第九話 『死闘-1』
エリアの涙を胸に感じてから、さらに二日の時が経った。
サンシローが遺跡好きであることによる弊害か、広大で探索するエリアをかなり用意していると言っていた深淵迷宮街グラールと比べても、いや、比べることがバカバカしく思えてくるくらいに、この砂漠地帯は広かった。
オードゥグ遺跡の入り口にNPCショップが設置されていたことは、まだ制作陣の良心的なものを感じることができるが。それでもこの無駄に広いフィールドは、人を恨むという負の感情を持ち合わせていないナディでも、似た感覚を抱きかけるほどに、うんざりとした気分が生じていた。
だが砂漠地帯の半分を越えた辺りから、ナディ以外のプレイヤーをずっと苛んでいた不快指数が消失したらしい。
オアシスを模した景色や情報を呟くだけの村人NPCが現れ始め、冷水剤を使う機会も無くなった。
さらにオアシス付近では、冷水剤を調合するために必要な『冷水』という自然素材が採れるようだ。
休憩がてらメンバー総員で採取を始め、採った素材アイテムは錬金術師であるエリアが正確に調合する。
実際必要無いのだが。一人だけ黙って突っ立っているのも不自然だと考え、ナディもオアシス付近で採れる素材アイテムを採取し、エリアに調合を頼んだのだが。
エリアは顔を赤らめ、チラチラとナディに視線を送りながら調合を始め――よそ見をしていたためか案の定調合に失敗し、『温水』なる砂漠地帯では全く必要ないアイテムが生成されてしまった。
エリアが酷く申し訳なさそうな顔で謝るため、ナディは「気にするな」とだけ告げ、エリアが調合した謎のアイテム『温水』をガブ飲みしてみた。
効能を示す音声とウィンドウが開くのを待つと、ナディの目の前に『これは飲食アイテムではありません』という警告ウィンドウと、『効果は無いようだ……』というウィンドウが現れ、ナディは思わずフフッと笑う。
調合失敗アイテム一つ一つにこんなプログラムを組んでいるとは、細かいな。
口元を緩めたナディが空になったボトルを眺めていると、瞬くような閃光が刹那的に放たれ、エリアが嬉しそうにナディを見つめる。
「ナディさん、笑顔増えたね」
「そうか」
中身を失い消滅するボトルを見つめながら、ナディは考える。
そういえば最近、ちょっとしたことで表情が変化することが増えた。今まではどうとも思わなかったようなことでも、うんざりしたり、笑ってみたり、呆れてみたり。
他プレイヤーと数日間接して会話をして、一緒にフィールドを冒険して、力を合わせて戦ったり、互いを助け合う様子を見る。
第三者として、NPCとして何度も見てきた情景だったが、やはり自分がその場で体感するのとでは、学習能力の向上に雲泥の差がある。
そして、表情の変化という些細な成長を、傍で見守りながら評価してくれるエリアという存在は、何と安らぐ相手なのだろうか。
依存とは遥かにかけ離れた感情だが、ナディは少しずつ、新たな感情をその心に刻み込もうとしていた。
「オアシスが出始めたら、多分もう少しでオードゥグ遺跡からは出られると思います。ですが魔物が全く出ないというわけではありません。出来るだけ離れず、魔物が現れたら身を守ることに徹してください」
先頭にてシグマを肩を並べるリリアンが振り返り、背後をぞろぞろと連なるパーティメンバーへと連絡事項を告げる。
このメンバーでオードゥグ遺跡を抜けたことがあるのは、シグマ、リリアン、アインハルト、オーディン――そしてエリアだけである。
故にナディ含む他の三人は、どういった魔物がどの辺りで出現するのか、そういったことに警戒することができない。
現実の砂漠地帯のように見通しが良く、非常にリアルな光景だが、VRな仮想空間では、現実の常識は通用しない。
何百メートル、何キロメートルと人影や気配が感じなくとも、条件が揃えば突如目の前に強大な魔物が出現することもありえるのだ。
「ナディさんの回避力は認めるけど、ここには攻撃範囲が鬼みたいに広い魔物も出るからね。気をつけなきゃ危ないよ」
「分かった。気を付けよう」
「確かここを出ると、次のフィールドまでに防具ショップとか加工ショップがあったはずだから、さっき倒した赤色蟻とかの素材で、防具を強化しておいた方が良いと思うなー。これから先、回避だけじゃ進めないような場所も出てくるし、その防具が気にいってるなら、附属品で基礎防御力を底上げすればいいと思うし。あたしが選んであげるから、武器とかも新調した方がいいと思うな」
「助かる。エリアが選んでくれるなら、俺は嬉しい」
ナディの無自覚な科白に、思わずエリアは顔を赤らめる。ついでにその体躯をすり寄せ、伸びやかな腕をナディの肢体に絡みつかせる。
エリアのアバターが示す表情は、幸福感溢れるとろけるような顔といったそれだ。
エリアの肉体的接触が過激なことは毎度のことであり、後衛の四人はその表情を見ることはできない。前衛の二人も前方の状況に気を向けており、後ろを振り返るなどといった愚行を働くこともない。
誰も見ていないという状況は、人のもつ心のブレーキを緩めてしまう。
それは現実世界だろうと、仮想空間だろうと同じことだ。ましてや現在のこの空間は、ILOの運営が管理しているものでは無いため、ちょっとしたことで邪魔な警告ウィンドウが出現することもない。
もちろんILOの利用規約にも、他のMMOと同じく『宗教などの勧誘、異性同性を問わずゲーム内での執拗な接触及びストーカー行為などの迷惑行為は禁ずる』という文章が書かれている。
もちろんその迷惑行為の中には、現実世界に関する告白や、他者の私生活に深く突っ込んだ質問を続ける、といったものから、不特定多数のプレイヤーが存在する場所で実名や電話番号、メールアドレス、住所などを晒すといったものまで、常識的な範疇で理解できるだろう事実が大量に含まれている。
無論、出会い系サイトのように扱うことも禁止だ。
それが原因で退会を余儀なくされたプレイヤーは、実は意外と多かったりする。
VRMMOという特性上、辺りにオブジェクトが多く存在したり、辺りを床天井に囲まれたマイルームの中だったりすると、誰にも見られていないという錯覚が生じてしまうのだ。
そういったところでは、かなりの確率で『迷惑行為』が行われている。
もちろん運営の管理者はそういった人間心理を重々承知しているため、すぐさまその証拠を確認し、プレイヤーの特定までを済ませてしまうのだが。
「ナディさん、あたし……」
運営からのお詫びや連絡ウィンドウが届かないこの状況からして、管理者が今現在この状況を把握していることは、確実にないと思われる。
だからこそ、今しかないという焦燥に駆られてしまう。何かのはずみで、乗っ取られたこの世界を外部で取戻し、元のILOへと戻されたら。
ナディとエリアは、きっと会うことはなくなってしまうだろう。
エリアは他者に悟られないよう片手間にメッセージウィンドウを開き、『フレンド以外』の項目を開き、左人差し指で虚空をタッチして文章を作成する。
なるべく簡単に、単純に。分かり易く、それで返事も簡単なものを。
『戻ったら、皆さんと一緒に、お食事でも行きませんか?』
作成したは良いが、送信先が分からないため『手紙』というアイテムにして生成する。
そしてそれをさりげなく、ナディの前に差し出した。
真顔のままそれを捉えたナディを見やり、エリアは口元をキュッと結び、平常心を装って、
「時間があるときにでも見てください。あたしからのメッセ――お守りみたいなものです」
「ありがとう、では、開けていいか?」
平静を装っていたエリアだったが、それには流石に面食らった。
ナディよろしく無表情を貫いていたアバターの表情が面白いようにコロコロと変化し、口をパクパクとさせ始め、
「ダメですよ! お守りって言うのは、開けてはいけないんです。全てが良い方向になって終端を迎えた時、やっと開けていいものなんです!」
「そうなのか、失礼。こうしてものを貰ったことは初めてだったのでな、すまない」
ナディはそう言って謝罪。空っぽのアイテムバックを開き、割れ物を取り扱うように繊細かつ丁寧な動作で仕舞った。
それを確認して、エリアはやっと安堵の溜息をつく。確かに少しばかり天然な部分はあるなとは思っていたが、まさか貰った手紙を目の前で開封するとは思わなかった。
しかも言い訳が凄い。事実だとしたら同情するしかない言葉だが、流石に生まれてから、誰からも何ももらったことのない人などいないだろう。
エリア自身の常識でナディの私生活を分析しようとは思わないが、数日間ゲーム内で接し、話していると、ナディに関することを少しばかり把握することができた。
リアルで接客業のバイトを転々としているエリアにとって、会話や仕草からその人がもつ大体の人柄を識別することは、造作も無い――とまでいうと言い過ぎかもしれないが、割と得意分野だ。
エリアが思うに、ナディとはインドア派で、男性女性問わず接したり会話をすることが苦手のようだ。アバターを着飾ったりせず、過度な装飾も好まない。自身のPSに強い自信を持っており、武器や防具に関するこだわりは強い。アイテムバッグ整理をする動作が無いところから、無駄なアイテムを持ち歩いたりせず、必要最低限なアイテムだけを持って冒険に出るタイプ。――きっと、マイルームなどにも余計な装飾グッズは置かれていないのだろう。これでもし、渋面ナディのマイルームがファンシーなぬいぐるみだらけだったら、きっとエリアは凄まじいギャップにやられ、ベタに鼻血とかを出してしまうかもしれない。
自分を着飾ることはしないが、可愛いものを愛でるのが好きとか、エリアの超タイプだ。
そして、何故か初対面でも、話しかけることに抵抗が生まれない。
シグマに話しかけることにも多大な勇気を必要としたエリアだが、ナディとは、気が付いたときには普通に話していた。
原因は判らない。だがそういった人は、どこにでもいる。口数も少なく大人しいのだが、話しかけることに逡巡を必要としない人。
そういう人は根が優しく、距離が縮まると明るく振舞ってくれることが多い。自分だけの世界観をもっているけど、決して自分から他人を拒絶したり、理解を拒んだりしない。
友人が欲しいのに何故か一人だとかいう人と、根本的な何かが違うのだ。
エリアは、ナディに守って欲しいとは思わない。
それよりも、エリアがナディを守りたかった。
不器用だけど、優しくてちょっと変わってて、小ざっぱりしてるけど清潔感を覚えさせる一人の男性。
だからこそ――、
辺り全域を覆うような、凄まじい砂煙が数多の位置から噴出される。
エリアはマップを取り出し、今現在自分たちがいる正確な位置を割り出し、納得した。
オードゥグ遺跡に侵入し、数日間、変わり映えのしない遺跡だらけの無機質な砂漠地帯を歩み進め、オアシスやNPCの存在する場所まで辿り着く。
そしてそこから少し進むと、またしても『反応鈍足』が発現するフィールドに迷い込む。
冷水剤は先ほどの調合で補充されているため問題無い。
大体この場所。遺跡の数が減り、スキル《千里眼》などの遠距離視認を持っていればオードゥグ遺跡の終端を視認できる位置。
馴染みのある言葉で表現するとなると、所謂フィールドボスというものになるだろうか。
中堅レベルの魔物を数体従え、疲弊したプレイヤーを砂まみれの鐘で迎える魔物。
前方に広がる大地に穴が開き、耳を劈くような鳴き声が轟く。
辺りに出現するのは、最初に砂壁でエリアたちを祝福した魔物――砂漠精霊の大群。
そしてそれらを護衛するかのように、次々と出現してはその尖った鼻で地中へ飛び込むモグラのような魔物。
名前も定められていない、所謂MOB。ここまで来るプレイヤーにとっては大した脅威では無い。
「――ナディさん、地中から飛び出してくる魔物がいるから注意して」
だがナディのように防具が紙レベルなプレイヤーにとっては、その一撃も命とりだ。
二、三体が連続して飛び出し、怯んだ隙を辺りにいる砂漠精霊が容赦なく連撃してくる。
オードゥグ遺跡初見殺しコースとして、一番有名な道筋だ。
数十匹のモグラが地中に潜り、数体の砂漠精霊が砂塵の中を翔け巡る。
エリアは動かない。この場所に一度でも足を踏み入れた者なら、彼女のとったその行動の真意をはっきりと理解できるだろう。
無防備無抵抗を貫くエリア――もといパーティメンバー総員に、モグラやセイレーンが攻撃の手を加える様子は無い。
セイレーンなどその鳥のような体躯を掲げながら、静かに地上を見下ろしている。
まるで、何かを祀り、何かの出現を待っているかのように。
またしても、強烈な鳴き声が大気を揺るがす。
フィールドを揺動され、『地響き・小』のステータス低下メッセージが流れるが、エリアはその出現を予測していたかのように、つまらないものを見るような目でその警告を読み流す。
砂漠の裂け目から放出される、膨大な量の砂塵。世界を砂色に塗りつぶさんと舞い上がった風塵の中に、一つの巨躯が影となって現れる。
オードゥグ遺跡を支配する最後の魔物が、幾何もの家臣を連れて、今姿を現そうとしていた。




