プロローグ
天に広がるは、濃紺色の闇夜。
儚げな星々が天空を彩り、粒状の光が深淵迷宮街グラールの大地を照らし出す。
夜空に散らばる星彩は、いくら待ってもその位置を動こうとはしない。
時折思い出したように全ての星芒が同時に移動し、天に映し出される情景が変貌する。
現実味を帯びない光景だが、それを指摘するような者は、この場に存在しない。
当たり前のように人々は大地を踏みしめ、グラールの大地を埋め尽くす、狂気に塗れた回廊を踏破せんと奮起する。
天を砕く槍が、大地を削る剣が、大気を抉る弾丸が。
人々の手から放たれたそれらは、彼らの行く手を邪魔する魔物たちに、消滅という名の制裁を与えんと、そのエネルギーを形にする。
光が貫き、炎が吠え、弾けるような電撃が大地を駆ける。
思い思いの防具に身を包んだ様々なアバターが発動するそれらのエフェクトは、辺りのオブジェクトを破壊しながら、プレイヤーに立ち塞がる魔物へと一直線に吸い込まれる。
禍々しい雰囲気に塗れた魔物たちは、そのビジョンに存在を打ち砕かれ、光の粒子となって瞬く間に消失する。
あまりに幻想的で、現実感のないこの状況。辺りを彩る景色は自然天然そのものなのに、これは全て電気信号が織りなす錯覚――虚構の光景に他ならない。
夢が覚めれば、味も香りも無いつまらない日常へと引き戻される。
そう、今目の前に広がるこの世界は、現実には存在しない。
人々の理想や妄想を蒐集し、塗り固め、人の手によってつくられた世界。
撃ち出される弾丸も、振り下ろされた斬撃も、手のひらから放出される魔法攻撃も。
ここに存在する全てのビジョンは、誰かがつくった――創作物に他ならない。
プレイヤーが自身の手で生み出したエネルギーでもなければ、現実世界に実在する力や名誉でもない。
現実では他者と比べて劣等を感じる生活をしていようと、蔑まれるような日常を送っていようと、ここにつくられた世界では関係ない。
全てのプレイヤー、全ての人間が、ゼロから自分を作っていける場所。開始地点にリードやハンデは存在しない、誰もが平等に自分の存在を主張できる理想郷。
そう言っても、過言では無いだろう。
だが、複数あるいは多数の人間が存在すれば、寸分違わぬ平等な世界というものを作り出すことは不可能だ。
ここで差を作るのは、時間か努力か、はたまた個人の才能か。大抵の人々が、自身と他者の間に越えられない壁という溝を作る原因は、この世界に至っては、ほとんどの確率で時間の有無が挙げられる。
時間を制するものが、この世界で他者を踏み越えることができる。
現実世界でも、時間は誰にでも平等かつ公平に与えられる。
すなわち、現実世界にて施された時間という生命の刻を、どれだけ一つのことに費やすことができるか、どれだけ無駄なく一点を目指すことができるか、それが、この世界――ネットゲームという仮想空間で頂点に立つために、最低限必要な能力なのである。
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深淵迷宮街グラールの一角に、一つの迷宮回廊が存在する。
名称などもとくに無い。最深部に潜っても、身に余る栄光や名誉を手に入れることもできない、存在意義さえ怪しいフィールド。
一説には、夏に開催されるイベントかなにかで地下階層が解放されるのではないかと噂され、数人の勇士たちが、現在入り込める最深部までの道筋や出現する魔物などを記した攻略サイトを作成し、現在進行形で解析が進められていた。
足を踏み入れると恐怖感溢れるBGMが奏でられ、心を抉るような魔物の呻き声が闖入者を祝福する。
古代遺跡をもとにつくられたのか、壁面や天井には解読不可能な文字が刻まれており、謎の迷宮という雰囲気を、さらに盛り上げることとなっていた。
そこの第一階層、入り口付近。一人の弓兵が存在する。
赤茶けた初期防具に身を包み、鉄と木材で作られた弓を背中に背負う。
茶の混じった黒髪に、こういったゲームでは珍しく、記憶に残り辛い薄い顔。
若い男性のような体格をしているものの、顔つきは大人のそれであり、顎には髪色と違わぬ無精髭を生やしている。
時折その場を歩行して移動することはあるものの、彼はこの迷宮から出たり、はたまた二階層などに潜るということもない。
ただただ一人で一階層の入り口付近を彷徨い、自分から他者に話しかけることなく、無意味に辺りを徘徊している。
魔物が現れようと動じない。彼のすぐ傍で戦闘が開始されようと、決して逃げず、そして決して加勢はしない。
攻撃に巻き込まれようと、辺りのオブジェクトが破壊されようと、彼はその場から離れることは無かった。
彼が普段と違う行動を起こすとき――すなわち、誰かと対話をするときのことだ。
自分からは決して口を開かぬが、他プレイヤーから話かけられたときのみ、彼の言葉を聞くことができる。
そして誰かに話しかけられたとき、彼はいつでも、全く変わらぬ同じ言葉をその口から紡ぐのだ。
「ここは危険だぜ、回復剤を忘れるなよ」
何を話しかけられても、ただのそれしか言わない。
おはようと声をかけられても、何かを問いかけられたとしても、彼の口から、他の言葉が放たれることは絶対に無かった。
「ここは危険だぜ、回復剤を忘れるなよ」
迷宮回廊にてとあるプレイヤーに話かけられたナディは、普段と寸分違わぬ、いつも通りの返答を返した。
初めて会う顔だ、とナディはその記憶媒体に、今話しかけられた相手の情報を読み込んでみる。
名前:キッド。
職業:銃士。サブ職業:盗賊。
種族:人間。
性別:男。
容姿や装備はいつでも変更可能な情報なためか、ナディの記憶媒体にそれが読み込まれるということはない。
ナディとしても、それ以上の情報を欲しいとは思わない。
プレイヤーがどのような容姿にアバターを作成しようが、どのような防具に身を包んでいようが、ナディには関係の無いことだ。
ナディにとって知らなければならないこととは、ここに赴くプレイヤーがチートなどの不正改竄を行っていないかどうか、不可能な組み合わせの種族や職業を兼用していないか、それだけだ。
ナディがそういうプレイヤーを見つけると、プログラムが作動し、このゲーム――《Immortal Life Online》を管理する中央コンピュータにメール送信され、どこの誰が不正行動を起こしているか、管理局に通達される。
ナディの役割とは、そのようなものだ。
勘の鋭い方々はもうお分かりだろうが、種明かしをしよう。
謎の迷宮に入った途端現れ、「ここは危険だぜ、回復剤を忘れるなよ」の科白で有名なナディ・パープル・キャッツその人の正体は、製作者の手によって作られた、NPCの一つである。
そしてナディは、フィールドを徘徊し、プレイヤーに情報を与えるような単なるNPCではなく、チート使用者や迷惑行動を行うアバターを摘発する、一種の害悪排除プログラムだった。
科学の進歩した現代では、もちろんそう言った不正改竄に関する対策は目に見えるほど向上し、その精緻さは世界からも認められる性能だ。
だが対策ソフトの性能が向上すれば、次に発展するのは、それを打ち破る不正プログラムの方である。
ガードの網をくぐりぬけ、進歩した改竄プログラムは、ゲーム内に容赦なく闖入してくる。
高い壁を作れば、それを越えるための知識が生み出される。
深い溝を掘れば、そこを飛び越えるための情報が出回る。
結局は、イタチごっこなのだ。
このゲームの開発者――天瀬三四郎は、そういったずるや反則が何よりも大嫌いだった。
人々が自分たちの時間を割いて努力し、サンシローが作ったゲームの世界で様々な行動を見せてくれる。
プレイヤーたちのステータスが少しずつ上昇し、楽しんでくれるのが、サンシローにとって何よりも幸福だった。
それを不正改竄などで簡単に超越し、踏むはずの手順を何段も飛ばして先を進む害悪たち。
サンシローは、何よりもそれらを憎んでいた。
そのためサンシローは、現代科学の知識を世界中から蒐集して、科学力の最高傑作とも呼ばれるNPC、ナディ・パープル・キャッツを作り上げたのである。
これで不正行為やチートなどは、このゲームから姿を消すと思われた。
否、実際にナディの功労により、数か月の内にそういった不正改竄プレイヤーは瞬く間に減少していた。
作り変えても作り変えても、さらに性能を増したナディの検挙により、アカウント剥奪を余儀なくされる。
ここまで不正行為の検挙率が高いゲームなど、他には存在しない。
そういったチートプレイヤーなどは、このゲーム――《Immortal Life Online》の世界からは離脱し、新たな仮想空間へと住居を変えて行ったのだ。
これによって《Immortal Life Online》からは、プレイヤーを脅かす脅威は、全て排除されたと信じ込まれていた。
ルールや利用規約を守ってプレイする分には、何の支障もない素晴らしいゲーム。
――と、サンシロー含めた開発者総員そしてプレイヤーたちは、そのことを信じて疑わなかった。
人々を畏怖と恐慌の渦に巻き込んだ、あの事件が起こるまでは。