鬼狂
残酷な描写を含みます。ご注意ください。
女は一人、途方に暮れていた。
見知らぬ山。木々は覆い被さるように繁り、谷はまるで人を呑もうとするかのように口を開けている。辺りが暗いことから察するに、夜も更けているのだろう。
そんな時間に見る木々や谷は不気味でしかなく、もしやそれらは、自分を喰らおうと狙う怪異などでは――そんな考えが女の脳裏を駆け巡る。
恐ろしくなり、自分で自分を抱き締めるようにして数歩後退る女。小さな音にも過敏に反応し、自分で踏んだ枝が折れる音にも肩を跳ねさせる。
この山は普通ではない、何かおどろおどろしい雰囲気を纏っている。それを本能的に感じ取ったからこそ、女はこうも怯えているのだ。
気付けばここにいたという事実も、恐怖を増長させていた。家から出た覚えすらないのだ。
――何者かに操られていたとでも言うかのように、その辺りの記憶だけが抜け落ちていた。
「……ここは、どこ……?」
女がそう呟くのとほぼ同時に、背後から土を踏む音が聞こえた。
振り返るべきか、振り返らざるべきか。
女は迷う。振り返った先に何か恐ろしいものがいたら――。
「お姉さん」
聞き覚えのある声。
女は迷いを捨て、振り返った。この声の持ち主ならば、恐れることはない。それは、愛しい人の妹分の声だった。
「ねぇ、ここがどこかわかる?」
女は、少女に親しげな口調で話しかける。
「うん。知ってるよ」
愛らしく微笑んで頷く少女。
「ここはねぇ……」
少女がゆらりと動く。その瞳は、真っ赤に光っている。
なにか、様子がおかしい。
「うふふ……」
少女は、楽しそうに笑う。
よく見ると、少女の頭丁部には小さな一対の角。
「お、鬼……!?」
そう、それは鬼そのものだった。
危険を察知した女は逃げ出そうとするが、既に遅し――。
少女が女に飛びかかり、首元に食らい付く。ぐさりと、なにやら牙のようなものが突き刺さった。激しい痛みと、恐怖。
女は、自分の決断が誤りだったことを知った。
「あ、ぁ……いや……」
女には、自分の筋肉や血管が千切れる音が聞こえていた。
必死に振りほどこうとするが、幼子とは思えぬ力で押さえつけてくる少女から逃れることは敵わず――。
「いやぁあぁあ――!!」
最後の叫びと共に、首と体が解離した。
切断部から血が吹き出し、女の着物や地面、少女にも飛び散りおぞましい花弁を咲かす。
なにも見えなくなる直前に思い浮かべたのは、愛しい人の顔だった。
「ここはね……お姉さん。お姉さんのお墓」
少女は女の首を持ち上げる。
「うふふ。お姉さんが悪いんだよぉ……? わたしの大事なモノ、盗ろうとするから」
もう聞こえていない耳に囁き、笑みを咲かせる。
頬にべったりと付着した女の血や肉片さえなければ、首を持っているという異様ささえなければ、それはとても無邪気な笑み。
「悪い虫は退治しなきゃ……ね」
手にも付いていた血を舐めとる。
「……まずい」
少女は味に対して感想を述べ、首を投げ捨てると、軽やかな足取りで山を降りていった。
その姿を見送るのは、女の死体と地面に転がる幾つかの髑髏。これらの持ち主も、ここで少女に殺されたのだ。
――女は知らなかった。ある男に近付く女たちが、ことごとく姿を消していることを。