地獄を抜けたら次の地獄の入り口だったんですが
「……くん、セイ……ん。中島セイジくん、起きて。着きましたよ?」
優しい声に呼ばれて、目を開けると、そこはうす暗い天井灯の点った座席の上だった。
小さな窓の外からは、眩しいくらいの日差しが入り込んできている。
そこは、飛行機の中だった。
僕らの修学旅行の行き先は北海道なので、僕は生まれて初めて飛行機に乗ったのだ。
そして、飛行機に乗るという現実から目を背けるために、早々に眠ることにしたのだった。
起こされたということは、到着したんだろう。離陸する前に眠ることに成功したので、飛んでる間のことはなにも憶えていなかった。
だって、鉄の塊が空を飛ぶなんて、信じられないじゃないか。
紙とか風船とかシャボン玉が空を飛ぶのはよくわかる。だって、アレは軽いから。
でも、鉄の塊でありしかも中に何十人もの人間を乗せて飛ぶなんて、僕には正直信じられない。宙に浮いてるなんて、不安定きわまりないじゃないか。
でも、僕一人だけ修学旅行に行かないわけにはいかない。僕はこのイベントをとても楽しみにしてたのだ。だからせめてもの抵抗として、例え落ちても安らかに死ねるように、あらかじめ意識を失っておくことにしたのだった。
自分が生きていることを確認できて、すごくホッとする。
不安定な乗り物に乗っていたせいで、とても嫌な夢を見た気がするが、内容は全然思い出せなかった。
「セイジくん、だいぶうなされていたけど大丈夫?まだ調子が悪かったりする?」
キレイな女の人が、僕の目線までかがみ込んで聞いてくる。
ぼやけた頭でも、この人はすぐにわかる。僕の担任の紫陽花フウカ先生だ。
新任であり、教師一年目の、笑顔が可愛いフウカ先生。
一生懸命に僕ら生徒に向き合ってくれるので、男子も女子もみんな、フウカ先生が大好きだった。
「みんなはもう、先に降りちゃったよ」
フウカ先生は、視線を通路の先へちらっと向けて言う。それだけで、背中まである黒髪が、さらりと揺れた。
先生は僕の目を、心配そうな顔でのぞき込んでくる。
クセのない黒髪が、眉毛の上で揃えられている。その下にある瞳は深く澄んでいて、見つめられるたびに僕は、何も言えずに固まってしまうのだった。
そんな僕に、先生はゆっくりと手をのばしておでこに触れる。
「熱は……ないみたいね。大丈夫?立てる?」
先生は手を当てて自分のおでこと暑さを比べた後、笑顔に戻って聞いてきた。
さすがにおでことおでこを合わせて測ってはくれなかったか。いやいや、中学生にもなってそれはさすがに恥ずかしすぎるだろ。……でも、フウカ先生だったらいいかも。
なんてことを考えていると、フウカ先生が笑顔のまま首を傾げた。
こんなことを考えてる場合じゃなかった。僕は慌てて、首を大きく縦に振る。
「だ、大丈夫です。なんか、変な夢を見ただけです。すぐに行きます」
大急ぎで座席から立ち上がり、自分の荷物を棚から降ろす。
「慌てないでいいわよ。みんな出口で並んでるから、転ばないように来てね」
フウカ先生は立ち上がると、他に残っている生徒はいないか、忘れ物はないかなどを確認しながら歩いて行った。
その後ろ姿を、名残惜しい気持ちをもったまま見送った。
フウカ先生は、おっぱいもおしりもけっこう大きい。それもまた男子生徒に人気がある理由のひとつではあるが、僕はそんなの関係ないと思っている。
僕は、優しくてみんなに真剣に向き合ってくれるフウカ先生が好きなのだ。けっして、おっぱいとかおしりとか、そんなところを見ているわけではない。
うん、大丈夫だ。
僕は急いで荷物を背負うと、列になっているクラスメイトの後ろへむかった。
――――――
「やったー、ついに地獄から解放されたー」
固い廊下を踏みしめる感触に、ついつい声を上げてしまった。
周りの友達が、ニヤニヤ笑って突っついてくる。うざいくらいしつこかったが、僕はそれでも上機嫌だった。
僕の乗り物嫌いは、クラスのみんなには知れ渡っていた。
なにしろ、小学校からほとんどみんな一緒なのだ。遠足も、友達との遠出の時も、僕は乗り物に乗ると必ず気分が悪くなっていた。だから、今回のようにすぐに寝たおかげで調子がいい僕というのは、みんなの目には新鮮に映っているようだった。
そんな僕の楽しい気持ちに水をさすように、トゲトゲしい声が飛んできた。
「ナニはしゃいじゃってるのよ、みっともない。ずっと寝てただけなのに、いい夢でも見れたって言うの?」
声の主は、腕を組んで僕を睨みつけていた。
クラス委員長、山崎アカネ。
まじめで責任感があると先生たちには好評だが、僕ら男子生徒に対しては、容赦のない言葉を銃弾のごとく飛ばしてくる、とてもイヤな女子だった。
山崎は僕を標的にしたようで、お供の女子二人とともに目の前まで来た。
「飛行機の中で、みんなでゲームをやったのに、あなた一人だけずっと寝てたのよ。フウカ先生がそのまま寝かせといてって言ったから放っといたけど、みんなでやるゲームなのに、ウチのクラスだけ一人いないのよ。あなたは自分がクラスの和を乱してるって自覚あるの?」
山崎は赤い髪のツインテールを揺らして、顔を突き出してくる。
僕は彼女から顔をそむけながら、横にいた横田という友達に聞いた。
「そのゲームで、僕がいないから負けたとか?」
「いや、勝ち負けのあるゲームじゃなかったぜ」
横田は首を振って答えた。
「僕のせいで負けたんなら謝るけど、違うなら別にいいじゃん」
「あのね!あたしはそんな事を言ってるんじゃないの!みんなが参加するゲームなんだから、みんなでやるのが当たり前でしょ?寝るくらい眠いなら、昨日のうちからしっかり寝ておきなさいよ。体調管理もできないなんて、小学生みたいでみっともないのよ」
「僕は起きてたくないから寝たんだよ。僕は乗り物が苦手なのはみんな知ってるだろ?起きてた方が気持ち悪くなって、みんなに迷惑かけてたに決まってるよ」
僕が言い返すと、周りの男友達も、そうだそうだと一緒に言う。
「そうだぜ、中島って乗り物乗ると、絶対に吐くか死んでるかするからな。世話する奴が必要になるし、寝ててくれる方がみんな盛り上がれるって」
おい横田、さすがにそれは言い過ぎだろ。
「だから、あたしが言ってるのはそんな事じゃないの。聞いてる?修学旅行って、みんなの思い出を作るためにするものでしょ?寝てたら思い出もなにもないじゃない。あたしはあなたのために……あなたのために言ってるわけじゃないんだからね!!」
なんで最後怒鳴るんだよ。理屈がまったく通ってないよ。女子ってホントわけがわからない。
「僕は、気分悪くならずに移動できたっていういい思い出ができれば、それで十分だよ」
というかそれが最高なんだけど。
あの気分の悪さ、みじめさは、あの気持ちを味わった人間にしかわからないだろう。
乗り物酔いしたことない人に、あの気持ちを分かれとは言わない。でもせめて、つらいんだなと察して、手を貸さないまでも放っておいてほしいと思う。他人に迷惑をかけるのは、とっても嫌だからこそそう思う。
でも、山崎にはそれはわかってもらえないようだった。
「それって自己チューじゃない。みんなクラス一緒の思い出をつくりたいのに、ひとりだけ、自分がよければそれでいいなんて、あなたサイアクよ!」
山崎はそう言い切り、その取り巻きは彼女の後ろで、そうよそうよとまくし立てる。
悪いのは、僕の方なのだろうか。
なにも言い返せずにいると、山崎はフンっと言って向こうを向いた。それに合わせて、ツインテールがパタパタ揺れる。
「もういいわよ。今回は見逃してあげるけど、次のバス移動は絶対に起きてなさいよ。また別のゲームするんだからね」
そう言い残して、取り巻きを引き連れて去って行った。
その後ろ姿を、僕は身動き一つできずに見送った。
「あーあ。中島も大変だな。まあ頑張れよ?」
横田の無責任なセリフも、どこか遠いところから響いてくるように聞こえる。
「中島?大丈夫か?」
僕は大変なことを忘れていた。いや、忘れたふりをして、現実を直視しないようにしていただけだ。それを山崎に思い出させられてしまったのだ。
「おーい、中島、聞こえてるか?」
目の前で手を振り、呼びかけてくる横田へ視線を向ける。
「次、バス移動だったんだね……」
「当然だろ。空港から旅館まで移動しなくちゃならないじゃん。ほっきゃーどーはでっきゃーどーだからなっ」
いつも楽しく笑わせてくれるこの友達を、無性に殴りたくなる時がときどきあった。