第十二話 『惚気』
バーチャル・リアリティな空間には、気候や環境などの常識が通用しない。
砂漠地帯を歩いていたら、次のフィールドは吹雪塗れる極寒の土地、ということも実際ありうるのだ。
事実そういった事例は数多く見られる。とくに平原や渓流、村や集落といった基本的なフィールドは、初心者の練習用として使用される傾向が強いため、必然的に始まりの街付近に集められる。
そして中盤では、クリエイターやデザイナーの手腕が物を言う。何の変哲も無い王道的なフィールドを越え、そろそろ飽きてきたプレイヤーを歓迎するための、珍奇で独創的なフィールドを用意しなければならない。
ちなみにここILOでも、中盤付近には極寒の地・氷山・氷の城などの幻想的かつ神秘的なフィールドが、これでもかと散りばめられている。
巨大な花卉や植物に囲まれた場所や、綺麗な虫が出現するエリアなど、防具を着飾ったりアクセサリーを作るための素材がとれるフィールドから、スキルレベルやステータス上昇に貢献するMOBが出るエリアなど、中盤地点には様々なプレイヤーが集結する。
故に、これといって目ぼしい物の無いフィールドでは、プレイヤーの過疎化が顕著である。
深淵迷宮街グラールはともかく、オードゥグ遺跡やメグル街、さらにその先のレム溶岩界域には、物珍しいアイテムや素材も無く、出現する魔物と比べてプレイヤーが勝ち取ることのできる栄誉や報酬は少ない。
効率を考慮しなければそこそこ面白いエリアではあるのだが、砂漠地帯、火山地帯など冷水剤が必要であったり、一つ一つのフィールドにやたら手が込んでいて中々脱出できなかったりと、素材を集めるためだけにわざわざ再度赴くプレイヤーは少ないのである。
そのためか、ナディたちがレム溶岩界域に足を踏み入れても、他のプレイヤーたちの姿は見えなかった。
誰かしらがここを通った痕跡は残っているので、先にエリア攻略を済ませたプレイヤーは何人かいるのだろうが、現在はこのフィールド内に誰もいないらしく、火山が噴火する音や地響きの音が、ナディたち闖入者を歓迎していた。
レム溶岩界域とは、メグル街を抜けてすぐの場所に位置する戦闘・探索用フィールドである。
燻ったような赤黒い大地に、熱したトマトソースのようにドロリとした鮮紅の溶岩。時折思い出したかのように、辺りを彩る火山から橙色のマグマが吹き出し、光の粒となって儚げに弾け飛ぶ。
現実の溶岩や熱風とは違い、それらのエフェクトにプレイヤーが触れてもとくに問題は無い。オードゥグ遺跡と違って『反応鈍足』も発動しない。冷水剤は必要だが、その程度。攻略するプレイヤーにとっては、手の込んだオードゥグ遺跡と比べて、いささか楽なフィールドとなっていた。
出現するMOBも、オードゥグ遺跡と比べれば異常なほど強い。どれだけ強いのか、基礎体力は、攻撃力は、といった隠し数値の差は分からない。解析コードや不正侵入プログラムを完封しているILOでは、他のMMORPGと比べて、攻略サイトの進みが悪い。
これは決して解析人口が少ないのでは無く、正当な手段を踏んだ上で把握した情報以外のデータを、未だ誰も解析できていないからだ。
不正改竄プログラムの闖入を把握し、中央管理プログラムに情報を伝達するNPCは、なにもナディだけというわけではない。
始まりの街から近未来都市アーズまで、数多の害悪排除プログラムを組んだNPCが、通常のNPCに混じってILOの大地を闊歩している。
もちろんそれらは人工知能ではないため、ナディほどの精緻さを持っているわけでは無いが、半端な知識で組んだ改竄プログラム程度であれば、苦労なく識別することができる。
そういったこともあって、プレイヤーたちがダメージ計算表やら隠しエリアなどを必死に解析しようと試みても、そこらじゅうに存在するNPCに発見され、瞬く間に摘発されてしまうのだ。
「こうしてそれをプレイヤー視点で目の当たりにすると、自分の仕事に少し疑問を感じてしまうな」
「何が?」
健康的に日焼けした二の腕が伸ばされ、ナディの肩を優しく抱きしめる。
青色に踊る髪が肩をくすぐり、聴き心地の良い声音が鼓膜をじんわりと刺激した。
「いや、こっちの話だ」
「今仕事って言ってたけど、もしかしてナディさんってプログラマーだったりする?」
言葉を濁したが効果は無く、エリアはナディにしなだれかかりながら、その話題に喰いついてくる。
「さあな」
「えー、いーじゃんいーじゃん、おしえてよー!」
腕をからめながら、エリアはナディへと盛大に甘える。体躯を押し付け、はしゃぎながら上目遣い。依然立ち止まろうとしないナディに引きずられるよう、エリアは溶岩地帯の上をズルズルと滑っていた。
「歩きにくい、体重をかけてしがみつくのを、少し抑えてくれないか?」
「そこで『離れろ』とか『くっつくな』とか言って突き放さないのが、ナディさんの心優しいところを表しているよねー」
とは言ったものの、エリアはナディにしがみつくのをやめ、肩を並べて歩き出した。
額や首筋にじんわりと汗が滲み、エリアは冷水剤を取り出すと、キャップを開けて口をつけ、コクコクと喉を鳴らす。
口端から若干雫がこぼれ、顎を伝って首筋を走り、褐色の胸元へと消えていった。
冷水剤には、暑気や不快指数といった不快感を一定時間取り除く効果がある。
ついでに脳内に電気信号を流し、まるで冷たい水を実際に飲み、喉を潤しているような錯覚をも味わわせる。口元から若干雫がこぼれるエフェクトは、確か女性アバターのみに設定された所謂“無駄エフェクト”だった覚えがある。
別にこぼれたからといって、中身の量が増減することはない。このエフェクトが何のためにあるのか、ナディにはよく分からなかった。
「――ぷは。少し残ったから、ナディさんにあげるよ。さっきから一度も、冷水剤飲んでないでしょ?」
半透明なボトルをエリアに手渡され、躊躇うことなくナディは受け取ったボトルに口を付けた。
残っている量はさほどではない。むしろ何故残したんだと聞きたくなるような微量だ。
ボトルの中身を飲み干すと同時に、容器は光の粒となって手から消失する。
ナディが喉の渇きや暑気を感じることは無いが、何となく心地よい感覚が生じた。
どうやら冷水剤がもたらす効能は、先ほど上げたものと他にもあるらしい。
人工知能にまでこの感覚が生じるとは、一体どういったプログラムを組んでいるんだろう。
ふと視線を感じて横を見ると、頬を真っ赤に上気させたエリアが、両手で顔を覆いながら何やら身悶えていた。
髪まで赤くなる勢いで顔が紅潮し、つむじの辺りから真っ白な湯気が感情エフェクトとして出現する。極度の羞恥を感じなければ、滅多に出ないエフェクトだ。
「エリア、どうした、大丈夫か?」
「戸惑ったナディさんが見たくてからかっただけなのに、まさか、まさか躊躇いなく飲み干しちゃうなんて……」
蹲り、ナディの足元でエリアは羞恥を紛らわそうと首を左右に振る。
目の前で突然屈み込むという状況にナディは困惑し、真顔のままオロオロするように、前方を歩むシグマとリリアンの背中を見やった。
二人は楽しそうに話しながら、時折出現するトカゲのようなMOBを鉄槍の爪の一撃で仕留めていた。
ひしゃげた頭蓋から脳漿や血液が炸裂し、光の粒となって消失する。コトリと音がして《溶岩蜥蜴の鱗》なんて素材が出現した。
このフィールドに出るMOB討伐は、前衛のシグマに任せて問題無さそうだ。
しかしナディが抱えている問題はそこではない。
目の前で突然エリアが蹲り、つむじから煙のエフェクトを出している。生身の身体に何かしらの不具合が出たのではないか、とナディは心配になる。
「エリア、」
「どうしたんですか」
同じように屈み込んでエリアの肩を揺すっていると、不意に頭上から声をかけられた。
透き通るような魅惑の声音。不愉快にキンキンと響くこともなく、慈母が発するように優しさに包まれている。
ナディは顔を上げ、声の主と目を合わせる。
銀色のブーツから細い脚が伸び、漆黒のスパッツへと飲み込まれる。エメラルドの艶をもつスカート型の鎧は、緑柱龍の素材を使用した上位装備。ハイエルフを象った華奢なボディを包み込むトップスも、同じく緑色に煌めいている。
身体のラインは出ているが、エリアなどと違って素肌の露出は少ない。金色の髪が繊細に煙り、宝石のような碧眼が眠たそうに細められる。
「オーディン、か」
「エリアさん、どうなさったんですか? つむじの辺りから、物凄い煙がわんさか出てますけど」
「そっ、そんなに出てないもん!」
胸を寄せるように腕を組み、エリアは瞑目して立ち上がった。
頭から発出されていた煙は止まったが、まだエリアの頬は赤いままだ。
現実世界であれば『溶岩が暑くて――』でごまかせるのだが、それができないのはエリアとしては辛い現実だ。
青色の髪に、健康的な褐色肌。
青色の眼に、処女雪のように白い肌。
ナディの位置から二人を見ると、対照的なアバターが並んでいて実に興味深い。
「オーディン、溶岩蜥蜴は全部倒せたぞ」
「ありがと、アインハルト」
金髪碧眼のエルフ剣士は慎ましやかとは程遠い歩行でアインハルトにしなだれかかり、指先で胸元をクリクリしながらアインハルトの横顔をじっと見つめた。
水面に映った月光のように、表情に動きが無く読み取りにくい。
その瞳に映るのは、アインハルトだけだと言うような視線。誰が見ても恋心だと判る目線である。
「二人は、仲が良いのだな」
「アインハルトは格好良くて、そして可愛い」
頬を淡い桜色に染め、オーディンは薄く微笑。アインハルトは満更でもないような表情でオーディンを見やり、照れくささのためか頬をポリポリ掻いた。
「ねー、いつも一緒にいるけどさ、やっぱオーディンはアインハルトのこと、リアルでも好きだったりするの?」
自分から話題が離れた事実につけ込むかのように、エリアはオーディンに典型的なコイバナを投げかけた。
アインハルトは片手で目の辺りを覆い、やれやれと溜息。オーディンは眠たげな瞳をそっと開く。ナディはいつも通り無表情である。
通常のMMOであれば、こういった現実の生活に関する質問や話題を出すことは、規約で禁止されている。だがそれは、管理者がいる場合でのことだ。
止めに入る者がいなければ、喩えそれが理に反することだとしても咎められない。
そういってしまうと、ある意味でここは無法地帯である。
「リアルでは、知らない。でも私は、アインハルトが好き。喩えアインハルトが女の子でも、現実では醜い風体をしていたとしても、私がアインハルトを好きなことに、変わりは無い」
「やめてくれ、恥ずかしいから」
顔をそらし、アインハルトは腕で口元を塞ぐ。それを見てエリアはニヤニヤ。ナディに関しては、いつも通り平常運転だ。
「――でもきっと、アインハルトは男の子だと思う」
オーディンはその端正な顔を淡い桜色に染め、ポッと頬に手を当てがい、
「挙動とか、夜に私を見る目つきとかが、」
「わー、わー!! ほ、ほらみんな、早く行かないと二人においていかれちゃうよ!」
動揺したアインハルトは前方を行くリリアンとシグマの背中を指さし、オーディンの言葉を無理やり中断。オーディンは嬉しそうにはにかみ笑いを見せ、アインハルトの肩へしなだれかかる。
どうやらそこが基本位置らしい。
オーディンを連れて足早に立ち去るアインハルトの背中を見やり、ナディはその後ろを静かに歩む。隣にはもちろん、エリアの姿がある。
しなだれかかろうと身を寄せたり、遠慮がちに指先を伸ばしたり、結局やめてしまったり、一つ一つの仕草が少女的で可愛らしい。
先日――メグル街を出た頃から、エリアといると落ち着くような感覚が生じる。
ナディにとっては初めての感情だが、別に悪い気はしない。
赤々と燃えるレム溶岩界域へ到達して、一日目。とくに事件が起こることも無く、平穏な一日が過ぎていった。




