては、まだナディも勉強不足である。
「でも良かった。ナディさんが無事で」
その科白を耳にして、ナディは後方を一瞥する。
自分だけでは無い。エリアも、共に部屋へと闖入したプレイヤーたち全てが、体力ゲージを削りきられること無く、次のステージへ参るための切符を手にすることができた。
シンゲンから送られたメッセの文体を見たところから察するに、ボス部屋へ入ったプレイヤー集団も無事なのだろう。
シンゲンが目指す勝利というものが『誰一人として犠牲を出さずに目的を達成すること』なのであれば、今回はその信念を貫けたのだ。回復剤の消耗や精神の摩耗は拭えないが、生命があることこそ勝利なのであれば。
「エリアも無事で、何よりだ」
「そりゃーね、ナディさんが必死にあたしのこと守ってくれたし。あたしに向けてくれた背中、すっごく頼もしかったよ」
上目遣いの瞳が交錯し、ナディは顔を赤らめ目を逸らす。それに関して「可愛いなあ」とはエリアの感想。照れくささをごまかすために一発咳払いをして、ナディはエリアへと視線を戻した。
「とにかくシグマたちと合流しなければならないな。共有倉庫に突っ込んでいた回復剤がかなり減っているから、その辺りの話もしなければならない。それに――」
無事かどうかも知りたい、と続けようとしたところで、心を抉るような慟哭が後方から木霊した。
ドサリと何かが崩れ落ちるような音とともに、悲痛の叫び声が連なり奏でられる。
いったい何事かとナディは振り返り、そこに広がった光景を目にした。
ナディたちが脱出した部屋の隣。その部屋の前で泣き崩れる、一人の獣人剣士。
シグマか? と刹那的に身構えたが、慟哭する獣人剣士の背中を撫でる巨漢がシグマ本人であることに気が付き、安堵の吐息。
しかしそれで、全ての安泰を告げられたというわけではない。ナディの目の前で、現在進行形で泣き喚く獣人剣士が存在するという事実には変わりないのだから。




