第十五話 『ハルト-2』
見晴らしの良い場所にエリアを放置しておくのは若干躊躇われたが、現在進行形で絞め技を喰らいながら、燻った大地をタップするアインハルトの耳元でオーディンが何やら注意喚起を促す科白を囁いていたので、あの気持ち悪い視線に晒されるということは無いだろう。
アインハルトはあれでも、仲間を大切に思う心はしっかりと持ち合わせている少年だ。
最初こそ他者を見下して、自分最強といった風味を醸し出していたが、最近のアインハルトからは、そういった感情の色は見えない。
強プレイヤーである彼に任せておけば、ナディのいない内にエリアが妙な輩によって、あられもない姿を晒すようなことになならないだろう。
「ナディさん、何か心配ごとでも?」
「ああ、ちょっとエリアのことが……」
「お二人は本当に仲が良いですからね。もういっそ、現実世界でも付き合っちゃえばいいのに」
遠慮なく言葉を紡ぎながら、オーディンは洞穴へ入ろうと身を縮こませた。
肉付きの良い太ももが上がり、スパッツに包まれたお尻がスカート型の鎧からぷくっと顔を覗かせる。
思わず悪い予感がして後ろを振り返ったが、ハルトたちの姿は見えなかった。
少し気にし過ぎか。
「ナディさんも、どうぞ」
オーディンに誘われ、四つん這いになってナディも洞穴へとその身を捩じり込む。
大きさから察するに、この場所はきっとプレイヤーが入れるように作られた箇所では無いのだろう。
辛うじて二人入ることはできたが、ナディは何度も天井に頭をぶつけ、オーディンは膝を抱えて座り込んでいた。
脚を絡め合うことでなんとか向かい合って座ることができたが、もしこの状況を他人に見られたら、よからぬ勘違いをされそうである。
「えっと、少し真面目な話になってしまうのですが、良いですか?」
「構わない」
オーディンは落ち着かせるように吐息を漏らし、胸の辺りを撫で、深く深呼吸。
エメラルドの瞳を揺らし、何度か言葉を発そうと口を開いては、何も告げずに静かに閉じる。
暫しの間そんなことを続けていたが、心が決まったのか、オーディンは拳にギュッと力を込めて、ナディの顔を見つめた。
「ナディさんは、PKって、ご存じですよね」
「ああ、知っている」
プレイヤーキルとはその名の通り、プレイヤーが他プレイヤーを殺すという、迷惑行為の一つだ。もちろん襲う側が一人だという確証は無く、今までにもILOでは七人以上のパーティに襲われた、という事例もある。
こういったものは既存のMMOでも存在していたらしいが、VRなゲームだと、他者に襲われるというその恐怖は、平面のMMOとは比べ物にならない。自身に向けられる刃が、拳が、殺意が、嘲笑が、狂笑が――全ての行為が、まるで現実のように襲い掛かってくる。
痛みを伴うことは無いが、自身が殺害される瞬間を体験したプレイヤーは、精神に大きな傷を負ってしまう。ILOにも当初はPK機能を付加されていたらしいが、プレイヤー全員が平等に楽しめるゲームを目指していたサンシローの手によって、数か月前のアップデート時に、そういった行動は禁止された。
ただ中にはプレイヤー同士決闘してみたいといった要望もあるにはあるため、プログラムからPK行為に関するデータを全面的に排除することはできないのだ。
理由は他にもある。
滅多に無いことだが《状態異常・感染症『大』》などに侵されると、感染したプレイヤーの周りにいる味方プレイヤーに、同様の状態異常を感染させるというものがある。そういった時、ILOでは『尊厳死』と呼ばれるPK行為により、それ以上感染を広げないといった戦術も存在する。
そういったわけで、プレイヤー同士の殺戮行為は依然消失することは無く、今でもこっそりと行われているという話だ。
「ナディさんは、プレイヤーキルをされたことは、ありますか?」
「殺されはしなかったが、刃を向けられたことはある」
実際は千切りキャベツを作るかのように、片手剣で切り刻まれたこともある。
打撃武器で後ろから襲われたことも。傍でアイテム手榴弾を爆撃されたことも、射撃武器の的にされたことも――思い返せば色々だ。
決められた科白を吐くことしか許されていない直立NPCは、ストレスの溜まったプレイヤーたちからは恰好の餌食とされる。
意思を持たぬアバターなため、いくら攻撃を加えても反撃されず、さらに運営に文句が向かうことも無い。
誰も同情してくれない。味方なんて、いやしない。迷宮の入り口付近という人の通りは多いが、薄暗い場所。そういった場所では、人間の持つ良心というものが薄れやすくなる。とくに厄介なことは、それが問題行動に当たらず、誰も困らないと思われていることだ。
NPCであるアバターにどれだけ攻撃しても、死亡して消滅したり、見ず知らずのプレイヤーの心に傷を負わせることにもならない。
ストレスの溜まった小心者は、NPCに攻撃をしてその負感情を和らげるのだ。
当時のナディにとっては「またか」と思える事項だったが、人間の感情を幾何か手に入れた今になって思い返してみると――。
「ぐふ、う。――すまない」
「――っ! ご、ごめんなさいナディさん。まさか、そんな辛い過去が、その」
「気にするな」
アバターの胃の辺りが、ボコボコと湧き上がるような不快感。
どれだけその存在を冒涜されても、反撃することのできない自分。思い出すだけで、吐き気がする。
「――実は、私もなんです」
オーディンはギュッと手を握り締め、モジモジと身体を揺らしてみせる。
その度にオーディンの太ももがナディのふくらはぎと絡みつくが、ナディは別段その感触は気にならなかった。
「私も、プレイヤーキルされた経験がありまして。――ナディさんと同じく、殺されるまではいかなかったんですけど……」
次の言葉を発すか否か、オーディンの表情に迷いの色が現れる。
ナディは急かすことなく、無表情のままオーディンを見つめていた。
時折太ももに当たるオーディンの足が、何となく変な感触を帯びているが。
「五人の男性プレイヤーに、押さえつけられて服を脱がされかけました」
抑揚の無い、オーディンの声音。聴き心地の良い声に違いは無いが、そこに感情の色は浮き出ない。
瞳は虚ろで、カタカタと総身が震え、粟立つ。オーディンのふくらはぎが小刻みに痙攣し、ナディの太もも辺りを容赦なくくすぐっていた。
「服を……?」
「凄く、怖かったです。まだ誰ともフレンド登録してなくて、パーティにも入っていないとき――ん、初めてログインしたばっかりのときだったかな。始まりの街からちょっと行ったところで、青とか緑とか、カラフルな髪色をした強そうなパーティの方々と出会いまして」
――雫が、膝の上に垂れた。
「男性五人のパーティで、ううん、私も悪かったかもしれないです。男性ばかりだから、もしかしたら弱い私でも、パーティに入れてくれるんじゃないかなとか思って――頑張ったんですよ、あまり話すのは得意では無いんですが、勇気を出して『入れてください!』って」
「それで、」
「はい。――人目のつかないところに連れていかれて、三人に押さえつけられて、一人に馬乗りになられて、残りの一人に」
「警告は、」
「分かりません。私も何が何だか、頭の中が真っ白でしたから」
眼の端に浮かんだ雫をすくい、オーディンは重い溜息をつく。
先ほどより若干緩んだ表情で、薄い唇がパッと離れ、
「そこを助けてくれたのが、他でもないアインハルトくんでした」
「アインハルトが?」
「はい。真っ黒な防具に身を包んだ、黒髪の少年剣士。物語の主人公をそのまま象ったような人が突然現れて、絶望から私を救ってくれました」
オーディンは、今でもそのことを憶えている。汚らしい欲望を塗りたくったアバターに身体をまさぐられ、初期装備である鎧に手をかけられた瞬間のこと。もうダメだと目をつむり、恐怖を堪えようと全身に力を込めた、そのときのこと。
黒いマントが翻り、氷のような剣先が眼前を舞った。
鈍い呻き声の五重奏。オーディンの目の前にいたのは、五人のプレイヤーでは無く、一人の黒髪少年アバターだった。
オーディンが彼に恋をしたのは、きっと出会ったその瞬間だったのだろう。
もちろん、そんな目の前でピンチを救ってくれたから惚れました。なんてチョロイン体質ではない。オーディンはそんな軽い女ではないのだ。吊り橋効果でちょっとドキッとして、アバターが格好良かったから、それでホイホイついていってしまっただけだ。
現実世界のオーディンはショタコンの気があるため、恋に落ちた四割程度の理
由はそれもありそうだが。
「――話を戻しますが、そういったわけで、私はああいう感情のこもった視線に敏感なんです」
オーディンはナディの手を握り、顔をズイと近づけた。ここにはいない青色髪の褐色錬金術師さんが目の当たりにすれば、発狂しそうな状況だが、ともかくとして。
「あの三人は、警戒した方が良いと思います」
「なるほど、把握した。言いにくいことだっただろうが、オーディンは、もう平気か?」
「はい、なんとか。もしナディさんがPK未経験者とかだったら、私が襲われた時の細かい内容は省こうとしていたのですけど――なんか、気が付いたら喋っちゃってました」
オーディンは頬を染め、愛らしくはにかみ笑いを見せた。
ナディの人徳なのか、ILOの世界で自我が芽生えてから、そういったことをよく言われるような気がする。
アインハルトは溜め込んでいた思いをぶちまけ、エリアも辛い事実を打ち明け、シグマは現実の自分に関することを吐露した。
ナディは人の話を黙って聞くことも、他者が抱え込んでいる秘密を共有することも、別段苦にはならない。
むしろ色々な情報を取り込むことができるため、ナディの人間関係に関する学習能力は、凄まじい勢いで著しい成長を遂げているはずだ。
現に今のナディは、エリアにちょっとした感情を抱いている。他の人とは違う、一緒にいると安心するといった、人間がもつ感情。
いち機械である人工知能が持つにはふさわしくない、高等な感情の一つ。無意識の内に、ナディは様々な感情や表情、人間関係が養われていたのだ。
「戻りましょうか、ナディさん。あまり遅くなると、エリアさんとかアインハルトくんから、変な詮索をされてしまいますから」
「そうだな。よし、私から出よう。狭くって、少し身体の節々が痛くなってきた」
「身体の節々が痛むって、インフルエンザの症状じゃないですかー?」
聞き覚えのある声が頭上から降り注ぎ、ナディの視界に日焼けした脚が二本顔を覗かせた。
四つん這いになったナディからはよく見えないが、把握した状況から察するに、今彼の目の前にて仁王立ちする女性の正体は、さっきまでいなかった青色髪の褐色錬金術師に違いないだろう。
「二人でそんな狭いところ入って、何してるのかなー?」
「大事な話をしていた」
「大事って、男の人ってすぐそういってごまか――」
洞穴から這い出したナディは予備動作も何も無く立ち上がり、拗ねたように腕を組むエリアの肩に手を乗せた。
突然の接触にエリアは一瞬戸惑い、頬を赤らめ、目を逸らす。
「いや、別にナディさんを疑ってるってわけじゃなくて……」
「ハルトたちに気を付けろ」
嫌に真剣な目をしたナディの視線に、エリアは思わず口ごもり、頬をもっと濃く染める。
パクパクと口を閉じたり開いたりしてから、エリアは深呼吸。どうにもナディは他の男性と違って、“そういったこと”に関して無知っぽいところが色濃く出る。
どうもナディのペースに乗せられてしまい、恥ずかしい思いをしてしまう。
「ハルトって、どのハルトよ」
「全員だ」
「もしかして、俺もか!?」
背後からアインハルトが姿を見せ、ショック! と言った様子で頬を包み込む。
冗談だと分かっている表情だ。
やがてオーディンも四つん這いになりながら、異常なほど狭っくるしい洞穴から抜け出し、定位置であるアインハルトの肩へと寄り添った。
「アインハルトくんは大丈夫。でもエリアさん、出来るだけあなたは、あの三人に近づかないで」
「え、近づかないって、どゆこと?」
「深く考えなくて良い。とにかくエリアは、朝から夜――夜中も私と一緒にいろ。守ってやる」
「ナディさん!? ちょっと、オーディンじゃないんだからそんなにくっついちゃ、こら!」
オーディンよろしくエリアに寄り添い、ナディはその腕にギュッと力を込める。
エリアが傷つくようなことをさせたりなど、絶対にしない。もしそのようなことがあったら、ナディは絶対に当事者を許すことはないだろう。
「ちょっと、ナディさん? 抱きしめてくれるのはすごーく嬉しいけど、そんなに密着されると動きにくいんだけど」
「いつもエリアが私にやっていることだ。たまには交代しても、問題無いだろう?」
ナディは今、エリアに甘えたかった。
理由は分からない。過去の自分を思い返し、心が荒んでしまったからなのか。
それともナディの学習能力に、『恋』という情報が組み込まれたのか。
ナディには分からなかったが、今はこうして、エリアの温もりや柔らかさを、何よりも優先して味わいたかった。




