9.婚約者の訪問
領主の子息の結婚式まであと二ヶ月を切ったある夜。
一人の青年がシロガネ家の一室の扉を叩いた。
しばらく息を殺したような静けさが室内から伝わってくる。
「ジュリエラ。いるんだろう?」
青年が婚約者の名を呼ぶと、また、居心地の悪い沈黙が返ってくる。青年は美しい銀色の髪を苛立ち紛れに掻く。再度ノックをして扉の前で待つ。
やがて、扉が開いたかと思えば、そこにいたのはジュリエラが気に入っている侍女だった。
「ギンロ様、申し訳ありませんが、お嬢様は既に夜着をお召して、寝台の中におります。お急ぎのご用事でしたら、私がお嬢様にお伝えいたしますが?」
夜と言っても、まだ日が落ちて数時間しか経っていない。ギンロはジュリエラの早すぎる就寝に違和感を覚えたが、追求することもまた面倒だった。どうせ、この侍女はジュリエラの味方だ。この嘘を問い詰めても、そう簡単に真実を言ったりはしないだろう。
ギンロは軽く首を振った。
「いや、大丈夫だ、明日にでもまた来よう。いい夢を、とだけ言っておいてくれ。」
「かしこまりました。」
その侍女は内心さっさと追い払いたくて仕方なかったのだろうが、少なくとも表面上は従順に頭を下げた。ギンロは一瞥すらせずに背を向け、自室へと足を向ける。
彼の婚約者は距離感のつかめない、扱いづらい女だと思う。しかしながら、成り上がりのシロガネ家には、由緒ある血統の娘との結婚は必要不可欠である。面倒ではあるが、仕事と割りきって結婚し、夫婦となり、子を成すしかないのだろう。彼女も親の借金のためにこんな成金に嫁がされて憐れではある。だが、貴族の子女であればそれは必然と言ってもいいことだ。幼いときから恋愛など出来ないものだと諦めているだろう。それならば、もう少し相互理解のために話し合おうとしたっていいはずだ。ギンロはそう思う。なんにせよ、面倒くさい妻を持つことになりそうだ。
侍女はギンロの姿が廊下の角を曲がり、見えなくなるまで扉を守るように立っていた。
ロゼが主人の部屋に戻ると、ジュリエラは身体を強張らせて寝台の上に座っていた。枕をきつく抱きしめ、わずかに震えてすらいる。
度々夜にジュリエラの私室に訪れるギンロは、決して挙式前に彼女をどうこうしようとは思っていないだろう。それくらいはジュリエラもロゼも分かっている。そもそも彼はジュリエラに対してさほど興味も好意も持っていない。単に政略結婚であるために、周囲に仲の良さをアピールしているだけのつもりなのだろう。成金とはいえ豪商であるシロガネ家の嫡男はあまり予定にゆとりがあるわけではない。仕事を終えて、様子を見に来るとこういう時間になってしまうのだと思われる。
ジュリエラもそれは分かっているのだ。彼は少し時間が空けば、婚約者の人柄を知ろうと、少しでも結婚前に互いのことを分かり合おうと、彼女の元に訪れている。それは夜に限定したことではない。日中の忙しさから夜の来訪が多いだけだ。
「お嬢様、大丈夫ですよ。ギンロ様はお帰りになられました。」
ロゼが優しく主人の背を撫で、報告する。ジュリエラはこくこくと頷く。しかし、身体の震えは止まらない。乱れた呼吸の音が聞こえた。
どうしてこんなことになっているかと言えば、それにはまた、ロゼからすれば非常に腹立たしい貴族社会らしい事件があったからだ。ジュリエラの幼い頃の婚約者は、ギンロではなかった。
その婚約者は非常に酒癖の悪い男だった。悪酔いした彼がまだ幼かったジュリエラに、婚約者だからと詰め寄った。深夜に体格のいい男が寝室へとやってきて、寝台へと押さえつけられ、酒臭い息があたり、下卑た言葉を耳元で囁かれた。必死の抵抗も空しくあわやというところで、使用人がやってきてなんとか止めに入った。
結局何事もなかったとはいえ、幼いジュリエラが心に受けた傷の大きさは計り知れない。そして、決してその行動が原因で婚約破棄されたわけではないのだ。キュピレアナ家から遺憾の意を示す書状を送り、相手の家から謝罪の文言が届いた。それだけである。今キュピレアナ家が没落していく様子に、その男の家からやんわりと断りが入った。その所業に、ロゼはこれだから貴族は、と何度も言っていた。
そして、今のキュピレアナ家はシロガネ家との婚約を破棄されるわけにはいかない。ジュリエラがどれだけ嫌な思いをしようとも、キュピレアナ家から何か言うことはあり得ない。遺憾の意すら示せないのである。ジュリエラがこんな状態になるにも関わらず、ギンロの夜の訪問を止めるよう強く言えないのも、シロガネ家からの婚約破棄を恐れるキュピレアナ家の意向ゆえだ。
「ギンロさん、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………。」
乱れた呼吸の合間に、か細い声で何度も何度も謝罪を繰り返す。きつくつむった目尻には、涙がにじんでいた。
ロゼは、自身の服に縋りつく主人を見て、自分の無力さを呪う。背中を撫でることしかできない、自分にひどく腹が立つ。きっと、ジュリエラはロゼがそう思っていることを知れば、ロゼがそう思っていた事実に少しだけ悲しそうな顔そして否定するのだろう。ロゼがいるだけでどれだけ助かっているか、いくらでも挙げてくれるのだろう。そんな優しい主人を、ロゼはとても慕っている。慕っているからこそ、何もできないことが悔しいのだった。
「…………お嬢様、今日はどうされますか? こちらでお休みになれないようでしたら、外出なさってもいいのですよ。」
ロゼは、未だ震えるジュリエラに問う。
けれど、ジュリエラは少し躊躇ってから首を横に振る。
ジュリエラは一時期、ギンロの夜の訪問に怯え不眠に悩まされていた時期があった。食欲もなくなり、目に見えてやつれていた。それでもジュリエラは家のために、毎晩訪れるギンロには身体の震えを隠して笑顔を見せて多少の会話をしていた。無理をして気丈に振る舞う彼女が痛ましく、ロゼはずっと歯がゆい思いをしていたのだ。
だから、ジュリエラが思い付きのように呟いた脱走計画を強引に実行させてしまった。雨の日にあてもなく街をさまよい、風邪気味になったジュリエラが屋敷に帰ってきたとき、ロゼは泣いて謝罪した。
ところが、ジュリエラはとびきり素敵な人に拾われ、安心できる寝床を貸してもらったと言う。それから、数日おきに屋敷を抜け出し、その人のもとへ出掛ける日々が三年以上続いている。
ギンロはジュリエラが時折夜に不在なことに気付いているような雰囲気だが、特に何を言うでもない。帰ってきた翌日は、ジュリエラがいつもより明るいことにも気付いているからだろうか。シロガネ家の人間は、ジュリエラのことをただの血統を得るための道具としか見ていないが、ギンロだけは違うようなのだ。ジュリエラに興味はないが、多少は彼女の境遇を憐れんではいる、といったところか。
「今夜は、外出はなさらないのですね?」
「…………こんなところ、あの人に見せられないもの。きっと、すごく心配するのよ。だから、今日は行かないわ。」
ジュリエラはようやく落ち着いたようだ。表情は硬く顔色も悪いし、指先は冷えきっている。しかし、呼吸の乱れと震えは止まっていた。
「でしたら、お茶を淹れましょうか。このままでは眠れないでしょう?」
「…………ええ、熱いお茶をお願い。」
きっと、今夜、ジュリエラは浅い睡眠をなんとかとれるかどうか、といったところだろう。ロゼはせめて主人が少しでも穏やかな気持ちになれるよう、慣れた手つきで茶の用意を始めた。
「ヨナなら、ホットミルクをいれてくれるのかな…………。」
貴族の令嬢ではなく、ただの年頃の恋する少女らしい呟きは、ロゼは聞かなかったことにする。その言葉は、ジュリエラに安心できる寝床を提供できる唯一の人間への信頼と、その人を恋慕う想いが零れ落ちたもの。きっと、ジュリエラは口に出そうと思ったわけではないだろう。
ロゼは淹れたての茶を、主人のもとへと運んでいった。